RAVEN
- 13 -
<もしもし?>
深みのある声を聞いた途端に、流星は動悸が乱れるのを感じた。声が震えないように気をつけながら、唇を開いた。
「……久しぶり」
<ああ……久しぶり。元気にしているか?>
城嶋は人の好さそうな、打ち解けた声でいってきた。
「写真を送ったの、城嶋だよな?」
<どうかな?>
含みのある笑いを聞いた瞬間、こいつが犯人だと流星は確信した。
「目的は?」
<そう急ぐなよ。二人で話せないか?>
「……」
<明日の朝まで東京にいるんだ。気が向いたら、連絡をくれ>
「今日このあとは?」
<構わないよ。十七時過ぎでもいいか?>
「判った」
<よし。それじゃあ、丸の内で飯でも食おう。近くまできたら連絡してくれ>
「判った……」
電話を切ったあと、流星は息をはいた。思ったより平常心でいられたが、やはり緊張していたらしい。端末を持つ手が、小刻みに震えている。
「しっかりしろ」
声にだして気合をいれると、リビングにメモを残し、そのまま玄関に向かった。
靴を履きかえて、扉に手をかける。と、その前に振り向いて、家のなかを眺めた。大きなシャンデリアも東洋の絨毯も、初めて見た時は度肝を抜かれたが、今ではすっかり見慣れてしまった。
不意に、押し寄せる想い出が流星の胸をつまらせた。この美しく暖かい家で、レイヴンの傍で、多彩な夢を見させてもらった。
でていったことを知ったら、彼は怒るだろうか? それとも哀しむだろうか?
……好意を踏みにじるようで忍びないが、許してくれることを祈るしかない。落ち着いたら、あらためて連絡しよう。
痛切な思いを抱えながら、流星は扉を開いた。そのまま振り返ることなく、真っすぐに下北沢駅の道を進んだ。
井の頭線で渋谷駅までいき、山の手線に乗り換える前に城嶋にメールをした。返事はすぐにきて、ホテルのバ-を指定してきた。
新設されたばかりのホテルらしく、内装は真新しくて綺麗だった。
時間通りに流星が店に入ると、バーのカウンターに座っている城嶋が手をあげた。
相変わらず、一部の隙もない完璧な装いをしている。上等な仕立てのチャコールグレーのスーツ。腕に光る、ダイヤをあしらった高級時計。磨きあげられた革靴……カウンターで飲む姿が、嫌みなほど似合っている。
一方、流星はPUMAのスニーカー、チノパンにざっくりした編みこみのセーターという姿だ。城嶋の傍へいく足取りは重たかったが、ここまできたからには覚悟を決めるしかない。
黙って隣に座ると、城嶋は口元を笑みに和らげた。明晰 でいて、どこか陰鬱な瞳に、懐かしい光が灯る。
「久しぶりだな、流星」
穏やかで深みのある声を懐かしく思いながら、流星もぎこちなくほほえんだ。
「……久しぶり」
「元気だった?」
「知ってるんじゃないの?」
「写真ではね。流星が急に消えたから、探偵を雇って探してもらったんだ」
寛いだ様子の城嶋と違って、流星は全身に緊張を漲らせていた。周囲に人がいても、彼の傍にいることが怖い。まともに顔を見ることもできず、さっきから薄いブルーのシャツの襟あたりを見つめている。
「……目的は?」
「会いたかったよ」
「……」
「驚いたよ、まさかRAVENと一緒に住んでいるとはね。一体、どうやって出会ったんだ?」
「……彼には近づかないでくれ」
流星は硬い声でいった。視線をあわせると、城嶋は軽く肩をすくめてみせた。
「どういう関係なんだ?」
「居候させてもらっているだけだよ」
「セックスは?」
流星はかっとなりかけたが、目を瞬いて、必死に心を落ち着かせた。
「……そういうんじゃない。絵のモデルを頼まれたんだ。引き受ける代わりに、部屋を借りているだけだよ」
「モデル?」
城嶋は意外そうに笑った。
「裸で?」
「違う」
「RAVENって、ゲイだろう?」
流星の顔が強張った。
「違うよ」
「どうやって出会ったの?」
「……そんなことを訊いて、どうするんだよ?」
「ただの興味だよ。彼は、どうやって流星を見つけたのかなって」
流星はかぶりを振った。
「彼の個展で、偶然声をかけられただけだよ」
「偶然?」
城嶋は含み笑いを浮かべていった。馬鹿にされたと感じて、流星は上目遣いに睨みつけた。
「何?」
