メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

7章:ニーレンベルギア邸襲撃 - 9 -

 弾丸は空気を裂いて、ティカの耳の横をすり抜けた。
 はらりと、幾筋かの黒髪が舞う。
 戒められた口の隙間から、荒い呼気が漏れた。命中はしていない。生きている。生きている……!
 銃弾は壁を穿うがち、石屑をぼろりと剥がしただけ。
 鼓膜が今さっきの銃声に震えている。死んだと思った。なぜ、生きているのか。なぜ、撃たなかったのか。
 男は、怜悧な美貌を不愉快げに歪めると、呆然と見上げるティカのこめかみに、銃口を押し当てた。

「うぅっ」

 冷却装置のついた銃とはいえ、射撃後の熱した銃身は、ティカの肌を僅かに焦がした。
 首を逸らして睨みつけると、ふと男は何かに気付いたように、隻眼を僅かに見開いた。

「その跡は?」

「……?」

 咄嗟に理解できなかった。戸惑うように見上げるティカを見下ろし、男は容赦なく、手で襟を思いきり引っ張った。
 薄いシャツは悲鳴を上げる。布が擦れて、ティカも苦痛に顔を歪める。唐突に口の戒めを解かれた。

「う……っ」

 訳が判らない。肩で息をしながら混乱と共に見上げると、男はティカの首筋を撫でた。

「これはどうした?」

 これ……肌を彩る――ヴィヴィアンのつけた跡のことだ。絶句するティカを見て、男は悟ったように、口元に嘲弄ちょうろうを浮かべた。

「触るな!」

 怒りと羞恥がい交ぜになり、ティカは吠えるように叫んだ。

「あの男に、抱かれているのか?」

 声には、皮肉げな響きが多分に含まれていた。長い指は、悪戯にティカの首筋を辿る。

「離せっ!!」

「は、あの男にそんな趣味があったとは」

 男は、侮蔑を込めて吐き捨てると、怜悧な美貌をティカの首筋に沈めた。血が出ない程度の力で、そこに噛みつく。

「ひ……!」

 喉から微かな悲鳴が漏れた。男は言葉もなく、噛みついた跡に舌を這わせる。身体はたちまち恐怖に凍りついた。
 訳の判らぬまま、麻のシャツを男の手に引き裂かれ、白地の布は見るも無残に破けた。縄に戒められている腹の上まで、素肌が露わになる。

「怖いか?」

 男は、素肌に指を滑らせながら、銃口を再びティカの額に押し当てた。
 恐い……額に押し当てられた銃口も、肌に触れる指も怖い。肩は小刻みに震え出した。

「ぅ……ヴィー」

 男が簡単に弱音を上げては……そうは思っても、か細い声が漏れた。ヘルジャッジ号に、ヴィヴィアンの元に帰りたい。

「もう一度だけ、聞いてやろう。ビスメイルにくるか?」

 なけなしの矜持きょうじをかき集めて、首を左右に振った。瞳には涙の膜が張ったが、泣くまいと必死に堪える。

「強情な……」

「ぐっ!」

 銃口を、口の中に突き入れられた。硝煙の香りと、鋼の味が舌に乗った瞬間、思考は恐怖に染まる。

「俺は、無残にお前を殺すこともできる」

 死の宣告――
 男は何も言わず、ただ静かにティカを見下ろしている。
 冷たい隻眼に浮かぶ感情が、何であるかは判らない。怒り、苛立ち、混乱……或いは、そのどれでもなく、全く別の感情かもしれない。
 とにかく、この男が気まぐれに指を引けば、ティカは死ぬ。
 身体中から冷や汗が吹き出した。
 永遠とも思える時間が流れた後、唐突に口から銃が出てゆく――ティカは叫んだ。

「ジョー・スパーナッ、メル・アン・エディールッ!」