メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -
1章:出会いと出航 - 2 -
明け方、サーシャはぴくりとも動かなくなった。
「サーシャ……ッ」
怖かった。目を開けて欲しくて何度も肩を揺すったけれど、サーシャは目を醒まさなかった。
ついにティカは諦め、寝台に突っ伏して嗚咽を漏らした。深い悲しみに襲われて、どうすることもできない。彼女の儚い命と共に、ティカの十五年という人生も尽きたように感じられた。
(サーシャ……サーシャ……!)
胸が痛い。悲しみに押し潰されてしまいそうだ。サーシャは世界の全てだったのに……どうして、ティカを置いていってしまったのか。
いっそ、一緒に連れていってくれたら良かったのに!
ティカはしばらく泣いていたが、そよ……とうなじを風が撫でると、勢いよく顔をあげて薄暗い病室を見回した。
「サーシャ!」
そこにいるのなら、返事をしてほしい。風だけじゃ判らない。
じっと待ってみたが、病室はしんと静まり返ったままだ。がっかりしかけた時、突然に、サーシャの繰り返し聞かせた言葉が、耳朶の奥で正確に蘇った。
“ねぇ、ティカ。私ずっと一緒にいるわ。ティカが瞳に映すものを、私も風になって見る。そよ風が吹いたら、私を探して。きっと傍にいるから……”
見えない手に引かれるようにして、ティカはゆらりと立ちあがった。潤んだ眼差しでサーシャを見下ろし、苦しげに顔を歪める。
“いい? ティカ、海を見にいこう。歩道に沿って真っ直ぐ降りていけば、パージ・トゥランにでるから。海の宝石と呼ばれるくらい美しい港街よ。ティカの足なら、きっとあっという間よ”
こんなにも傍を離れ難いのに……胸が張り裂けそうなほど辛いのに、足は勝手に病室の扉に向かった。
“水筒とビスケットを持って、夜明け前にここをでていくのよ”
誰もいない食堂にこっそり忍びこむと、水筒とビスケットを持ちだして、斜め掛けの大きな麻袋にしまいこんだ。持っていくものは、それだけだった。
“幸福館には二度と戻らないで!”
サーシャ。彼女と過ごした思い出だけを胸の奥にしまって、勢いよく外へ飛びだした。
「サーシャ! サーシャ! サーシャ……ッ!」
叩きつけるような雨に向かって、声の限りに叫んだ。慟哭 は、嵐の音にかき消された――
+
ティカはガリガリの痩せっぽちで、背も小さいけれど、足だけはとことん速かった。人並み以上に持久力もある。嵐にも負けず、夢中で山道を駆け下りた。
陽がすっかり昇り、昼を過ぎた頃。
叩きつけるような雨は止んだ。鬱蒼 とした茂みは途切れ、彼方に空と海の境界線が見えた。
水平線だ。
疲れも忘れて、ティカは素晴らしい光景に見入った。
美しいエメラルド・グリーンに輝く凪いだ海。ビビットカラーの草花、色とりどりの民家が軒を並べ、合間には背の高いヤシの木、美しい紫色の花、ジャカランダの木々が色を添えている。
サーシャの話していた“海の宝石”と呼ばれる、美しい港街だ。
(何て綺麗なのだろう……)
灰色ばかりの幸福館とはまるで違う、色彩に富み、目移りするくらい賑々しい。
港には大小様々な帆船が帆を畳んで停泊している。
商用の木造大帆船、小型の機帆船、強そうな護衛船、力のありそうなサルベージ船――あらゆる船が係留されている。不気味な黒艶を放つ、海賊船までも。
ずば抜けて視力のいいティカは、遥か彼方、帆柱 の天辺で揺れる海賊旗 の柄 までしっかり見えた。
天秤に乗った、髑髏とダイヤモンド――間違いない、海賊船“ヘルジャッジ号”だ!
感動の余り、ティカの全身に震えが走った。海を見たことなければ、海賊船を見たこともない。
王都パージ・トゥランは世界有数の寄港地だけれど、泣く子も黙るロアノス海軍基地があるから、海賊船だけは寄りつかないと思っていた。サーシャがいうには、水と油の関係だから。
しかし、あれはどう見ても海賊船だ。
それも無限海に名を轟かせる、海賊のなかの海賊、エステリ・ヴァラモン海賊団を率いる――
「すごいや! キャプテン・ヴィヴィアンの乗るヘルジャッジ号!」
内港へいけと散々釘を刺したサーシャの言葉も忘れて、ティカはパージ外港、あらゆる船が泊まる波止場に向かって、鉄砲玉のように駆けだした。
期待と興奮で胸を高鳴らせ、果たして海賊船とはどんなものかしら? 涯てのない想像を膨らませた。
嵐が過ぎ去ったばかりだというのに、港街は活気づいていた。
沖へ繰りだす猟師達、荷積みする船乗り達、彼等を相手に商売する露天商達、大きな荷物を人力の荷車や、年季の入った自動車が忙 しなく運んでいく。
いろんな匂いがして、いろんな音が聞こえる。
熱気に喧噪。何とも賑々しい街だ。
ティカは人の合間を縫うように走り、ついに視界の開けた波止場へ飛び出した。
「サーシャ……ッ」
怖かった。目を開けて欲しくて何度も肩を揺すったけれど、サーシャは目を醒まさなかった。
ついにティカは諦め、寝台に突っ伏して嗚咽を漏らした。深い悲しみに襲われて、どうすることもできない。彼女の儚い命と共に、ティカの十五年という人生も尽きたように感じられた。
(サーシャ……サーシャ……!)