「いや、なんでも……けど、話はあいそうだな。流星に声をかけるあたり、好みが似ているのかも」
流星は膝の上で拳を握りしめた。
「……さっき、彼の家をでたきたんだ。戻るつもりはない。これ以上、関わらないでほしい」
城嶋は膝上に置いた手に、自分の手を重ねてきた。
「そう、彼の家をでたんだ。それがいいよ……じゃあ、俺のところに戻ってくる?」
「……」
「流星がでていって寂しいよ……俺は一人だ」
流星は唇を噛み締めた。ふとした瞬間に見せる、こうした彼の弱々しい姿に、幾度となく振り回されてきた。三年もの間、彼の傍から離れることができなかったのも、強靭な彼の弱さを知っていたからだ。
「もう、終わりにしよう、正嗣」
「……終わらせるつもりはない。流星は、俺のものだろう?」
流星は眉を寄せた。
「正嗣のそういう束縛が、嫌いじゃなかったよ。だけどもう、無理なんだ。離れたいと思っちゃだめ?」
「だめだ。離れるなんて許さない」
「そう思うなら、もっと大切にしてほしかったよ。俺は、正嗣が怖いんだ。二人になると、殺されるんじゃないかって、怯えてしまうんだ……っ」
城嶋は悔いるように瞼を伏せた。
「酷いことをしたと思っている。もう絶対にしない」
流星はかぶりを振った。
「もう遅いよ。正嗣と離れて、自分の人生を生きたい」
「聞いてくれ、流星がでていってすごく後悔したんだ。本当なんだ」
「じゃあなんで、盗撮なんてしたんだよ……っ」
封筒に入った写真をまざまざと思いだし、恥辱と困惑がどっと襲ってきて、その容赦のなさに流星は吐きそうになった。
「お前を取り戻すためだ。帰ってきてくれるなら、全部捨てる。約束する」
「信じられないんだよ、もう。正嗣の言葉は」
流星は泣きそうな顔で訴えた。
「頼む。戻ってきてくれ」
城嶋は頭をさげた。彼がここまでするとは思っておらず、流星は狼狽えた。
「やめてくれ、人が見てる」
城嶋はゆっくり顔をあげると、真摯な眼差しで流星を見つめた。
「傷つけて悪かった。もう酷いことはしない、絶対に。約束する」
城嶋は殊勝な顔と声でいったが、これまでされてきたことを思うと、俄かには信じられなかった。過去、幾度となく痛めつけられる度に、流星が泣いて懇願しても、この男は絶対に聞き容れようとしなかった。
「頼む、もう一度だけ、チャンスをくれないか? 流星が好きなんだ。戻ってきてくれるなら、データは全部消す。約束する。同居している男にも正式に謝罪する」
必死な表情でまくしたてられ、流星は愕然となった。よもや、これほどまで執着されているとは。送ってきた写真は嫌がらせではなく、まさしく流星を取り戻すための、取引材料だったのだ。
流星は整理しきれぬ困惑を覚えながら、ゆっくり首を振った。一世一代の努力で、きっぱりと告げた。
「……悪いけど、無理だ。俺はもう、正嗣とはいられない」
恐ろしい静寂の瞬間が訪れた。城嶋は唇を噛み締めたが、流星が危惧したような激昂を起こしたりはしなかった。
「どうしても、だめか?」
「……ごめん」
流星は頭をさげた。この男に苦しめられたことを思えば、謝るのは筋が違うようにも思うが、プライドの高い男が、なりふり構わず赦しを求めてきたのだと思うと、応えることのできない罪悪感を覚えずにはいられなかった。
「……写真、」
「判った。俺も、脅すような真似をして、悪かった」
流星は顔をあげた。探るように城嶋の目を覗きこむと、彼もレンズの奥からじっと見つめ返してきた。
「全部捨てるよ。ノートPCにバックアップがある。出張帰りで、このホテルに泊まってるんだが、部屋にPCを置いてきた。ちゃんと目の前で消すところを、見届けてくれないか?」
「え?」
流星が戸惑った顔をすると、城嶋は困った顔になった。
「自分でも、盗撮はやりすぎたと反省しているんだ。データは全部消すから、訴訟は勘弁してくれないか?」
一瞬、二人きりになることへの警戒心が芽生えたが、城嶋の言い分にも納得がいく。流星は逡巡し、承諾した。
会計を済ませてエレベーターに乗ろうとした時、流星の端末が震えた。
レイヴンだ。
着信とメールが幾つも届いていたが、開きもせずに電源を落とした。
「いいのか?」
