RAVEN
- 7 -
三日も経つ頃には、二人の暮らしにリズムが生まれていた。
流星は、午前中はモデルをして、そのあとレイヴンと一緒にランチをとり、午後は主に職探しをしている。夜は家に戻って、レイヴンの手料理を馳走になる。これも意外なのだが、彼は自負していた通り、料理が上手だった。
基本的に、レイヴンはアトリエの住人だった。
作業机の前に座って、ジオラマ鉱石の創作をしているか、キャンパスの前にいて様々な世界を描いている。制作にストイックで、アーティストとして一人の時間を大切にしていた。
意外なほど人づきあいをしないレイヴンだが、人気アーティストであることは間違いない。彼が作品をネットにアップすると、瞬く間に数万人に共有されるのだ。
流星のモデルとしての仕事は、まぁ、今のところは順調である。レイヴンは簡単な指示しかださないので、初心者の流星でも問題はなかった。
指示の内容は、レイヴンの気分次第だ。椅子に座るよう指示されることもあれば、立った状態で後ろ姿をデッサンされることもある。
昨日は、ひたすら手の動きだけを描いていた。鉛筆を握ったり、カップを摘まんだり、本をめくったり……細々とした指の動きを丁寧にスケッチしていた。
今日は、着替えるように指示された。シャツに寄った複雑な皺や陰影なんかを描きたいらしい。
流星は無地のパーカーを脱ぐと、洗いたてのレイヴンの白いシャツに着替えた。どうということはないと思っていたのに、着替えた途端に、サイズの違いを意識して落ち着かない気分にさせられた。
そわそわと袖を折り返している流星を見て、レイヴンは機嫌良さそうに笑っている。
「ちょっと大きいみたいだ」
流星は照れ臭そうにいった。
「似合っていますよ。椅子に座って、本を読んでいてくださいね」
さしだされた雑誌を見て、流星の瞳が輝いた。最新号のダ・ヴィンチだ。好きな雑誌なので、モデルをしていることも忘れて読み耽ってしまう。
「ありがとうございます、流星さん。次は、僕の方を向いてもらえますか?」
しばらくして、レイヴンがいった。いわれた通りに正面を向いた流星は、青碧 の瞳と遭い、ぱちっと電流が流れたような気がした。
「十分ほど、その姿勢でお願いします」
「判った」
十分なら楽勝だ。そう思ったが、意外に難しい。図らずも見つめあってしまい、背中がむずむずする。かといってレイヴンの襟あたりを見つめていると、視線を要求されてしまう。
「流星さん、リラックスして。僕のことは背景と思えばいいですから」
流星は苦笑いを浮かべた。完璧な容姿でアピールを放っているレイヴンを、背景とは到底思えない。
「俺はシャイなの。人と目をあわせるの苦手なんだよ」
「僕でも? もう見慣れたでしょう?」
「いいや、全然」
思わず即答した流星は、含み笑いを口元に浮かべるレイヴンを見て、後悔した。
「じゃあ、少し練習しましょうか……」
ふいに熱の灯った眼差しを向けられ、流星の鼓動が跳ねた。慌てて視線を逸らすが、
「ちゃんと僕を見てください」
傍にやってきたレイヴンは、流星の頬に手を添えて、じっと瞳を覗きこんできた。完璧な美貌が、すぐ目の前にある。急に呼吸の仕方が判らなくなってしまった。
「近い近い、近いから!」
顔を背けようとするが、頬を両手に包まれてしまい、そうもいかない。
「何事も練習ですよ。多少は視線が揺らいでも構いませんから、ちゃんと僕を見て」
「うぅ……っ」
流星が弱り切った声をだすと、レイヴンは優しく笑った。
「視線を逸らそうとするの、癖なんですか?」
「まぁ、そうかな」
「もったいない。流星さん、綺麗な瞳をしているのに」
「む、そう? ……ありがとう」
「流星さん、瞳が澄んでいるから、どんな角度から見ても、光が綺麗に映りこむんですよ」
「いやいや、レイヴンの瞳の方がきらきらしているよ」
レイヴンは小さく吹きだした。
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてるよ……っていうか、なんだこの会話」
