メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

1章:出会いと出航 - 5 -

 甲板かんぱんには肌の白い人、茶色い人、黒い人、耳と尻尾を持つ珍しい獣人……色々な人がいる。まるで世界の人種見本一だ。
 ティカが目を丸くして彼等を見ていると、三角の耳と長い尻尾を持つ、小柄な少年が前にでてきた。肌が黒い分、柔らかそうな白銀の髪がいっそう眩しく見える。顔に擦り傷はあるけれど、とても端正な顔立ちをしだ獣人の子供だ。  彼は、海のように青い瞳で、じっとティカを見つめると、ニッと白い歯を見せて笑った。
「オリバー、一緒に主帆柱メイン・マストに登ってやれ」
「アイ、サー!」
 オリバーというらしい。彼は、サディールの命令に元気よく返事をすると、ティカの手を掴んで引っ張った。主帆柱が何かも判らないティカは、引っ張られるがまま甲板の上を走った。
「あれに登るんだ」
 はるか頭上にそびえる帆柱を見あげて、ティカはぽかんとした。本気でいっているのだろうか。今までに登った、どんな木よりも高いのだが……
「靴を脱いで。その靴じゃ滑る。裸足の方がマシだ」
「え?」
「嵐のせいで、どこもかしこも濡れているんだ。そんなボロボロの平たい靴じゃ、あっけなく滑り落ちるよ」
「判った……」
 そういうオリバーも裸足だ。ティカは、いわれた通りに靴も靴下も脱ぐと、見よう見まねで主帆柱に向かって伸びる縄はしごに手をかけた。
「うちでは採用する時、必ずやらせるんだ。クロスツリーまで自力で辿り着けるか、お手並み拝見ってわけだ。俺の後ろをついてくれば、そう難しいことじゃないさ。横静索シュラウドを使って一気に主帆柱に登るよ。檣楼トップの天辺にあるクロスツリーに掴まることができたら、下で見ている奴らが喝采をくれる」
 半分も理解できなかったが、とにかく、縄はしご……横静索を使って、主帆柱の一番上まで行けばいいということだけは判った。
 覚悟を決めると、オリバーの後に続いて、足裏にロープをしっかり踏みしめながら登り始めた。
「そうそう、初めてにしちゃ上手い……おっと、下は見ない方がいい」
 オリバーはティカと同じくらい小柄なのに、ひょいひょい登っていく。とにかく忠告に従って、懸命に上だけを見続けた。猫のように優雅で長い尻尾が、ゆらゆらと揺れている。ズボンはどういう構造になっているのだろう……
 ようやく檣楼に辿り着いた。肩を上下させるティカを、オリバーは余裕の表情で見ている。
「やるじゃん」
「ハァハァ……ありがとう。オリバー、君って猿みたいだ」
「ありがとよ」
「褒めてるんだ」
「判ってるよ。お前も見込みあるよ。身軽だし、俺と同じ花形檣楼員トップマンになれるぜ。一番高い帆を担当する男は、勇気もテクニックもピカ一なんだ」
「花形檣楼員かぁ……」
 オリバーは檣楼の更に上へと登った。丸太のような水平の帆桁ヤードに足をかけると、クロスツリーにタッチする。ティカもどうにかクロスツリーに辿り着いて下を見ると、気が遠くなるほど甲板が遠くて、眩暈を覚えた。おまけに、辺りには白い靄が流れている。
「オリバー! ここってまさか雲の上!?」
「あはっ、何いってんの。そりゃ甲板から五十メートルは離れてるけどさ」
 オリバーはクロスツリーを掴みながら、愉快そうに笑った。ティカもつられて笑みを浮かべると、突風が吹いて、ティカの黒髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。
 まるで、サーシャがいつもティカにそうするように――
「サーシャッ!」
「――馬鹿っ! 手ぇ放すんじゃねぇ!」
 ぐらりとかしいだティカの身体を、オリバーは慌てて支えた。びっくりするくらい強い力だ。
 遠くから歓声が聞こえてきた。甲板を見下ろすと、さっきよりも人が集まっていた。
「おー、早い早い」
「やるじゃねぇか」
 耳のいいティカは、甲板で見物している男達の、感心したような声を聞いてにんまりした。
「よぉし! ハリヤードを降りろ!」
 甲板からサディールが叫んだ。ハリヤードとは何のことだろう? ぽかんとするティカの隣で、アイ、サー! とオリバーは威勢よく叫んだ。
「帆をあげるのに使うロープのことだよ。俺がやって見せるから、ビビらずに後に続けよ!」

