RAVEN

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 二十三時。流星は、部屋のソファーに身を沈めたまま、じっとしていた。考えていることはいつもと同じ――ここ数日の出来事だ。
 あの忌まわしい写真が届いたあくる朝。レイヴンは警察へいった。流星も声をかけられたが、拒むと、彼は頷いて一人ででかけた。
 それからしばらく、拍子抜けするほど平穏な日々が続いた。
 警察が何度か訪ねてきて、近くを巡回してくれるようにもなった。あの手紙の件で、レイヴンは流星に対して過保護になった。近所のコンビニにいくだけでも庇護本能を刺激されるらしく、思案気な眼差しをよこすのだ。
 その変貌ぶりを流星が茶化すと、レイヴンは、悔いるように端正な顔を両手に沈め、
「ごめんなさい、元恋人を異常者だなんて非難しておきながら、僕の言動ときたら……誓って、束縛するつもりはないんです」
 これには流星の方が慌てた。
「判ってるよ。レイヴンが俺を心配してくれているんだってことは」
 ほっとしたような顔のレイヴンを見て、流星も自分にかつをいれた。いつまでも、彼に甘えてばかりはいられない。いい大人が仕事もせず、十二歳も年下の青年に衣食住を頼り切りとは情けない。早く城嶋の件にケリをつけ、仕事と家を見つけて、ちゃんとしたかった。
 悩みは他にもある。
 最近、夢見がよくないのだ。夜中にうなされているらしく、心配で様子を見にやってきたレイヴンに、何度か揺り起こされた。その度に落ちこむ流星を、レイヴンは優しく慰めてくれる。三度目からは、心配だからと添い寝までしてくれるようになった。
 彼の優しさを嬉しいと思う一方で、怖いとも思う。こんな幸せがいつまでも続くはずがないという、不安を拭えないのだ。レイヴンとの暮らしに欠乏感を癒されながら、城嶋から受けた恥辱を思いだし、時間遡行をしている。
 油断するんじゃないぞ。いい顔をしておいて、安心しきったところで態度を一変させるかもしれないぞ――悪夢はいわば、無意識の防衛本能で、危険を察知する嗅覚を研ぎ澄ませておけと警告しているのかもしれない。
 そうかと思えば、甘くて、幸せなレイヴンの夢を見ることもある。
 些細な日常の場面を夢に見ることが多いが、恋人のように触れあっている夢を見ることもある。
 後ろから抱きしめられながら映画を見ていたり、ソファーで一緒にうたた寝をしていたり……熱烈にキスを交わしていることもある。一体どのような妄想なのか、二人でプールに入り、セックスしている夢を見たこともある。
 あの日から、レイヴンは流星に触れなくなった。モデルは続けているが、至って健全なものだ。これで良かったのだと思いつつ、寂しくも感じていて……欲求不満なのかもしれない。
(レイヴン、レイヴン……好きだ……)
 笑い声、ほほえみ、彼の唇……耳に囁く甘い声。流星を捕らえる、オーロラのような蒼い瞳。嗚呼、彼と結ばれたら……手をつないで街を歩いたり、ただ肩を並べて映画を見たり、キスをして眠りに就けたらどんなに……
 目が醒めた時の虚しさときたらない。
 悪夢は目が醒めると安堵を覚えるが、レイヴンの夢を見たあとは、酷く落ちこまされる。
 ありえないと判っているくせに、心の奥底ではそのような願望を抱いているのだろうか? レイヴンと恋人になれるなんて――考えることすらおこがましいというのに。
 そんな夢を見たあとは、本人と顔をあわせるのが非常に気まずい。笑顔で挨拶をしてくれる彼に、罪悪感を覚えてしまう。
(そろそろ限界なのかな……)
 もう、恋愛感情に振り回されて、ぼろぼろになるのは嫌だった。城島の時はただただ夢中で、全身全霊を賭けたが、悲惨な結末に終わった。
 薄弱な根拠というなかれ、もう一度賭けてみる勇気はないのだ。
 仮に、レイヴンが本当に流星を好いてくれているとしても、あの美貌だ。情熱はやがて冷めるだろう。破綻の引き金など、いくらでも考えられる。不変の関係などないのだ。
 それにレイヴンを受けいれたとして、別れる時、流星がのめりこんでいない保証はどこにある? 城嶋の呪縛は三年続いた。同じ過ちを繰り返さない保証はどこにある?
(心を明け渡しても、碌な結果にならなかったじゃないか。俺は一人でいる方が、しゃんとしていられるのかもしれない)
 後ろ向きで、保身的な考えだと頭の片隅に思うが、一番傷つかずに済む、最良の選択だという気持ちの方が強い。
 流星は深く息を吐きだし、項垂れた。スマホを起動し、城嶋のアドレスをじっと見つめる。彼のアドレスはまだ連絡帳に残してあるが、とっくに暗記している。
 早く決断しなければならない。城嶋に会いにいく勇気。レイヴンから離れる覚悟……なかなか踏ん切りがつかないが、もうあまり迷っている暇はない。
 失恋なら慣れっこだ。最初はきつくても、時間が癒してくれる。経験で知っている。
 けれども今度ばかりは、徹底的に打ちのめされるだろう……彼は特別だから。レイヴンのような人に出会えるとは、思っていなかったのだ。

 十二月二十三日。レイヴンは仕事で一日家を空けることになった。ジオラマに使う鉱石や骨董の仕入れ、作品受注の打ち合わせで帰りは遅くなるという。
「すぐに戻りますから、家にいてくださいね」
「うん」
「警報装置がついているから、不審な侵入者がいれば、即時にサイレンが鳴ります。その時は外の様子を確認しようとせず、すぐに警察に通報してください」
「判った」
「何かあったら、携帯に連絡してくださいね」
「うん」
 何度も念を押してくるレイヴンに、流星は苦笑を浮かべた。
「俺は大丈夫だから、レイヴンの方こそ気をつけて」
「ええ、でも……」
 まだ何かいおうとするレイヴンの頭に流星は手を伸ばし、紅茶色の髪をくしゃっとかき混ぜた。
「いってらっしゃい」
 レイヴンは髪を乱されたまま、真意を探るように流星の目を覗きこんできた。流星は意志の力で笑みを顔に貼りつけた。二人の間に、薄くて強固な硝子が一枚、はさまっているように感じられた。
「……判りました」
 レイヴンは意味深長にほほえむと、手櫛で自分の髪を整え、今度は流星の髪に触れた。優しく何度か撫でながら、
「何かあれば、いつでも呼んでくださいね。すぐにいきますから」
「……うん」
 流星がそっと視線を外すと、レイヴンは身を屈めて、流星の頭にキスを落とした。
「いってきます」
 レイヴンは身体を離すと、流星をほんの数秒ほど見つめてから、家をでていった。
 扉が閉まったあとも、流星はその場に立ち尽くしていた。
「……ごめん」
 誰にいうともなく呟いて、ようやく踵を返し、静かに階段を上っていく。すっかりなじんだ部屋に入ると、感慨深く見回した。これで見納めだと思うと、この家で過ごした日々が、走馬燈のように脳裏を駆け巡った。短い間だったが、本当に居心地の良い家だった。レイヴン……かけがえのない、特別な人と過ごした家。
 荷物は既にまとめてある。いつでもでていける。
 スマホを手にとり、深呼吸をすると、城嶋の番号を押した。