城嶋は気になったようだが、流星は頷いただけで、返事はしなかった。
深みのある声を聞いた途端に、流星は動悸が乱れるのを感じた。声が震えないように気をつけながら、唇を開いた。
「……久しぶり」
<ああ……久しぶり。元気にしているか?>
城嶋は人の好さそうな、打ち解けた声でいってきた。
「写真を送ったの、城嶋だよな?」
<どうかな?>
含みのある笑いを聞いた瞬間、こいつが犯人だと流星は確信した。
「目的は?」
<そう急ぐなよ。二人で話せないか?>
「……」
<明日の朝まで東京にいるんだ。気が向いたら、連絡をくれ>
「今日このあとは?」
<構わないよ。十七時過ぎでもいいか?>
「判った」
<よし。それじゃあ、丸の内で飯でも食おう。近くまできたら連絡してくれ>
「判った……」
電話を切ったあと、流星は息をはいた。思ったより平常心でいられたが、やはり緊張していたらしい。端末を持つ手が、小刻みに震えている。
「しっかりしろ」
声にだして気合をいれると、リビングにメモを残し、そのまま玄関に向かった。
靴を履きかえて、扉に手をかける。と、その前に振り向いて、家のなかを眺めた。大きなシャンデリアも東洋の絨毯も、初めて見た時は度肝を抜かれたが、今ではすっかり見慣れてしまった。
不意に、押し寄せる想い出が流星の胸をつまらせた。この美しく暖かい家で、レイヴンの傍で、多彩な夢を見させてもらった。
でていったことを知ったら、彼は怒るだろうか? それとも哀しむだろうか?
……好意を踏みにじるようで忍びないが、許してくれることを祈るしかない。落ち着いたら、あらためて連絡しよう。
痛切な思いを抱えながら、流星は扉を開いた。そのまま振り返ることなく、真っすぐに下北沢駅の道を進んだ。
井の頭線で渋谷駅までいき、山の手線に乗り換える前に城嶋にメールをした。返事はすぐにきて、ホテルのバ-を指定してきた。
新設されたばかりのホテルらしく、内装は真新しくて綺麗だった。
時間通りに流星が店に入ると、バーのカウンターに座っている城嶋が手をあげた。
相変わらず、一部の隙もない完璧な装いをしている。上等な仕立てのチャコールグレーのスーツ。腕に光る、ダイヤをあしらった高級時計。磨きあげられた革靴……カウンターで飲む姿が、嫌みなほど似合っている。
一方、流星はPUMAのスニーカー、チノパンにざっくりした編みこみのセーターという姿だ。城嶋の傍へいく足取りは重たかったが、ここまできたからには覚悟を決めるしかない。
黙って隣に座ると、城嶋は口元を笑みに和らげた。
「久しぶりだな、流星」
穏やかで深みのある声を懐かしく思いながら、流星もぎこちなくほほえんだ。
「……久しぶり」
「元気だった?」
「知ってるんじゃないの?」
「写真ではね。流星が急に消えたから、探偵を雇って探してもらったんだ」
寛いだ様子の城嶋と違って、流星は全身に緊張を漲らせていた。周囲に人がいても、彼の傍にいることが怖い。まともに顔を見ることもできず、さっきから薄いブルーのシャツの襟あたりを見つめている。
「……目的は?」
「会いたかったよ」
「……」
「驚いたよ、まさかRAVENと一緒に住んでいるとはね。一体、どうやって出会ったんだ?」
「……彼には近づかないでくれ」
流星は硬い声でいった。視線をあわせると、城嶋は軽く肩をすくめてみせた。
「どういう関係なんだ?」
「居候させてもらっているだけだよ」
「セックスは?」
流星はかっとなりかけたが、目を瞬いて、必死に心を落ち着かせた。
「……そういうんじゃない。絵のモデルを頼まれたんだ。引き受ける代わりに、部屋を借りているだけだよ」
「モデル?」
城嶋は意外そうに笑った。
「裸で?」
「違う」
「RAVENって、ゲイだろう?」
流星の顔が強張った。
「違うよ」
「どうやって出会ったの?」
「……そんなことを訊いて、どうするんだよ?」
「ただの興味だよ。彼は、どうやって流星を見つけたのかなって」
流星はかぶりを振った。
「彼の個展で、偶然声をかけられただけだよ」
「偶然?」
城嶋は含み笑いを浮かべていった。馬鹿にされたと感じて、流星は上目遣いに睨みつけた。
「何?」
