メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

7章:ニーレンベルギア邸襲撃 - 10 -

 ジョー・スパーナは衝撃を受けたように、隻眼を瞠ったまま、動きを止めた。

「僕を、は、離せ」

 震える声で命じると、男は強い眼差しでティカを見た。腕を伸ばし、縛られたままのティカを、きつく抱きしめる。先ほど噛みついた首筋に顔を沈めて、そこに激しく吸い突いた。

「やめ……っ、離せぇっ!!」

「ティカ……ッ」

 声は、狂おしい響きを孕んでいた。

「離せったら!」

「離せないッ!!」

 ほとばしる魂の叫びは、空気を震わせた。恐怖するティカに気付き、男は黒髪に指を潜らせ、宥めるように優しく梳く。

「何でも望みを叶えてやる。だが、お前を離すことだけは……」

 声量を落として、静かに耳朶に囁いた。愛おしそうに、ティカのこめかみや頬に口づけてゆく。
 繰り返される記憶――血と硝煙の立ち込める甲板の匂いが、蘇った。
 動かぬ身体に戦慄が走る。

「……っ」

 忌まわしい記憶ごと振り払うように、ティカが煩さげに頭を振っても、男は何度も薄い唇を押し当てる。
 恐怖に見上げると、熱に浮かされた蒼い隻眼に射抜かれた。ティカの唇や首筋、露わになった胸を視線は辿り……ちりちりと焦がす。

「み、見るな」

 声は震えかけた。怯えを悟られたくなくて、俯こうとするティカの顔を、ジョー・スパーナはわざわざ覗き込もうとする。
 熱の灯った隻眼でティカを見つめて、涙の滲んだ目元に唇を寄せる。彼には慰めのつもりでも、ティカには恐怖でしかない。

「……何もしないで」

「あの男には、許すのに?」

 口元に皮肉げな笑みを溜めて、隻眼に険しい光が宿る。ティカの身体についた朱の跡は、首筋にとどまらず、胸や腹にも散っていた。

「ヴィーはいいんだ」

 嘲笑を跳ね除けるように、ティカは涙に濡れた双眸で睨みあげた。
 どうしたことか、蒼氷色アイス・ブルーの瞳は嫉妬に燃え上がる。激情に駆られたように、きつくティカを抱きしめた。

「愛している……!」

 腕に囚えたティカの耳朶に、渇望を囁く。

「は、離せ」

「……あの日から、どうしてかお前を夢に見る」

「……っ!?」

「忘れられない。数千もの艦隊を沈めた勝利の美酒ですら、あれほど胸を熱くは……酔いしれはしなかった」

 聞きたくない。厭わしげにティカが首を振っても、薄い唇は執拗に追いかけ、こめかみや頬に触れる。

「腹にもらい受けた傷痕を見る度、胸の奥が疼く……なぜ、あれほど甘美であったのか」

「言うな!」

「還らぬ熱を探すように、お前に触れた僅かな一時を夢に繰り返して……俺は、夢の中でティカを……っ」

 情熱と苦慮を孕んだ告白は途切れ、涙に濡れたティカの頬を、男は両手で包み込んだ。

「離せっ」

「忘れられなかった」

「うぅ……っ」

「微笑み一つくれなくてもいい……傍にいるなら」

 見下ろす蒼氷色には、見紛うなき熱が灯されている。視線が唇に落ちるのを感じて、ティカは恐怖した。

「やめて……っ」

 ついに声は無様に震えた。
 もう、耐えられない。
 視界が絶望に染まりゆく中、待ち望んだ声を聞いた気がした。“ティカ”意識を繋ぐ一条の光――ヴィヴィアンの声。