メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

4章:リダ沖合海戦 - 5 -

 何が起きてもいいように、ティカは魔法を唱えると同時に部屋の隅へ逃げた。
 注意深くヴィヴィアンの様子を見守っていると、彼もまたシルヴィーやジョー・スパーナ同様に、愕然とした表情を顔に浮かべた。自分の身に起きた変化に戸惑っているようだ。

「……効いた?」

 恐る恐る尋ねると、一瞬の躊躇もなく、効いた、と返る。怖いくらいに真っ直ぐな視線に射抜かれた。

「これは確かに、身を持って体験しないと判らないな……」

 近寄るヴィヴィアンから逃げるようにして、ティカは慌てて扉へ走った。扉ノブに手をかけたところで、上からその手を握られる。

「どうして逃げるの?」

「あぅ……」

 どうしてだろう? ティカにも説明不能だ。振り向くことが、なぜこんなにも怖いのか……
 後ろから包み込むように抱きしめられ、頬にちゅっとキスされると、頭の中は真っ白になった。

「ぼ、僕……もう行っていいですか?」

「つれないな。ティカがこんなに愛しいのに」

「――ッ!」

 なんという衝撃だろう。胸に喜びが込み上げ、春の陽だまりに満たされる!

「うーん。すごい効き目だ」

 喜びは霧散した。ヴィヴィアンに愛してもらえる……それは魔法による、まやかしでしかない。

「一日経てば、元通りですよ……」

「もったいないな。こんなにいい気分なのに……」

 いかにも残念そうな口調に、ふと興味が湧いた。

「どんな気分なんですか?」

 口にした途端に、くるりと身体を反転させられた。いまだかつてない甘い眼差しに見下ろされる。

「……ティカの周りだけ、きらきら輝いて見えるよ。かわいいティカ。星の散った薔薇のような面差しも、金色に燃える夕陽みたいな瞳も、小さな唇も……って、何言っているんだろうね、俺。天衣無縫の詩人になれそうだよ」

 ヴィヴィアンは、はにかむように微笑んだ。その表情に不意をつかれて見惚れていると、綺麗な顔がゆっくり下りてくる……

「俺はシルヴィーと違って、自制が利かないからね。これくらいは許してくれる?」

「――っ!?」

 逃げようとした瞬間に唇を塞がれた。仄かに漂うシダーとウッドグラスの香り……
 我に返り、覆いかぶさる体を押しのけようとしたが、びくともしない。頭を丸く包み込むように大きな手に固定されて、合わさった唇は強く擦れた。唇が熱い。燃え上がるようだ。
 どうにか顔を背けることに成功したけれど、ヴィヴィアンはなかなかティカを離そうとしない。顔を背けていても、唇の端に何度もキスが落ちる。

「好きだよ、ティカ」

「魔法! 魔法のせいだからっ!!」

 心臓をばくばくさせながら、混乱の極地から必死に喚いた。

「本当だとも」

「一日経てば覚めるからっ!!」

「じゃあ、尚更今を大切にしないと……ね、もう一回だけ」

「あっ」

 頬を包まれて、正面を向かされる。見つめ合ったのも束の間、すぐに唇を塞がれた。
 さっきと違い触れるだけではなく、唇の感触を楽しむように、時々吸いつかれる。

「ん……ふ……っ」

 性の知識は乏しいティカだが、このキスが友達や家族にするキスでないことくらい判る。
 されるがまま唇を合わせ、次第に呼吸困難で死にそうになった。陸に上がった魚のように呼吸がうまくゆかぬ。
 えづきそうになると、ヴィヴィアンはようやく顔を離した。宥めるように背中を撫でてくれる。

「呼吸してる?」

「は、離して……」

 弱々しい、潤みかけた声が口をついた。慌てて唇を引き結ぶティカを見て、ヴィヴィアンは微笑んだ。

「かわいい」

「魔法がなければ……僕なんか、キャプテンがかわいいって思うわけないよ」

 悄然と呟くティカを見下ろして、ヴィヴィアンはふと笑みを消した。

「……ティカは、俺のことが好きなの?」

 ぎくり。ティカは眼を瞠って、ヴィヴィアンを凝視した。真剣な眼差しに気圧され、すぐに俯く。
 魔法と融合したせいか、以前よりも、思考が複雑になった気がする。
 以前はもっと、単純明快にヴィヴィアンを好きと言えたのに。
 今はその一言を口にすると思うだけでドキドキする。彼に向かう想いの深さに気付かされる。サーシャに寄せる穏やかな想いとはまた違う……弾けるような、焦がれるほど強烈な感情。これが、好きという気持ち?

「うーん……いや、しかし……どんなにかわいくても、子供に手を出すわけには……せめてあと二年? 早く大人になってよ」

 ヴィヴィアンはティカの額を指で突いて、そこに触れるだけのキスをした。

「魔法のせいだから!」

 額を両手で押さえ、顔を伏せるようにして喚いた。

「ティカはどうなの? 俺が魔法にかかってなかったら、受け入れる気はあるの?」

 魔法に関係なくティカを愛してくれたら? 想像しただけで、心は無限海の果てまでも飛んでいった。
 恐る恐る顔を上げて、美しいヴィヴィアンを見上げる。とめどなく溢れてくる“好き”という想い。

「――……」

 それなのに、伝えようと口を開いても、一言も紡げない。何も言えずにいると、ヴィヴィアンは嬉しそうに微笑んだ。

「無理強いは絶対にしないと誓うから……この部屋で寝てよ」

 意外なことを言われて、ティカは眼をしばたいた。

「えっ?」

「ティカがいないと、落ち着かないんだ」

「でも、もう無限幻海の“鍵”はいらないんじゃ……」

「そうなんだけど……ティカが眠っている姿を見るだけで、どうやら俺は癒されるらしい」

 またしても、胸の内に喜びが芽生えた。しかし、頷こうとしたところで思い止まった。

「今は、魔法が効いているから……明日もそう思ってくれるなら、この部屋で寝ます」

「魔法は関係ないよ。昨夜、既にそう思っていたんだから」

 穏やかに告げられ、ティカは照れくさげに俯いた。
 俯くティカは、見下ろす表情を知らない。大きくて優しい手は、あちこち撥ねた黒髪を愛でるように撫でていた。

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 期号ダナ・ロカ、一五〇二年。精霊ユナの祝福する九月。
 ヘルジャッジ号はリダ島を出航すると、沖合から北東に舵を切り、遥か彼方――カルタ・コラッロを目指す。
 アンフルラージュの加護の下、順風満帆に恵まれ、目的地に寄港するのは約四ヵ月後のことである。