RAVEN

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「へ?」
 流星の唇から、思わず頓狂な声がこぼれた。
「部屋は幾つも余っていますし、すぐにでも使えますよ。家賃もいりませんから」
「はは、ありがとう。気持ちだけもらっておくよ」
「そんな風に断らないでください。さっきの僕の態度が原因なら、改めます。無理矢理迫ったりしませんから」
「判ってるよ、真に受けたわけじゃないから」
 流星は空気を明るくしようと朗らかにいったが、レイヴンは不満そうな顔をした。
「それもちょっと違うけれど……いえ、なんでもありません。ぜひ、検討してみてください。通いの家政婦もシェフもいるから、家事炊事をする必要はありませんよ。自分の家のように過ごしてくださって構いませんから」
「いやぁ、しかし……俺なんかと住んでも、レイヴンにいいことないだろう?」
「あります! 流星さん、僕のモデルになってくれませんか?」
「モデルぅ?」
 思わず頓狂な声で、流星は鸚鵡返しに訊ねた。
「はい。デッサンの練習をし直そうと思っていて、絵画教室に通うか、モデルを雇うか迷っていたんです。流星さんが引き受けてくれたら、すごく助かります」
 レイヴンは、これ以上の名案はないとばかりに満悦の笑みを浮かべている。思わず、彼の正気を疑いそうになるが、どうやら真面目にいっているらしい。
「その発想はなかったな……俺じゃモデルにならないだろう」
「なりますよ。お願いします、流星さんを描かせてください! もちろん、相応の金額をお支払いしますから」
「モデルなんてやったことないぞ。第一、報酬といっても、未成年からもらうわけにもいかないだろう」
「もうすぐ二十歳になりますよ。きちんと、自分で稼いだお金からお支払いしますから」
「いや、俺なんか描いても面白くないでしょ。その気持ちだけで十分だから」
 じりじりと後退する流星を、獲物を追いつめるかのようにレイヴンが追いかけてくる。
「僕は慰めでいっているわけじゃありません。お互いにプラスになる提案をしているんです」
 レイヴンの回答は淀みがない。両肩を掌に包まれて、流星は盛大に狼狽えた。
「ぜひ、うちに住んでください。部屋はたくさん余っているし、モデルが傍にいれば、僕も絵を描きやすいし」
「え、えぇ? 本気なの?」
「もちろん本気です。うちはこの通り資産家ですから。謝礼は正当な報酬として、遠慮なく受け取ってください」
「いやいやいや、落ち着けって」
「落ち着いています。僕は、流星さんと一緒に暮らしてみたい……流星さんは?」
(えーっ!? どういう意味??)
 深読みしすぎて硬直する流星を、レイヴンはじっと見つめてくる。
「流星さんがいてくれたら、すごく嬉しい……」
 静かな熱を灯した、青碧せいへきの瞳に訴えられて、流星は怯んだ。
「……その、嫌じゃない?」
 色々と、内容の濃い身の上話を明かしてしまった自覚はある。それなのに、彼は同居することに抵抗はないのだろうか?
 怯えが入り混じった風に訊ねる流星を見、レイヴンはにっこりした。
「いいえ、ちっとも。流星さん、僕のモデルになってくれますか?」
 流星は顔に戸惑いを浮かべた。ただでさえ彼に惹かれているのに、同居などしたら、いっそうのめりこんでしまいそうだ。城嶋で懲りたばかりだというのに――やっぱり断わろうとした時、レイヴンに手を握りしめられた。思わずはっとなり、彼の青い瞳を覗きこんでしまう。
「お願いします、流星さん。いいといってください。貴方が嫌がることは絶対にしませんから」
 真剣な表情で請われて、流星の胸は高鳴った。彼の口調は、まるで好きな女を口説く男のそれだ。いや、相手は流星なのだけれども。彼は判っているのか? 俺はゲイなんだぞ……と、流星はかぶりを振った。
(落ち着け――レイヴンが、俺に本気になるわけない……うん、ない。妙に気に入ってくれているみたいだけど……)
 さっきの告白の真意は謎だが、彼は礼儀正しくて、とても誠実な感じがする。だからといって、簡単に気を許してはならない、心のなかでどんな恐ろしいことを企んでいるか判らないのだから――猜疑心が囁くが、あんなにも素敵な作品を生みだすレイヴンが、城嶋のように豹変するとは、どうしても思えなかった。
 そういった懸念を抜きにして状況を俯瞰すると、彼の提案が、棚からダイヤモンド級の、一生に一度あるかないかの、非常にラッキーな出来事のように思えてきた。
 ホテル並みの好待遇で、渋谷に十分ででていける立地で、賃料ゼロ。むしろ謝礼つき。しかも、あのレイヴンと同居できるのだ。彼の制作する姿を、生で見れるのだ。断ってどうする?
「……判った、俺で良ければモデルを引き受けるよ。部屋を貸してくれるのも、正直ありがたいし」
 レイヴンは日向に咲いたような、満面の笑みを浮かべた。
「やったぁ!」
 まるで子供のように喜ぶので、流星もつい笑ってしまった。彼の傍にいて、笑顔でいない方が難しい。
「喜ぶのは俺の方でしょ。変わっているなぁ、レイヴンは。俺なんかをモデルにして、後悔しても知らないぞ」
「するわけありませんよ。僕はとても嬉しいです。ありがとう、流星さん」
「おう……」
 美しい微笑に見惚れてしまい、流星はそっと視線を反らした。
 結局、その日はレイヴンの邸に泊めてもらうことになった。瀟洒な客室に案内されたが、流星はなかなか寝つくことができなかった。瞼を閉じても、レイヴンのことを考えてしまう。
 今日起きたことが、今でも信じられない。あのレイヴンに声をかけられ、邸に招待されたなんて。同じ屋根の下で、彼も眠りに就いているのだ。
(ううむ、信じられん……そうは見えなかったが、彼も相当に酔っぱらっていたのかな……?)
 モデルも部屋を貸してくれる話も、全部酒の勢いで、目が醒めたら彼は綺麗さっぱり忘れているかもしれない。
 だが、そんな心配は杞憂に終わった。
 一晩が明けても、レイヴンの勢いは変わらなかった。今日にでも引越してくればいい、流星を朝から熱烈に口説いた。
 流星は躊躇ったが――お互いの存在を何年も前から知っていたとはいえ、口をきいたのは、昨日が初めてなのである――最後は、彼の熱意にほだされ、首を縦に振った。
 出会ってから十五時間と三十分。二人は電光石火で同居生活を始めることに決めたのだった。