恥ずかしくなり、流星は視線を泳がせた。二人の距離が驚くほど近いことに気がついて、さりげなく身体を離そうとしたが、レイヴンは屈みこんできた。
「僕は流星さんの瞳は、本当に綺麗だと思います。初めて話した時から、そう思っていましたよ……」
間近に迫る彼の肢体に圧倒されて、流星は息を止めた。レイヴンは何もいわずに、じっと青い瞳で見つめてくる。
「……サンキュな」
つとめて軽く返事すると、流星は伸びあがるふりをして席を立った。少々わざとらしかったが、レイヴンは何もいわなかった。
困ったことに、彼は、こういう真意を測りかねる誘惑を、流星に対して頻繁にしかけてくるのだった。
例えば別の日には、硝子の卵に活けられた青い花を一輪、芸術家らしい繊細な手で摘まみ、徐 に流星の耳のうえに挿したりするのだ。
それは完全に不意打ちで、恋人にするような甘い仕草に、流星は耳の先まで朱くなってしまった。
「何するんだよ」
「流星さん、かわいい」
レイヴンは目を和ませた。星形に開いた青い花びらが、流星の赤く染まった耳の上で咲いている。
「俺より、レイヴンの方が似合うよ」
流星は、耳から花びらをとると、レイヴンの耳に挿そうとした。しかし、熱っぽい青碧 の瞳を見た途端に怖気づいてしまった。
「……くれないの?」
催促するレイヴンに、手渡そうとするが、レイヴンは顔を横向けて、さらりとこぼれる紅茶色の髪を耳にかけた。
「ここ」
耳に挿せとねだる。流星は指が震えそうになりながら、形の良い耳に指を伸ばした。
「似合いますか?」
「うん……」
耳に花を飾って、天使がほほえんでいる。流星は完全に心臓を撃ち抜かれた。
レイヴンは、見惚れている流星を見つめたまま、流星の右手をもちあげ、指先に柔らかく唇を押しつけた。
「あ……」
我に返った流星は、慌てて手をとり返した。痛いほど鼓動が鳴っていて、まるで全身が心臓になったかのように感じられた。レイヴンは真剣な顔をしたかと思えば、ふっと悪戯めいた笑みを浮かべ、別の花を摘まんで、流星の耳に素早く飾った。
「ふふ、かわいい。少し、そのままの姿勢でいてくださいね」
「えっ、描くの?」
「花をとったらいけませんよ」
レイヴンは鼻歌まじりに鉛筆を走らせた。彼は機嫌良さそうにしているが、流星はそれどころではなかった。膝に置いた掌を強く膝に押しつけ、レイヴンの唇の感触を必死に忘れようとする。
(レイヴンのあれは、普通なのか? 俺が自意識過剰すぎるのか?)
考えるうちに混乱してきて、モデルの役目を終えると、逃げるようにしてアトリエを飛びだした。そのまま外出することも考えたが、露骨すぎる気がして思い留まった。
幸い、心を落ち着けるのにちょうど良い中庭なら、すぐそこにある。サンダルを引っかけて庭にでると、空に向かって白い息を吐いた。
空気は冷たいが、小春日よりの午後である。空は柔らかな色合いの青で、様々な花が咲き乱れる庭に燦 と陽が降り注いでいる。
「流星さん」
振り向くと、そこにレイヴンがいた。
心臓が強く鼓動を打ち、これからも彼の姿を一目見るだけで、自分はこのような反応をしてしまうのだろうかと流星は思った。
「やぁ、レイヴン……」
彼の方へ近づこうとし、足がもつれて身体が傾いた。
「危ない!」
蹴躓いて転びかける流星の腰を、レイヴンはしっかり腕で支え、転倒を防いだ。
「焦った……」
流星は心臓をばくばくさせながら、顔をあげた。端正な顔が目の前にある。お互いにはっとしたように息をのんだ。煌く青い瞳に、唖然とした顔の流星が映っている。
「ごめん」
「いえ、急に声をかけてすみませんでした」
「俺がぼんやりしていたんだよ」
流星が姿勢を正す間も、レイヴンは肘に手をそえて離れようとしなかった。
「……レイヴン?」
戸惑ったように流星が呼ぶと、レイヴンは目を瞬いた。
「さっきは、すみません……僕のせいで、嫌な思いをさせてしまいましたか?」
「いや、恥ずかしかっただけだよ」
流星は誤魔化すように笑ったが、頬が熱くなっているのは誤魔化しようがなかった。
「明日も、モデルをお願いできますか?」
「もちろん」