「いや、なんでも……けど、話はあいそうだな。流星に声をかけるあたり、好みが似ているのかも」
流星は膝の上で拳を握りしめた。
「……さっき、彼の家をでたきたんだ。戻るつもりはない。これ以上、関わらないでほしい」
城嶋は膝上に置いた手に、自分の手を重ねてきた。
「そう、彼の家をでたんだ。それがいいよ……じゃあ、俺のところに戻ってくる?」
「……」
「流星がでていって寂しいよ……俺は一人だ」
流星は唇を噛み締めた。ふとした瞬間に見せる、こうした彼の弱々しい姿に、幾度となく振り回されてきた。三年もの間、彼の傍から離れることができなかったのも、強靭な彼の弱さを知っていたからだ。
「もう、終わりにしよう、正嗣」
「……終わらせるつもりはない。流星は、俺のものだろう?」
流星は眉を寄せた。
「正嗣のそういう束縛が、嫌いじゃなかったよ。だけどもう、無理なんだ。離れたいと思っちゃだめ?」
「だめだ。離れるなんて許さない」
「そう思うなら、もっと大切にしてほしかったよ。俺は、正嗣が怖いんだ。二人になると、殺されるんじゃないかって、怯えてしまうんだ……っ」
城嶋は悔いるように瞼を伏せた。
「酷いことをしたと思っている。もう絶対にしない」
流星はかぶりを振った。
「もう遅いよ。正嗣と離れて、自分の人生を生きたい」
「聞いてくれ、流星がでていってすごく後悔したんだ。本当なんだ」
「じゃあなんで、盗撮なんてしたんだよ……っ」
封筒に入った写真をまざまざと思いだし、恥辱と困惑がどっと襲ってきて、その容赦のなさに流星は吐きそうになった。
「お前を取り戻すためだ。帰ってきてくれるなら、全部捨てる。約束する」
「信じられないんだよ、もう。正嗣の言葉は」
流星は泣きそうな顔で訴えた。
「頼む。戻ってきてくれ」
城嶋は頭をさげた。彼がここまでするとは思っておらず、流星は狼狽えた。
「やめてくれ、人が見てる」
城嶋はゆっくり顔をあげると、真摯な眼差しで流星を見つめた。
「傷つけて悪かった。もう酷いことはしない、絶対に。約束する」
城嶋は殊勝な顔と声でいったが、これまでされてきたことを思うと、俄かには信じられなかった。過去、幾度となく痛めつけられる度に、流星が泣いて懇願しても、この男は絶対に聞き容れようとしなかった。
「頼む、もう一度だけ、チャンスをくれないか? 流星が好きなんだ。戻ってきてくれるなら、データは全部消す。約束する。同居している男にも正式に謝罪する」
必死な表情でまくしたてられ、流星は愕然となった。よもや、これほどまで執着されているとは。送ってきた写真は嫌がらせではなく、まさしく流星を取り戻すための、取引材料だったのだ。
流星は整理しきれぬ困惑を覚えながら、ゆっくり首を振った。一世一代の努力で、きっぱりと告げた。
「……悪いけど、無理だ。俺はもう、正嗣とはいられない」
恐ろしい静寂の瞬間が訪れた。城嶋は唇を噛み締めたが、流星が危惧したような激昂を起こしたりはしなかった。
「どうしても、だめか?」
「……ごめん」
流星は頭をさげた。この男に苦しめられたことを思えば、謝るのは筋が違うようにも思うが、プライドの高い男が、なりふり構わず赦しを求めてきたのだと思うと、応えることのできない罪悪感を覚えずにはいられなかった。
「……写真、」
「判った。俺も、脅すような真似をして、悪かった」
流星は顔をあげた。探るように城嶋の目を覗きこむと、彼もレンズの奥からじっと見つめ返してきた。
「全部捨てるよ。ノートPCにバックアップがある。出張帰りで、このホテルに泊まってるんだが、部屋にPCを置いてきた。ちゃんと目の前で消すところを、見届けてくれないか?」
「え?」
流星が戸惑った顔をすると、城嶋は困った顔になった。
「自分でも、盗撮はやりすぎたと反省しているんだ。データは全部消すから、訴訟は勘弁してくれないか?」
一瞬、二人きりになることへの警戒心が芽生えたが、城嶋の言い分にも納得がいく。流星は逡巡し、承諾した。
会計を済ませてエレベーターに乗ろうとした時、流星の端末が震えた。
レイヴンだ。
着信とメールが幾つも届いていたが、開きもせずに電源を落とした。
「いいのか?」
城嶋は気になったようだが、流星は頷いただけで、返事はしなかった。