メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

4章:リダ沖合海戦 - 1 -

 航海三十三日目。無限幻海の帰還から、一夜明けた早朝。
 ヘルジャッジ号はリダ島の沖合に到着した。
 リダ島は、透明度の高いマリンブルーの海に、ポツリと浮かぶ孤島である。アンシャル海に面した海岸線には、煌めく星砂のビーチが広がっている。
 丘の斜面に並ぶ可愛らしい家は、全て白壁と青屋根で統一されていて、合間に石畳の道やオリーブの木が見える。まるで物語に登場するような、美しい街並みだ。

「わー、海の底が透けて見えるよ」

 ティカは舷側げんそくから身を乗り出して、感嘆の声を上げた。
 恐いくらいに透明な海だ。海面は鏡のように凪いでおり、深さ十五メートルはありそうな海底も難なく透けて見える。

「この島の魚料理は、最高に美味しいんだぜ」

「へぇー。あ、海亀! あそこ、ほらっ」

 ティカが指差すと、オリバーも船縁ふなべりに肘をついて視線で追いかけた。機嫌良さそうにしっぽを揺らしている。
 兄弟達も舷側から身を乗り出し、リダ島に感謝や愛の言葉を捧げている。なにせパージ・トゥランを出港してから一ヵ月以上経つ。皆、久しぶりの上陸に胸を躍らせているのだ。

「野郎共、単錨泊たんびょうはくだ!」

 甲板でサディールが叫ぶと、アイ、サー! と小気味いい返事が方々から上がった。
 ティカとオリバーも主帆柱メイン・マストに走り、地上遥か四〇メートルの上檣桁トルゲン・ヤードに上った。ここがティカの持ち場だ。足場綱あしばづなの上を動きながら、片腕を帆桁ヤードにしっかり回す。仲間と呼吸を合わせながら帆を絞り、ストッパーでしっかり止めていく。
 毎日の作業のおかげで、ティカはかなり帆の扱いが上手くなった。
 三十枚の帆の名前も大体言えるようになったし、ロープを引いて帆を操ったり、帆や帆桁を調節して風に合わせることも学んだ。
 そして、班の仲間と家族のように打ち解けた。
 十八歳のアラディンは手先が器用で、石や貝殻に彫刻をしたり色を塗ったり、細工をするのが好きだ。
 二十二歳のブラッドレイは賭け事が好きで、バレないように仲間内といつも何かしら賭けている。ティカとヴィヴィアンの関係も賭け対象らしいが、詳しくは教えてくれない……
 同じく二十二歳のセーファスはヴァイオリンが上手だ。
 二十五歳のドゥーガルはオリバーみたいに肌が黒くて、釣りがすごく上手だ。もり一つで身の丈はある巨大魚を仕留める。魚を三枚におろすやり方を教えてくれた。
 班の最年長は二十八歳で、一番の大男だ。名前はマクシム。ボクシングが上手で、時々ティカにも教えてくれる。
 そして、オリバー。大好きな親友。ティカを含むこの七人が、同じ班の面子だ。
 王都を出港してからおよそ一ヵ月、夜だけは船長室キャプテンズデッキにお邪魔していたが、それ以外の時間――甲板作業、朝の当直後の休憩、食事はいつも彼等と一緒に過ごした。
 班の仲間に限らず、今では甲板部員の顔と名前も、大体一致している。見た目は怖くても、判り合えるようになると、親切で感じのいい男ばかりだ。
 特に今日は、誰も彼もが上機嫌でいる。
 皆、いつもより作業がきびきびしているし、表情も明るい。
 ティカは帆桁に掴まりながら陸を見やって、ふと結構な距離があることに首を傾げた。海上に錨泊びょうはくしてしまったら、上陸するには泳ぐかボートで渡るしかない。

「ねぇ、島に接舷しないのかな?」

「ここの桟橋、小さい上に数が足りないんだよ。小舟がいっぱい係留されてるだろ。島民優先」

 確かに、丸太で組まれた桟橋は狭くて小さい。漁船がたくさん係留されており、ヘルジャッジ号の巨体ではとても入れそうにない。
 地元の子供達が桟橋から手を振っているのに気がついて、ティカは大きく振り返した。少し前は、自分も桟橋から手を振る立場であったことを思い、ほんの少し誇らしい気持ちを味わった。
 錨泊を終えて、甲板作業を一通り終えると、兄弟達は身なりを整えて、続々とボートに乗りこんだ。ちゃんと上着を羽織り、立派な靴も履いている。

