メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

4章:リダ沖合海戦 - 3 -

 ジョー・スパーナは眼を見開いて、掴んでいたティカの髪を離した。
 その隙にティカは甲板を走り、落ちているレイピアを拾った。助走をつけて、ジョー・スパーナに切り掛かる!

「――待て」

 ジョー・スパーナは条件反射のように剣で受けるが、戸惑った表情をしている。明らかに様子がおかしい。魔法が効いているのだろう。ティカの復讐に燃える双眸を見て、静かに剣を降ろした。

「――ッ!?」

 突き出した剣尖けんせんは、ジョー・スパーナの脇腹に刺さった。腕に走る衝撃が信じられない。
 いくらでも避けれたはずだ。周囲の男達は慌てて駆け寄り、キャプテンッと叫んでいる。

「なんで……」

「判らない」

 ティカはレイピアを持っていられず、グリップから手を離した。ジョー・スパーナを刺した剣は、鋼の音を立てて甲板に落ちる。
 血に濡れた剣先。紺色のジレはどす黒く染まっていく。
 呆然と立ち尽くすティカの背中を狙って、手下の一人が剣を閃かせた。無防備なティカを抱き寄せ、ジョー・スパーナは襲い掛かる刃を剣で弾いた。

「な、なんで?」

 明らかにティカを庇った。たった今まで、殺し合っていたのに。

「お前に剣を向けることなど、とてもできない」

 ティカは盛大に顔を歪めた。

「離せっ!」

 暴れるほどに、男に抱きしめられる。かき抱く腕の力には、とても歯が立たない。
 ドンッ、ドンッ――!!
 進行方向の海面に、騒々しい飛沫が上がった。砲撃だ。後ろからヘルジャッジ号が迫ってきている。ティカは顔を輝かせたが、時を同じくして、東沖からジョー・スパーナの敵船団も現れた。

「ティカ、一緒にこい」

「嫌だっ!」

 暴れるティカを、ジョー・スパーナは強い力で抱きすくめた。

「今は俺が憎いだろう。無理もない。判っている……だが、とても離れられない」

「離せっ!!」

「駄目だ。連れていく。どれだけ時間がかかってもいい! 傍にいてさえくれれば、それでいい。いつか俺を許し……受け入れてくれるまで待とう」

 ティカは眼を瞠った。オリバーにあんな酷いことをした癖に、なんて自分勝手な台詞を吐くのだろう。魔法のせいと知っていても許せなかった。

「オリバーが……っ、お前のせいで! 許せないッ!!」

「探しに行かせると、約束する」

 二人が言い合っている間に、エステリ・ヴァラモン海賊団とブラッキング・ホークス海賊団の砲撃合戦は、本格的に幕を開けた。
 互いに一歩も譲らない、苛烈な速射砲撃の応酬だ。
 戦場と化した海面が牙を剥く。ティカ達を乗せた快速帆船は、着弾の波動で左右に激しく揺さぶられた。
 ジョー・スパーナの手下たちは、舷側げんそくからライフルを構えて、ヘルジャッジ号の甲板部員に照準を合わせている。硝煙が上がる様子を見て、ティカは恐怖に悲鳴をあげた。

「やめてぇ――っ! 殺さないで!!」

 ジョー・スパーナは暴れるティカを抑え込み、額やまなじりに薄い唇を押し当てた。ティカがどれだけ拒んでも、そうせずにはいられないというように。

「嫌だ……っ」

 なぜ魔法を使ってしまったのだろう?
 悪い夢を見ているようだ。このまま、ジョー・スパーナの船に乗せられてしまうのだろうか――
 絶望しかけた時、銃を構えた男達は、次々とその場にくずおれた。見れば寸分違わず眉間に黒穴が開いている。
 恐ろしいほど正確な連続射撃だ。
 誰が――
 ティカは、沸き起こる希望を胸にヘルジャッジ号を凝視した。
 風に靡く、神々しいアッシュブロンド。凛々しい剣銃士の姿が見える。胸がいっぱいになり、視界は潤みかけた。
 ティカの帰る場所はあそこしかない。絶対に帰るのだ。
 海面には飛沫を上げながら、こちらに向かって翔けるヴィヴィアンの姿も見える。ボロボロの身体に力が漲ってゆく。
 諦めて堪るものか。
 ジョー・スパーナが戦況に気を取られた隙に、渾身の力で腕の中から抜け出した。

