メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

17章:極光蚕白の涙 - 8 -

 その年最後の晩餐。ヴィヴィアンとティカは、ローランドやホリーたち使用人と同じテーブルを囲んだ。恐縮する彼らを、ヴィヴィアンはティカが寂しがるからといって説き伏せたのである。
 今日のために、広間の柱やヘラジカの角には、つたひいらぎ柘植つげや月桂樹の葉が飾られている。ローランドたちが森からとってきたもので、ティカも飾るのを手伝った。
 皆で囲む食卓には、自家製の発酵蜂蜜酒やご馳走がふるまわれた。
 暖炉にくべられた太い丸太が、だいだい色の明かりを部屋に投げかけ、寛ぐ人々を優しく照らしている。
 穏やかな時間を皆で共有していると、遠くから歌声が聴こえてきた。始めのうち、その音は空耳かと思うほどかすかだった。小声でささめくような音は、やがて旋律となってティカの耳に届いた。歌詞まで聴こえるようになると、ティカは立ちあがって扉に駆け寄った。
「ティカ?」
 背中に声をかけられ、椅子に座ったままのヴィヴィアンを振り返り、
「“天にまします女神さま、われらを光輝に包み祈らせ給う”」
「?」
「聞こえますか? 聖歌隊です! “世界中の小さきものよ、命の火よ”」
 ティカはにっこり笑った。
「“今日は隣にたつ友よ、明日には命尽きる友よ”」
 ヴィヴィアンは席を立ち、手を差し伸べながら近づいてきた。さっきよりも大きな声で歌いながら、ティカはその手をとった。廊下にでると、手燭に火を灯した召使いたちも、笑顔で後ろをついてきた。皆、口ずさんでいる。
「“わたしの生を豊かにし、潤いにみち”……ヴィーも歌って!」
 ティカは玄関扉をあけ放ち、ヴィヴィアンを引っ張って雪の舞い散る空の下へでた。
 教区の聖歌隊が、風で蝋燭の火が消えぬよう身を寄せあって立っていた。小さな子供たちが前にでてきてお辞儀をしたので、ティカは盛大に拍手を送った。
 子供たちは一斉に聖歌集をもちあげると、楽器の伴奏もなく歌いだした。一番年下の子供らのテンポが多少落ちたものの、歌声は美しく流れて、その場にいた聴衆を一人残らず魅了した。
「“女神の祝福を”……歌おう、ティカ」
 ヴィヴィアンは聖歌隊を玄関ホールへ入るよう招きいれ、ティカの腰に腕をまわした。
 ティカは、聖なる歌を聴きながら、自分は十六歳になったのだと思った。誕生日不明の孤児は、新年で年を数えるのだ。とうとうサーシャの年に追いついてしまった。そして、ヴィヴィアンが宣言した通りに今夜はきっと……
「「“幸多き新年を迎えよう”」」
 最期を締めくくり、ティカは夢中で拍手喝采を送った。
「「新年おめでとう!」」
 皆が笑顔で唱和した。ティカはヴィヴィアンに抱き着いた。彼も素敵な笑顔で笑っている。ティカの腰をさらうようにして抱き寄せ、額に唇を押しあてた。
 聖歌隊の子供たちが囃したてるので、ティカは顔を赤らめた。高揚した気分で、ヴィヴィアンに頬ずりをする。
「新年おめでとうございます! ヴィー」
「新年おめでとう、ティカ」
 聖歌隊の子供らは頷きあい、有名な歌をうたいだした。二人を祝福する歌だ。
 サーシャが想いだされた。彼女も聖歌隊のメンバーで、誰よりも綺麗なソプラノで歌った。
 聖歌隊は別の歌をうたい、やがて帳面をヴィヴィアンにさしだした。彼は寄付金の額と署名をして、少年の頭を軽く撫でた。
「いい歌だった。どうもありがとう」
 少年はにっこり笑った。
「ありがとうございます、サー」
 聖歌隊がでていく頃には雪は降りやんでいた。ヴィヴィアンとティカは玄関の外にでて彼等を見送ったあと、夜空を仰いだ。凍てつ冬の空に無数の星が瞬ている。
「綺麗だなぁ……」
「本当だ」
 そういったヴィヴィアンは、星ではなくティカを見ていた。ティカはヴィヴィアンの腕をつついた。
「空を見てください! ほら、十字星!」
 そういってヴィヴィアンの腕に身を寄せた。
「陸の上で、こんなに幸せな新年を迎えられるとは思わなかった」
 柔らかな吐息が耳にかかり、ティカは背中がぞくりとした。
「ティカ」
 彼が深い愛情のこもった目で見下ろしてくる。ティカの心臓は早鐘を打ち始めた。
「十六歳、おめでとう」
「あ、ありがとうございます……」
 さっきまで大笑いしていたのに、そんな風に見つめられると、ティカは急に口が強張った。ヴィヴィアンもティカをじっと見つめている。やがて囁くようにいった。
「……生まれてきてくれて、本当にありがとう。ティカに出会えて、俺はなんて幸運なんだろう」
 とても真剣な口調で、まっすぐな眼差しでいわれたので、ティカは不意に涙がこみあげるのを感じた。ひくりと喉がつっかえそうになる。唇を噛みしめたが、結局、涙が頬を流れ落ちた。潤んだ視界に、ヴィヴィアンの美貌がぼやけて見える。誤魔化すことを諦めて、ティカはいった。
「ぼ、僕もヴィーにあえて、本当に幸せです……っ」
「ありがとう……冷えてしまったね。部屋に入ろう」
 ヴィヴィアンに肩を抱き寄せられ、ティカは無言で頷いた。
 二人は凍りつきそうな寒さの屋外をあとにし、大理石模様の玄関の温もりのなかへ入っていった。
 ついにその時がきたのかと思うと、ティカは嬉しい反面、少し怖くもあった。彼の方も、会話の口火を切ろうとはしなかった。

 寝室に入ると、暖炉の前で、ティカとヴィヴィアンは手を繋いだ。
 薪の爆ぜる音と共に、ユール・ログが威勢よく焔をあげている。拡がる温もりと、薪の燃える平和な匂い。寛いでいると、ローランドがやってきて、銀盆に乗せたパンチをカップに注いで、二人に渡した。
「俺たちの出会いと、素晴らしい航海に乾杯」
「乾杯」
 甘くてすっきりした味に、ティカはにっこりした。胃の辺りがぽかぽかと熱くなり、身体の強張りが、いい感じに解けていく。
 ヴィヴィアンは胸の内ポケットに手をいれて、何かを掴んだ拳のまま、ティカにさしだした。
「手をだしてごらん」
「?」
 ティカは不思議に思いつつ、両掌をさしだした。彼が拳を開いた途端に、碧緑の輝きがあふれでた。精霊界ハーレイスフィアのエメラルドのペンダントだ。
「これ……っ」
「アマディウスに頼んで加工してもらったんだ。護りの魔術をかけてあるから、良かったら身に着けていて」
「綺麗……ありがとうございます」
 顔をあげたティカは、思わずどきっとした。王者のような青金石色ラピスラズリの瞳で、たとえようもなく恋しい人が、愛情に満ちた眼差しでティカをみおろしていた。
「どういたしまして」
 端正な顔は暖炉の火と洋燈ランプに照らされて、なめらかな金色に縁取られている。
「……お礼をもらっていもいいかな?」
 空気が変わっていくのを感じて、情熱の焔がティカの肌をちりっと焦がした。
「……僕にできることなら」
 声が震えそうになるのをこらえて、ティカは頷いた。