メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

7章:ニーレンベルギア邸襲撃 - 14 -

 ティカは、きつく唇を噛みしめた。
 彼等の前で泣くのだけは嫌で、背中を向けて、決然と海をめつける。
 鼓動が煩い。嫌な汗が背中を伝う……
 両腕を縄に戒められた状態で飛び込めば、溺れるかもしれない。兄弟達は、ティカが死んでもいいと思っている?
 そんなわけ、ない――
 でなければ、助けにきてくれるはずがない。これはきっと、度胸を試されているのだ。そうに違いない。
 覚悟を決めて、ティカは船縁ふなべりを思いきり蹴った。

「わぁ――っ!」

 喚き声を上げながら、垂直に落下する。
 海面に足から飛び込み、勢いよく水飛沫を上げた。手を縛られているせいで、うまく水をかけない。思うように水面に出れない!
 焦燥のさなか、両手に結ばれた縄を引っ張り上げられた。海面に顔が出て、船縁に立つマクシムと眼が合う。彼が縄を調節しているようだ。
 おかげで、溺れることはない。ティカは海面から両腕を突き出した状態で、凪いだ湾に沈んでいる。

「よく頭が冷えるまで、謝罪を続けろ」

 頭上から、冷然としたシルヴィーの声が聞こえた。

「ごめんなさーいっ!!」

 彼に聞こえるよう、ティカは大声で喚いた。

「班員、ティカがちゃんと謝罪しているかどうか、見張っていろよ」

 冷静な口調でシルヴィーはマクシム達に告げると、舷側げんそくから姿を消した。それを機に、集まっていた兄弟達も散ってゆく。
 一瞬、見捨てられたのかと思ったが、そうではなかった。彼等が去った後、班仲間がひょいと舷側から顔を覗かせたのだ。

「ごめんな、ティカ。アルバナの帰り、送ってやれば良かったぜ」

 陽気なブラッドレイにしては珍しく、心から済まなそうな口調で謝罪する。しかし、アルバナに連れて行ったことは後悔していないあたりが、彼らしい。

「楽しいことを考えて、気をもてよ!」

 さっきは別人かと思ったが、やはり、ティカのよく知る陽気な彼だ。彼らしい励まし方に、ティカは思わず笑んだ。

「楽しいことかぁ……」

 この結末ではあるが、アルバナ酒家は楽しかった。
 音と光に溢れて、キラキラしていて……何より、仲間と一緒にいたから。大勢で店に出掛けて、和気あいあいと盛り上がるのは、あれが初めての経験だった。また皆と遊びに行きたい。

「叫んでいるうちに、許されるさ」

 船縁で縄を操るマクシムも、温かな笑みをティカに向ける。
 彼は、ティカの負担が少しでも和らぐよう、先ほどから、巧みに緩急をつけて調節してくれていた。

「がんばるっ……ごめんなさーいっ!」

 挫けてなるものかと、ティカは大声で謝罪を叫んだ。
 陽が暮れてゆく――
 半分吊られた状態で謝罪するうちに、疲労はかさみ、意識は揺らぎ始めた。ただ海水に浸かっているだけでも、体力は奪われていく。喉が痛い……

「ごめんなさーい……っ」

 空は暮れなずみ。
 黄金色の夕陽は、間もなく水平線に沈むだろう。空が暗くなっても、このまま海から上げてもらえないのだろうか?
 心が折れそうになり、声が潤みかけると、兄弟達は代わる代わる励ましてくれる。
 班仲間達、ロザリオも、ジゼルも、サディールも……特にオリバーは始終舷側にいた。

「ティカー! めげるなーッ!!」

「うん……ッ」

 視界が揺らいでも、親友の心強い声援を耳は拾う。励まされる度に、どうにか気持ちを立て直した。

「ごめんなさーい……っ」

 船は錨泊びょうはくしているので、航行に引きずられることはないが、手を縛られた体勢で海に浸かるのは楽ではない。

「ごめんなさい……」

 蒼ざめた唇から流れる声は、次第に小さくなり、謝罪の間隔も間が空いた。舷側で見張る兄弟達の耳に届くのか心配であったが、もう、これ以上の声は出そうにない……
 頭がぼうっとすると、時々海の彼方から、海洋に生きる賢い者たちの歌が聞こえた。
 大洋をゆく鯨、イルカ達よ。
 彼等は自由で、優雅で、逞しく、時に命懸けで海洋を長距離に渡り移動する。自在に操る低周波は海を音速で伝わり、何百海里も離れた相手に意志を伝えるのだ。

礁湖ラグーンのゆりかごを出て、哨戒しょうかいにゆこう……編隊を組んで、あの大洋を目指すのだ……”

“海流の向こうは、軟体の棲家だよ……十分に気をつけて”

 霞む意識の片隅で、海を伝わる海洋の生き物の言葉を、ティカは不思議と理解していた。
 若い鯨の群れが、仲間の為に新たな魚場を求め、安全な故郷を離れようとしている。恐れずに、外洋の波濤はとうを越えてゆこうとしている。
 もがき、戦っているのは、ティカだけではない。
 今この瞬間にも、広い無限海のどこかで、海洋の生き物が、人々が、それぞれの道を進まんと歯を食いしばっている。
 海に響く賛歌と、頭上に降る兄弟達の声援に励まされて、謝罪を叫び続け――日没後に赦された。