メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

17章:極光蚕白の涙 - 7 -

 大晦日のその日は、朝から雪が降っていた。
 ティカが目を醒ました時、部屋は白い光に満たされていた。夜のうちに雪が降り始めたのだ。灰色の空から音もなく舞い落ちる白い雪片が、中庭を厚く覆っている。世界は沈黙と魔法の場所に姿を変えていた。
 絶え間なく降り続けた雪は、昼にはやんで、雲間から青空が顔をのぞかせた。
「雪だ――ッ!」
 ティカは広間の窓を開けて、バルコニーにでると歓喜を叫んだ。
 窓の下枠からはつららが垂れさがり、午後の陽光を弾いて、ダイヤモンドのように輝いている。
 今すぐ遊びにいきたくてたまらない。ティカは超特急で昼食を腹におさめると、瞳をきらきらさせて執事のローランドを振り仰いだ。
「庭にいってもいいですか?」
 ローランドはにっこりし、心得たようにコートをさしだした。
「寒いですから、これをお召しになってください」
「ありがとう!」
 彼の見立てで、ティカは完全装備に包まれた。分厚い外套の釦を顎まできっちりと留め、足には暖かさ重視の歩きやすい革のブーツを履き、頭にはニットで編んだ帽子をかぶっている。
「よぉし、準備万端」
 ティカは自分の体をぺたぺた触り、待ちきれないように足踏みをすると、ローランドの許可も待たずに、鉄砲玉のように庭に飛びだしていった。
 声をかけ損ねたローランドは、慌てて窓枠から身を乗りだし、
「ティカさまーっ! 雪が積もっていますから、遠くへはいかないでくださいねー!」
 彼にしては珍しく、大声をあげた。ティカは振り仰いで敬礼を返すと、
「アイ、サー!」
 元気よく返事をして、一目散で駆けていく。
 庭にはたっぷりの雪が降り積もり、白皚々はくがいがいたる世界へと変貌を遂げていた。遠く峡谷の地面には、少ない場所でも六十センチは積もっているだろう。
 真っ白な新雪を踏み締め、ティカは大いにはしゃいだ。
 粘板岩葺ねんばんがんぶきの屋根や枯れ木にうずたかく積もった雪が、白銀に煌いている。丘と丘のあいだの斜面の窪みの影は、青みがかった灰色に見えた。海の上ではお目にかかれない情景だ。
 空気は凍えるような寒さだが、ティカは元気溌剌、すぐに外套を脱いで三匹の犬たちと転げまわった。
 その様子を、ヴィヴィアンは書斎からほほえましい気持ちで眺めていた。
 窓の外を優しい瞳で眺めている主を見て、ローランドもまたほほえんだ。
「ティカさまはお元気でいらっしゃいますね」
「本当にね。寒いのは苦手なはずなのに、あの子を見ていると、思わず雪の上を走りたくなるから不思議だよ」
「いってみてはいかがですか?」
 ヴィヴィアンは笑った。
「いや、やめておく。ここで見ている方がいい」
 ティカの様子を眺めながら、紅茶にお気に入りのブランデーを垂らす。口に含むと、長い年月をかけて熟成された木の実の風味が広がった。
 暖炉には低く火が焚かれており、煌々と燃える焔は、真鍮の火箸や十能じゅうのうに輝き、暖かな光で部屋を照らしている。居心地の良い部屋で、窓から雪と戯れるティカの姿を眺める……彼にとっては、最高の贅沢だった。

 午後二時。
 陽が照って気温はぐんとあがり、明るくしたた雪解雫ゆきげしずくの音があった。
 ティカは走り回るのをやめると、今度は茂みに身をひそめ、雪兎や雷鳥の写生に夢中になった。
 結局、ローランドに休憩するよういわれるまで、ティカはずっと庭にいた。遊んでいるうちに身体がぽかぽかして、コートも帽子も脱いでしまっている。
 やがて雪遊びから戻ったティカを、ヴィヴィアンは暖かな部屋で迎えた。上気した頬を両手で包みこみ、赤くなった鼻の頭にキスをした。
「お帰り、ほっぺたが真っ赤だよ」
「ただいま! 楽しかったぁ」
 ティカはくすぐったそうに笑った。
「コートまで脱いじゃって、寒くなかった?」
「うん! ヴィーもいこう!」
 手を引かれて、ヴィヴィアンは苦笑しながら立ちあがった。彼が外套に手をのばすと、ティカの瞳は期待に輝いた。
「さっき、雪だるまを作ったんですよ」
「へぇ……」
 外にでると、玄関の目の前に鎮座している雪だるまを見て、ヴィヴィアンは笑った。この家で雪だるまを目撃するのは、子供の時以来だ。楽しい気持ちがこみあげ、ティカが雪玉を投げてくると、童心に帰って応戦したりもした。
 そのうちまた雪が降り始めるまで、二人は手をつないで、しばし白銀の庭を歩いた。
 書斎に戻ると、二人は暖炉前のソファーに並んで座った。
 ティカはローランドの運んできたチョコレート・ミルクを飲みながら、窓の外をぼんやり眺めていた。垣根にそって雪の吹き溜まりが、少しずつかさを増していく。
「ちっともやむ気配がありませんね」
「明日の晩にはやむと思うよ」
「こんなに吹雪いていたら、船も港をでていけませんね。世界中の雪が全部ここに集まっているみたい」
 ヴィヴィアンはくすっと笑った。
「この程度の雪なら、アプリティカではごくあたりまえの光景だよ。世界中の雪を語るには、せめてアンデル海峡を見てからにしないとね」
 以前に聞いたことのある地名だ。
「前にシルヴィーが話していたところですか?」
「そうだよ。ほぼ一年中、華氏の零下に近い気温で、雪に閉ざされた辺境だよ。巨大な氷砕艦でもないと、渡航できないんだよ……」
 ヴィヴィアンは過去の冒険譚を話して聞かせていたが、ティカがうとうとしているのを見て、ブランケットをかけてやった。
 暖炉の薪が半分灰になっているのに気づいて、火かき棒を掴み、燃える薪を裏返す。ティカの傍に戻ると、彼はぐっすりと眠りこんでいた。隣に座り、黒髪を撫でながら、穏やかな気持ちでヴィヴィアンも目を閉じた。