努めて明るくいうと、レイヴンは安堵したような、何かを期待しているような顔になった。彼のそうした表情を見るたびに、勘違いしてしまいそうになる。
複雑な思いを隠して、流星は笑うしかなかった。
流星は、午前中はモデルをして、そのあとレイヴンと一緒にランチをとり、午後は主に職探しをしている。夜は家に戻って、レイヴンの手料理を馳走になる。これも意外なのだが、彼は自負していた通り、料理が上手だった。
基本的に、レイヴンはアトリエの住人だった。
作業机の前に座って、ジオラマ鉱石の創作をしているか、キャンパスの前にいて様々な世界を描いている。制作にストイックで、アーティストとして一人の時間を大切にしていた。
意外なほど人づきあいをしないレイヴンだが、人気アーティストであることは間違いない。彼が作品をネットにアップすると、瞬く間に数万人に共有されるのだ。
流星のモデルとしての仕事は、まぁ、今のところは順調である。レイヴンは簡単な指示しかださないので、初心者の流星でも問題はなかった。
指示の内容は、レイヴンの気分次第だ。椅子に座るよう指示されることもあれば、立った状態で後ろ姿をデッサンされることもある。
昨日は、ひたすら手の動きだけを描いていた。鉛筆を握ったり、カップを摘まんだり、本をめくったり……細々とした指の動きを丁寧にスケッチしていた。
今日は、着替えるように指示された。シャツに寄った複雑な皺や陰影なんかを描きたいらしい。
流星は無地のパーカーを脱ぐと、洗いたてのレイヴンの白いシャツに着替えた。どうということはないと思っていたのに、着替えた途端に、サイズの違いを意識して落ち着かない気分にさせられた。
そわそわと袖を折り返している流星を見て、レイヴンは機嫌良さそうに笑っている。
「ちょっと大きいみたいだ」
流星は照れ臭そうにいった。
「似合っていますよ。椅子に座って、本を読んでいてくださいね」
さしだされた雑誌を見て、流星の瞳が輝いた。最新号のダ・ヴィンチだ。好きな雑誌なので、モデルをしていることも忘れて読み耽ってしまう。
「ありがとうございます、流星さん。次は、僕の方を向いてもらえますか?」
しばらくして、レイヴンがいった。いわれた通りに正面を向いた流星は、
「十分ほど、その姿勢でお願いします」
「判った」
十分なら楽勝だ。そう思ったが、意外に難しい。図らずも見つめあってしまい、背中がむずむずする。かといってレイヴンの襟あたりを見つめていると、視線を要求されてしまう。
「流星さん、リラックスして。僕のことは背景と思えばいいですから」
流星は苦笑いを浮かべた。完璧な容姿でアピールを放っているレイヴンを、背景とは到底思えない。
「俺はシャイなの。人と目をあわせるの苦手なんだよ」
「僕でも? もう見慣れたでしょう?」
「いいや、全然」
思わず即答した流星は、含み笑いを口元に浮かべるレイヴンを見て、後悔した。
「じゃあ、少し練習しましょうか……」
ふいに熱の灯った眼差しを向けられ、流星の鼓動が跳ねた。慌てて視線を逸らすが、
「ちゃんと僕を見てください」
傍にやってきたレイヴンは、流星の頬に手を添えて、じっと瞳を覗きこんできた。完璧な美貌が、すぐ目の前にある。急に呼吸の仕方が判らなくなってしまった。
「近い近い、近いから!」
顔を背けようとするが、頬を両手に包まれてしまい、そうもいかない。
「何事も練習ですよ。多少は視線が揺らいでも構いませんから、ちゃんと僕を見て」
「うぅ……っ」
流星が弱り切った声をだすと、レイヴンは優しく笑った。
「視線を逸らそうとするの、癖なんですか?」
「まぁ、そうかな」
「もったいない。流星さん、綺麗な瞳をしているのに」
「む、そう? ……ありがとう」
「流星さん、瞳が澄んでいるから、どんな角度から見ても、光が綺麗に映りこむんですよ」
「いやいや、レイヴンの瞳の方がきらきらしているよ」
レイヴンは小さく吹きだした。
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてるよ……っていうか、なんだこの会話」
恥ずかしくなり、流星は視線を泳がせた。二人の距離が驚くほど近いことに気がついて、さりげなく身体を離そうとしたが、レイヴンは屈みこんできた。
