メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

5章:カルタ・コラッロ - 7 -

 とぼとぼ覇気のない足取りで、ティカは船長室キャプテンズデッキに戻った。

「ティカ」

 いつになく美しい出で立ちのヴィヴィアンは、笑顔で出迎えてくれる。
 彼は優美な縦襟のジュストコールを羽織り、羽のついた三角帽子を被っている。どんな格好をしていても美しいが、今夜は一段と神々しい。

「……ごめんね、明日には戻るから」

「アイ」

 いつも通りに返事したつもりであったが、ヴィヴィアンは浮かべていた笑みを消した。

「眠るまで、傍にいようか?」

「平気です」

 本当は、かなり寂しかった。
 綺麗な格好をしたヴィヴィアンを見るのも辛い。ティカの知らない、誰かの為の装いだから……。

「……そんな顔をされると、離れ難いな」

 どんな顔をしているのだろう。
 狼狽えるティカの腕を引いて、ヴィヴィアンは優しく抱きしめた。仄かにムスクの香りが漂い、胸に切なさがこみあげる。
 行かないで。
 喉まで声が出かかった。胃の腑に鉛を流し込んだような苦しさを覚えながら、どうにか顔を上げて微笑んだ。

「行ってらっしゃい」

 なかなか返事をしてくれない。空気を悪くしてしまっただろうか?

「僕も明日は下船して、オリバーと市場に行ってもいいですか?」

 気を取り直すように、明るい口調で続けた。

「俺も行くよ」

 青い双眸を見上げていると、またしても胸に切なさが込み上げた。

「……アイ」

「何その返事。俺が一緒だと嫌?」

 彼はティカの両肩を掴むと、不服そうに見下ろした。少しだけ愉快な気分を味わいながら、ティカは淡く微笑んだ。

「いいえ、嬉しいです。キャプテン」

「よし。目にもあやな宝石の洪水を見れるぞ。楽しみにしてな」

「アイ」

 大きな手で頭を撫でられる。その手が離れていく瞬間、キャプテン、と無意識に声をかけていた。

「ん?」

 咄嗟に言葉が出てこない。

「どうした?」

 何も言えずにいると、ヴィヴィアンは腰を屈めて、ティカに目線を合わせた。

「ティカ?」

 行かないで。
 青金石色ラピスラズリのような瞳に映りながら、喉まで懇願がせり上がり、慌てて呑み込んだ。

「……ヴィーって呼んでもいい?」

 別のお願いを口にすると、ヴィヴィアンは少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに破顔した。

「いいよ、二人の時ならね」

「ヴィー」

「ん?」

 行かないで、ここにいて。

「……なんでもありません」

 言えない――視線を伏せると、ヴィヴィアンはティカの前髪をより分けて、空いた額に触れるだけのキスをした。
 いつもなら幸せになれるのに、今夜は少し違った。彼にとってティカは、お休みのキスをする子供と同じ……余計に切なさが増した。
 笑顔を作れない。
 顔を上げられずにいると、ヴィヴィアンは片膝をついて跪いた。ティカの顔を覗きこむように仰ぎ見て、力なく垂れた両手を握りしめる。

「ティカ……」

 どこか憂いを含んだ表情の美しい貌を見下ろすと、物言いたげな青い瞳と視線がぶつかった。