メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

1章:出会いと出航 - 3 -

 真っ黒なヘルジャッジ号が、視界いっぱいに飛びこんできた。
 防波堤で釣りをしている子供達に交じって、ティカは特等席から突きでた舳先へさきを見あげた。遠目にも大きいと感じた黒塗りの大帆船だいはんせんは、間近で見あげると、巨大過ぎて恐ろしいくらいだ。
「君、どこからきたの?」
 釣りをしていた十二、三歳くらいの子供が、サーシャと同じはしばみ色の瞳でティカを見つめて訊ねた。
「山向こうからきたんだ」
 ティカが深い茂みの丘陵きゅうりょうを指さすと、子供は驚いたように目を瞠った。
「びしょ濡れだけど、まさか、嵐のなかを走ってきたの?」
「そうだよ。遠くからこの黒い船を見て、走ってきたんだ」
 彼は、すっかり納得したように頷いた。
「さては、ヘルジャッジ号を見にきたんだ?」
 ティカは期待に目を輝かせた。
「やっぱり、ヘルジャッジ号なんだ!」
「そうだよ。嵐の夜に着いたんだ」
 ティカの目は船に釘づけになった。そして感心したようにいった。
「噂通り、真っ黒なんだね。立派な船だなぁ」
「無限海の新大陸を目指すような船だもの。全長百十メートル、大砲八〇門もある、ロアノス軍艦にも負けない殺戮船さ!」
 子供は鼻を鳴らして、得意そうにいった。
「強そう! 僕、初めて見た。さきっちょに女の人の像がついてるんだね」
船首像フィギュアヘッドのこと? ヘルジャッジ号の鋼鉄の女神だよ」
「へぇー!」
「キャプテン・ヴィヴィアンや、剣銃士ロザリオも上陸してるよ」
「えっ、本当!?」
 ティカは目を丸くして、子供を見つめた。
「うん。半舷はんげん上陸してるみたい。日替わりで、クールな乗組員クルー達がタラップを下りてくるよ。だからどのお店も、嵐にも関わらず繁盛して大喜びさ……」
 子供は得意そうに話し続けていたが、ティカは途中でその場を離れた。ゆっくり歩きながら、背の高い舷側げんそくを眺めやる。
 甲板かんぱんに人影は見えない。
 これから荷積みするのか、立派なタラップの傍には、大きな樽や木箱が山ほど積まれていた。色艶のいいプラムも木箱にぎっしり詰まっている。ひょいと一つ摘み、香りを嗅いだら、どうにも我慢できなくてかじってしまった。
 甘くて瑞々しくて、とても美味しい。
 サーシャにも食べさせてあげたい。そう思った途端、気持ちは塞いだ。いくら食べさせてあげたくとも、サーシャは、もう……
「おいっ! 何してやがるっ!」

 早口の濁声だみごえで怒鳴られて、ティカは聞き取ることができなかった。眼帯をつけた禿頭とくとうの大男が、恐ろしい形相でこちらへやってくる。
「貴重な食料に手ぇだしやがって、ガキだからって容赦しねぇぞ!」
「えっ」
 男は、眼帯をしていない方の血のように赤い瞳で、針のようにティカを睨みつけた。黒い肌とあいまって、まるで危険な猛禽を思わせる。
 そいつが大股でやってきて、血管の浮いた、硬い棍棒のような腕を振りあげた。恐ろしいなんてものじゃない。ティカは一歩も動けなかった。しかし――
「まだ子供じゃないか」
 凶器みたいな腕は、振り下ろされることなく、宙で止まった。後ろから誰かが、腕を掴んで止めてくれたのだ。
 大男の背から、やたら煌びやかな若い男がでてきた。
 リボンや鎖や目玉……よく判らない硝子玉、いろんなものがついた、別珍べっちんの三角帽子を被り、豪華な刺繍のされた紺色のジュストコール、揃いのジレ、レースのシャツ、黒い細身のズボン、そしてバックルと拍車のついた立派なブーツを履いている。
 ティカがお目にかかったこともないような瀟洒な衣装だが、ウエストベルトには物騒なカトラスと、鈍色に光る拳銃がぶら下がっている。どう見ても一般人ではない。
 もしかして……
 期待をこめて見あげていると、彼は優雅に首を傾げて、ティカの顔を覗きこんだ。
 その瞬間、ティカは雷に打たれたような衝撃を覚えた。目があって初めて気づいたが、彼は、聖書に登場する精霊王のように、非常に綺麗な顔をしている。
 瞳は、青にも紫にも見える虹彩で、星を散りばめたように無数の金色の光が煌めいている。こんなに綺麗な瞳を見たことがない。まるで宝石箱のようだ。
 耳の先が少し尖っているから、もしかしたら他種族婚で生まれた亜人なのかもしれない。
 肌の色はティカに少し似ていて、仄かな小麦色をしている。けれど、ティカと違ってそばかすは浮いていないし、真珠の粉をまぶしたように煌めいている。
(何て綺麗な人なのだろう……精霊みたい)
 肩にかからないように整えられた、白く艶のある頭髪は、海のように青い色がところどころ混じっている。思わず触れたくなり、そろりと手を伸ばしたら、逆に頬を大きな手で包まれた。
 宝石のような青い瞳に、目を丸くしているティカの顔が映りこんでいる。
「綺麗な瞳だね。燃えあがる、オレンジ・サファイアみたい」
「えっ」
「アマディウスが見たら喜びそう」
 男は感心した風に、もしくは魅入った風に、ティカの目元を親指で摩った。
「キャプテン、荷積み始めますよ」
「よろしく、サディール」
 サディールと呼ばれた大男は、ティカには目もくれず、美しく煌びやかな男をキャプテンと呼んだ。
 ティカは唖然とした。海賊かもしれないとは思ったけれど、まさかこんなに若くて綺麗な男が、キャプテンとは!
 彼は、ぽかんとしているティカに気前よくもう一つプラムを放ると、隻眼の大男と荷積みについて話し始めた。
 そよ風が流れて、プラムの香りが辺りに漂う。
 見れば見るほど、この煌びやかで不思議な男に惹かれてしまう。
 彼は、ヘルジャッジ号のキャプテンに違いない。
 どういうわけか、彼の船に絶対に乗らなくてはいけない気がしてきた。今朝から、不思議な衝動に突き動かされっ放しだ。
 ティカは肺いっぱいに空気を吸いこむと、思いきり叫んだ。

「僕を、この船で働かせてくださいっ!!」