「ティカッ!!」

 振り返らずに甲板を走り、ダンッと船縁ふなべりを思いきり蹴った。男は腕を伸ばしたが、紙一重で届かず――ティカは飛沫を上げて海に落ちた。

ぅ……っ」

 傷口に海水が沁みて激痛が走ったけれど、くじけずに腕を必死に動かした。仲間の元に、ヘルジャッジ号に戻るのだ。

「待て、ティカッ!!」

 甲板から、ジョー・スパーナが叫んだ。周囲の仲間が引き留めているが、今にも飛び込みそうな勢いだ。
 しかし、ヴィヴィアンの方が速い。ティカを真っ直ぐ見つめて、海面に腕を伸ばす――

「キャプテンッ!」

 ヴィヴィアンは力強くティカを引き上げると、その反動を利用して、海面に弧を描いた。ローターの風圧は海面を削り、五メートルはありそうな水飛沫を噴き上げる。水の粒子は日射しを乱反射し、淡い七色の虹を架けた。
 世界が輝いて見える。
 ヴィヴィアンはいつも、ティカを絶望の淵から救い出してくれる。

「よく耐えたな」

「アイ……ッ」

 声は震えかけたが、ヴィヴィアンは笑わなかった。大きな手で頭を撫でてくれる。
 砲弾が降り注ぐ中、迷わず助けにきてくれた。ヘルジャッジ号を動かしてくれた。皆で応戦してくれた。
 ティカはヴィヴィアンの肩にしがみつきながら、胸を熱くさせた。ヴィヴィアンが一緒なら……何も怖くない。
 もう一人じゃない。
 ヘルジャッジ号に戻ると、わっと皆が集まってきた。大きな手に、ティカが代わる代わる頭を撫でられた。シルヴィーやロザリオも手を伸ばしている。
 やがて、兄弟達は道を譲るように左右に分かれた。

「ティカ」

 オリバーが、びっこを引きずりながら歩いてきた。

「オリバーッ!」

 ティカは弾かれたように駆け出した。勢いのまま飛びつきたかったけれど、痛々しい腿の包帯を見て思い止まった。

「お互い、ボロボロだな」

 オリバーは三角の耳を、ぺたんと横に倒して、悄然と呟いた。

「ごめんな、俺のせいで……」

 視界はたちまち潤み、何も見えなくなった。首を左右に振ると、熱い雫が飛び散った。

「違う! オリバーのせいじゃないっ!!」

「ティカ……」

「僕、オリバーが、死んじゃっ……うぅ――っ!!」

 気張っていた最後の欠片は、一瞬にして消し飛んだ。ぼろぼろと大粒の涙が溢れて、甲板に落ちて弾ける。
 俯いて瞼を擦っても、涙を堪えられない。
 オリバーの方からティカの頭を抱き寄せたので、彼に負担をかけないよう気をつけながら、ティカも抱きしめ返した。
 肩に熱い涙が染み込む。オリバーも泣いていた。この優しい親友が生きていてくれて、本当に良かった。

 +

 リダ島上陸では散々な目に合ったが、その日、一つだけいいこともあった。
 シルヴィー達にかけた魔法の効果が切れたのだ。
 報告を受けたヴィヴィアンは、魔法について情報共有している面子を、再び上甲板の応接間に集めた。

「夢から覚めたみたいだ……」

 魔法にかかっていたシルヴィー達はしみじみと呟くと、ティカを見て不思議そうに首を傾げた。彼等の眼差しはいつも通り――とは少し違うが、大分元に戻っている。
 ジョー・スパーナも明日になれば、己の奇行を振り返り、首を捻ることだろう。
 ティカは安堵に胸を撫で下ろした。これで甘やかされる居心地の悪さから、ようやく解放される。
 シルヴィーの優しい一面を知ったせいか、もう彼を無条件に怖いと思うこともなくなった。傍に立たれると、多少は緊張するが……以前ほどではない。
 魔法も悪いことばかりではなかった。