胸が痛い。悲しみに押し潰されてしまいそうだ。サーシャは世界の全てだったのに……どうして、ティカを置いていってしまったのか。
いっそ、一緒に連れていってくれたら良かったのに!
ティカはしばらく泣いていたが、そよ……とうなじを風が撫でると、勢いよく顔をあげて薄暗い病室を見回した。
「サーシャ!」
そこにいるのなら、返事をしてほしい。風だけじゃ判らない。
じっと待ってみたが、病室はしんと静まり返ったままだ。がっかりしかけた時、突然に、サーシャの繰り返し聞かせた言葉が、耳朶の奥で正確に蘇った。
“ねぇ、ティカ。私ずっと一緒にいるわ。ティカが瞳に映すものを、私も風になって見る。そよ風が吹いたら、私を探して。きっと傍にいるから……”
見えない手に引かれるようにして、ティカはゆらりと立ちあがった。潤んだ眼差しでサーシャを見下ろし、苦しげに顔を歪める。
“いい? ティカ、海を見にいこう。歩道に沿って真っ直ぐ降りていけば、パージ・トゥランにでるから。海の宝石と呼ばれるくらい美しい港街よ。ティカの足なら、きっとあっという間よ”
こんなにも傍を離れ難いのに……胸が張り裂けそうなほど辛いのに、足は勝手に病室の扉に向かった。
“水筒とビスケットを持って、夜明け前にここをでていくのよ”
誰もいない食堂にこっそり忍びこむと、水筒とビスケットを持ちだして、斜め掛けの大きな麻袋にしまいこんだ。持っていくものは、それだけだった。
“幸福館には二度と戻らないで!”
サーシャ。彼女と過ごした思い出だけを胸の奥にしまって、勢いよく外へ飛びだした。
「サーシャ! サーシャ! サーシャ……ッ!」
叩きつけるような雨に向かって、声の限りに叫んだ。
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ティカはガリガリの痩せっぽちで、背も小さいけれど、足だけはとことん速かった。人並み以上に持久力もある。嵐にも負けず、夢中で山道を駆け下りた。
陽がすっかり昇り、昼を過ぎた頃。
叩きつけるような雨は止んだ。
水平線だ。
疲れも忘れて、ティカは素晴らしい光景に見入った。
美しいエメラルド・グリーンに輝く凪いだ海。ビビットカラーの草花、色とりどりの民家が軒を並べ、合間には背の高いヤシの木、美しい紫色の花、ジャカランダの木々が色を添えている。
サーシャの話していた“海の宝石”と呼ばれる、美しい港街だ。
(何て綺麗なのだろう……)
灰色ばかりの幸福館とはまるで違う、色彩に富み、目移りするくらい賑々しい。
港には大小様々な帆船が帆を畳んで停泊している。
商用の木造大帆船、小型の機帆船、強そうな護衛船、力のありそうなサルベージ船――あらゆる船が係留されている。不気味な黒艶を放つ、海賊船までも。
ずば抜けて視力のいいティカは、遥か彼方、
天秤に乗った、髑髏とダイヤモンド――間違いない、海賊船“ヘルジャッジ号”だ!
感動の余り、ティカの全身に震えが走った。海を見たことなければ、海賊船を見たこともない。
王都パージ・トゥランは世界有数の寄港地だけれど、泣く子も黙るロアノス海軍基地があるから、海賊船だけは寄りつかないと思っていた。サーシャがいうには、水と油の関係だから。
しかし、あれはどう見ても海賊船だ。
それも無限海に名を轟かせる、海賊のなかの海賊、エステリ・ヴァラモン海賊団を率いる――
「すごいや! キャプテン・ヴィヴィアンの乗るヘルジャッジ号!」
内港へいけと散々釘を刺したサーシャの言葉も忘れて、ティカはパージ外港、あらゆる船が泊まる波止場に向かって、鉄砲玉のように駆けだした。
期待と興奮で胸を高鳴らせ、果たして海賊船とはどんなものかしら? 涯てのない想像を膨らませた。
嵐が過ぎ去ったばかりだというのに、港街は活気づいていた。
沖へ繰りだす猟師達、荷積みする船乗り達、彼等を相手に商売する露天商達、大きな荷物を人力の荷車や、年季の入った自動車が
いろんな匂いがして、いろんな音が聞こえる。
熱気に喧噪。何とも賑々しい街だ。
ティカは人の合間を縫うように走り、ついに視界の開けた波止場へ飛び出した。