 そういってオリバーは、躊躇ためらいもなくロープに飛び移った。命綱もはしごもなしに、曲芸みたいな身のこなしでロープに掴まり、するすると下りていく。
「えぇーッ!? うっそぉ!?」
 ティカは、思わず頓狂な声で叫んだ。だがやるしかない。船に乗せてもらう為に。
(よぉし……)
 深呼吸を一つ。心胆しんたんを整えると、勢いよく踏み切ってロープに飛び移った!
 ドキドキし過ぎて、口から心臓が飛びだしそうだ。
 万が一にも落ちないように、ロープの感触をしっかり確かめながら、どうにか甲板へ滑り下りた。全身が汗みずくて、服が肌に纏わりついている。
 硬い甲板に足がつくなり、ティカはへなへなと尻餅をついてしまった。あんなに高い所を登って、また降りてきたなんて、とても信じられない。
「そんなに嬉しかった? 確かに、なかなかいい登りっぷりだったよ」
「え?」
「坊主、何をご機嫌に叫んでいたんだ?」
 ヴィヴィアンとサディールに訊ねられ、ティカは戸惑った表情で二人を見た。
「サーシャ……」
「サーシャ? さっきもいっていたね。その子の勧めで、この船に声をかけたの?」
「いいえ……サーシャは、小舟で荷運びをしている、なるべく立派な大人に声をかけろって……」
 しどろもどろで答えると、周囲の男達は笑った。
「小舟ねぇ」
「海賊船だって判ってんのか?」
「海にでたら、何か月も陸を拝めねぇんだぞ」
「嵐だっつってんのに、総帆そうはん命令がでるんだぜ」
「おい坊主、船を間違えてねぇか?」
 好き勝手に喋る男達に向かって、ティカはきりっと顔をあげると、負けじと声を張りあげた。
「この船がいい! 絶対にこの船じゃないと駄目なんです! どうか僕を、この船に乗せてください!」
 サディールは、探るようにティカを見つめた。
「もう一遍、一人で登れるか?」
「はい!」
「よし、登ってみろ」
「はい!」
 ティカはやる気を見せようと、勢いよく横静索シュラウドに走り手をかけた。心配そうに見ているオリバーに、大丈夫と瞳で合図すると、空を見あげて一目散に登った。
 クロスツリーにタッチすると、下から歓声が聞こえてきた。
 今度もハリヤードに飛び移って、甲板に滑り下りると、サディールは満足そうに頷いた。ティカとしても、さっきよりもずっと素早くできた自信がある。
 ヴィヴィアンはティカの前に立つと、美しい笑みを浮かべた。
「おめでとう。今日からヘルジャッジ号の一員だ。彼は水夫長のサディール。ティカの上司ね。あっちで機嫌悪そうに腕組んでるのが、航海士のシルヴィー。見習い水夫、先ずはオリバーから仕事を教わりな」
「はいッ!」
 肩をパンッと叩かれて、ティカは元気よく返事をした。
「はい、じゃない。船乗りらしく、アイアイ、キャプテンと返事しな」
「アイアイ、キャプテン!」
 ヴィヴィアンは満足そうに頷いた。
「しょうがない……様子を見るか」
 シルヴィーも諦めたように頷き、ティカは満面の笑みを浮かべた。これほど気分が高揚したのは、いつ振りだろうか?
 涯てのない暗闇はない――空を覆っていた真っ黒い雨雲が左右に割れて、合間から陽が射しこんだ。
 まるで小さな船乗りの誕生を祝福するように、ずぶ濡れのティカを優しく照らした。