「明日の夜まで自由行動だよ。俺達も行こうぜ!」

「うん!」

 ティカもオリバーと一緒にボートに乗ろうとすると、シルヴィーに呼び止められた。

「二人で平気か?」

「もちろん!」

 オリバーが威勢よく応える。
 シルヴィーの魔法は一夜明けても消えていないらしく、昨日に引き続き、ティカを非常に気にかけてくれる。

「明日の夜までには戻ってこいよ」

「アイ、サーッ!」

 ティカとオリバーはそろって返事をした。兄弟達とボートに乗って上陸すると、駆け出す前に襟を掴まれた。班仲間のブラッドレイとセーファスだ。

「お前達、金持ってるのか?」

 ティカはあらかじめヴィヴィアンにもらったお金がある。オリバーも問題ないようだ。けれど親切な兄弟達は、お小遣いをくれた。

「ありがとう!」

 オリバーは満面の笑みを浮かべると、ティカの手を引っ張って駆け出した。

「どこに行くの?」

「飯にしようぜ!」

 遠くから見た時は白い家々という印象だったが、傍で見ると、どの家もとても外装が凝っている。
 扉や窓の精緻な鉄縁細工。白壁を飾る正方形のタイルに、窓辺や玄関を飾る色鮮やかな鉢植。
 硝子のウインドチャイムはいたるところに掛けられ、風が吹く度に涼やかな音色を聞かせてくれる。
 街並みを眺めているだけで、朗らかで楽しい気分になれる。

「こっちだよ」

 オリバーは木造の温かみのある魚料理屋に案内してくれた。
 店は、島民や寄港している船乗り達が詰めかけ、とても繁盛している。恰幅のいい女将がきびきびと客の間を動き回り、次から次へと注文を取っている。

「ランチコース二つ!!」

 オリバーは空いている席に座ると同時に、奥の厨房に向かって叫んだ。そんな適当な注文で伝わるのかと心配に思ったが、女将や厨房から、あいよー! と間髪いれずに返事がきた。

「なんだか甲板の上みたいだね。皆、きびきびしてる」

「繁盛店だからね」

「僕、お店で食べるの、生まれて初めてだ」

 ティカが笑うと、オリバーは眼を剥いた。

「マジかよ。じゃあ楽しみにしてなよ。美味しいんだから!」

「うんっ」

 心待ちにしていると、スパイスたっぷりの白身魚のムニエルが運ばれてきた。生姜やナツメグ、ガーリックのいい香りがする。

「美味しそー!」

「パンはおかわり自由だぜ」

 湯気の立つ魚料理は、オリバーが推薦するだけあり、頬が落ちそうなほどに美味しかった。ティカは言葉も忘れて夢中で食べていたが、途中でオリバーは喉を詰まらせた。

「大丈夫?」

「やっべぇ……ジョー・スパーナだ」

 ティカは眼を丸くした。オリバーの視線を辿って振り向こうとしたら、すかさず襟を掴まれた。

「シッ! 静かに……こっそり出よう」

 後ろを振り向きたくてたまらなかったが、どうにか堪えた。皿に残った料理を素早く胃袋に収めると、一万ルーヴ紙幣を机の上に置いた。

「多過ぎだよ。一千ルーヴでも釣りがくるぜ」

 そう言ってオリバーは、千ルーブ紙幣と硬貨を何枚か置くと、ティカの手を引いてこっそり店の入り口に向かった。店を出るなり、猛然と駆け出す!
 足の速いティカも、流石に食後の全力疾走は辛い。胃が重くて苦しかったが、そんなことを言っている場合ではない。

「やっべー! 何でリダ島にいるんだよっ! 皆上陸しちゃってんのに!!」

「どうするの!?」

「皆に知らせないと! 一度ヘルジャッジ号に戻って――」

 パンッと発砲音が響いた。周囲から悲鳴が上げる。オリバーは苦しそうに呻きながら、その場にくずおれた。

「オリバーッ!?」

 ティカは悲鳴を上げて、オリバーの傍に膝をついた。うつ伏せに倒れるオリバーの腿から、赤い血が流れている――