「僕は流星さんの瞳は、本当に綺麗だと思います。初めて話した時から、そう思っていましたよ……」
間近に迫る彼の肢体に圧倒されて、流星は息を止めた。レイヴンは何もいわずに、じっと青い瞳で見つめてくる。
「……サンキュな」
つとめて軽く返事すると、流星は伸びあがるふりをして席を立った。少々わざとらしかったが、レイヴンは何もいわなかった。
困ったことに、彼は、こういう真意を測りかねる誘惑を、流星に対して頻繁にしかけてくるのだった。
例えば別の日には、硝子の卵に活けられた青い花を一輪、芸術家らしい繊細な手で摘まみ、
それは完全に不意打ちで、恋人にするような甘い仕草に、流星は耳の先まで朱くなってしまった。
「何するんだよ」
「流星さん、かわいい」
レイヴンは目を和ませた。星形に開いた青い花びらが、流星の赤く染まった耳の上で咲いている。
「俺より、レイヴンの方が似合うよ」
流星は、耳から花びらをとると、レイヴンの耳に挿そうとした。しかし、熱っぽい
「……くれないの?」
催促するレイヴンに、手渡そうとするが、レイヴンは顔を横向けて、さらりとこぼれる紅茶色の髪を耳にかけた。
「ここ」
耳に挿せとねだる。流星は指が震えそうになりながら、形の良い耳に指を伸ばした。
「似合いますか?」
「うん……」
耳に花を飾って、天使がほほえんでいる。流星は完全に心臓を撃ち抜かれた。
レイヴンは、見惚れている流星を見つめたまま、流星の右手をもちあげ、指先に柔らかく唇を押しつけた。
「あ……」
我に返った流星は、慌てて手をとり返した。痛いほど鼓動が鳴っていて、まるで全身が心臓になったかのように感じられた。レイヴンは真剣な顔をしたかと思えば、ふっと悪戯めいた笑みを浮かべ、別の花を摘まんで、流星の耳に素早く飾った。
「ふふ、かわいい。少し、そのままの姿勢でいてくださいね」
「えっ、描くの?」
「花をとったらいけませんよ」
レイヴンは鼻歌まじりに鉛筆を走らせた。彼は機嫌良さそうにしているが、流星はそれどころではなかった。膝に置いた掌を強く膝に押しつけ、レイヴンの唇の感触を必死に忘れようとする。
(レイヴンのあれは、普通なのか? 俺が自意識過剰すぎるのか?)
考えるうちに混乱してきて、モデルの役目を終えると、逃げるようにしてアトリエを飛びだした。そのまま外出することも考えたが、露骨すぎる気がして思い留まった。
幸い、心を落ち着けるのにちょうど良い中庭なら、すぐそこにある。サンダルを引っかけて庭にでると、空に向かって白い息を吐いた。
空気は冷たいが、小春日よりの午後である。空は柔らかな色合いの青で、様々な花が咲き乱れる庭に
「流星さん」
振り向くと、そこにレイヴンがいた。
心臓が強く鼓動を打ち、これからも彼の姿を一目見るだけで、自分はこのような反応をしてしまうのだろうかと流星は思った。
「やぁ、レイヴン……」
彼の方へ近づこうとし、足がもつれて身体が傾いた。
「危ない!」
蹴躓いて転びかける流星の腰を、レイヴンはしっかり腕で支え、転倒を防いだ。
「焦った……」
流星は心臓をばくばくさせながら、顔をあげた。端正な顔が目の前にある。お互いにはっとしたように息をのんだ。煌く青い瞳に、唖然とした顔の流星が映っている。
「ごめん」
「いえ、急に声をかけてすみませんでした」
「俺がぼんやりしていたんだよ」
流星が姿勢を正す間も、レイヴンは肘に手をそえて離れようとしなかった。
「……レイヴン?」
戸惑ったように流星が呼ぶと、レイヴンは目を瞬いた。
「さっきは、すみません……僕のせいで、嫌な思いをさせてしまいましたか?」
「いや、恥ずかしかっただけだよ」
流星は誤魔化すように笑ったが、頬が熱くなっているのは誤魔化しようがなかった。
「明日も、モデルをお願いできますか?」
「もちろん」
努めて明るくいうと、レイヴンは安堵したような、何かを期待しているような顔になった。彼のそうした表情を見るたびに、勘違いしてしまいそうになる。
複雑な思いを隠して、流星は笑うしかなかった。