メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

7章:ニーレンベルギア邸襲撃 - 15 -

 陽は沈み、空は暗く覆われている。
 舳先へさきに灯りがともされる頃、ティカは船縁ふなべりから引き揚げられた。もう、自分の力では一歩たりとも動けない。
 縄を解かれ、ぐったり甲板に伸びていると、シルヴィーとヴィヴィアンが傍に膝をついた。

「反省した?」

 頭上に、穏やかなヴィヴィアンの声が降る。

「アイ……」

 天地新明、アトラス様に誓って。海よりも深く、心の底から……
 濡れそぼった黒髪に、二つの手が伸ばされる。優しい手に触れられるだけで、心は震えて涙が溢れた。
 二人共、真剣な表情で涙を流すティカを見下ろしている。

「約束して。どんな小さな危険にも油断しないって」

「アイ」

「最大限に自衛して。俺達から、絶対に離れないで」

 金色を散らす青い瞳は、ティカを射抜くように見つめている。彼の真剣さが、痛いほど伝わってくる。

「アイ……ッ」

 震える声で返事すると、ヴィヴィアンに抱きしめられた。待ち望んだ、優しい抱擁だ。首に腕を回してしがみつくと、頭を撫でられた。

「心配した……」

 真剣な気遣いの窺える声で、シルヴィーも告げる。彼もまた、労わるようにティカの頭を撫でた。優しい手つきに、新たな涙が頬を濡らす。
 叱られて悲しかったし恐かったけれど、それだけ想われているのだと知って、感動に胸が震えるのだ。
 自分の身に何か起きた時、サーシャを措いてほかに、これほど心配してくれる人達が今までいただろうか?

「心配かけて、ごべんなざい……っ」

 感極まったように声を詰まらせ、今こそ心から謝る。しゃくりあげるティカの頬を拭いて、ヴィヴィアンはこめかみに優しいキスを落とした。

「はぁ……無事で良かった」

 声には、疑いようのない安堵の響きが籠っていた。ティカを抱きしめる腕は、増々強くなる。
 彼の言葉に、ティカも同じことを想う。無事に帰ってこれて、彼等の元に帰ってこれて、本当に良かった。

「シルヴィー、仕事の邪魔をしてごめんなさい……」

 彼は今日、アマディウス達と商談をしていたはずだ。あれほど楽しみにしていたサファイアの入手は、駄目になってしまったのだろうか?
 改めて申し訳なくなり、悄然と呟くと、シルヴィーの微笑が聞こえた。

「まだ時間はある。仕切り直すさ」

「ごめんなさい……」

「謙虚なのは結構だがな。それより、心配かけさせたことを反省しろよ」

「アイ……」

 安心感に包まれて、ティカの意識は朦朧とぼやけ始めた。疲労の限界で、瞼が勝手に下りてくる。

「ジョー・スパーナが撤収してくれたのは、幸いだったな」

 疲労の滲んだ声でシルヴィーが呟くと、ヴィヴィアンも疲れたように相槌を打った。更に続ける。

「無限海の海賊だし、どこにでも現れるとはいえ、鉢合わせるとは、ついてないというか……」

「あの男に、裏の顔があると知ってはいたが、ダリヤまでくるとは思わなかった」

 苦々しくシルヴィーが呟くと、腕にティカを抱えたまま、ヴィヴィアンはどうでもよさげに肩をすくめた。

「裏切り者が、諜報の元締めを本気で怒らせたってことだろ。捕まった奴は、これから地獄を見るね」

「同情はしないが、相手が悪過ぎたな」

「やれやれ……うちも“積荷”を思うと、他人事とは言えないよ。同じわだちを辿らぬよう、気をつけないとね」

 ゆっくり立ち上ると、ヴィヴィアンは半睡状態のティカの頬を撫でた。

「掟破りの辿る運命なんざ、どこも同じだ。そんな阿呆がこの船から出ようものなら、八つ裂きにしてやる」

 冷たく言い放つシルヴィーの言葉を、ヴィヴィアンは否定しない。二人はやがて立ち話を切り上げ、上甲板へと足を向けた。
 緩やかな振動を感じながら、ティカは殆ど沈みゆく意識の片隅で、彼等の会話を聞いていた……