メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

17章:極光蚕白の涙 - 4 -

 甲板が騒然となっている隙に、アダムはティカを連れて小型ボートで逃げようとしていた。
 ティカはどうにか彼から逃げようともがくが、痺れた体ではどうにもならず、焦燥のなか、アダムにかつがれて船に渡された板上を歩いていた。とその時、水面から大きな水渋木があがった。
 ぬっと海面から突きだした白い二本の手が、アダムの足首を掴んだ。
「何っ!?」
 驚愕するアダムの足に、オデッサは腕をからませ、引きずり落そうとする。拘束が緩んだ隙に、ティカはどうにか船の内側に倒れこむことに成功した。
「離さないか!」
 アダムは一喝すると、上着の内側に手を突っこみ、装置を掴んで素早く操作した。
「ああぁッ!」
 オデッサが苦痛の声をあげる。足を掴む腕が緩んだ瞬間、アダムは容赦なくオデッサを蹴りあげた。
「何するんだよっ!?」
 ティカは信じられない気持ちで叫んだが、アダムの動きを止めるには至らなかった。彼は冷たく光る灰色の目で、オデッサを見下ろし、
「邪魔をするな」
 冷酷無慈悲に、拷問装置の出力を最大まで絞った。床に転がっているティカを再び抱えあげ、ボートに乗りこもうとする。
「離して!」
 ティカはアダムの背中を叩いたが、それは弱々しい抗議と同じだった。アダムはティカをしっかり抱き寄せながら、オデッサが悲鳴をあげるさまを見て残酷に笑った。
「オデッサ、私のかわいいお人形。いいところにきてくれたよ。その魔性の声で、私が逃げる手助けをしておくれ」
「ティカを離しなさい!」
 オデッサは苦しみもがきながら、ボートに片手をかけ、アダムが乗りこもうとするのを阻止しようとした。アダムは少女を足蹴にしようと、膝を持ちあげた。
「やめろよッ」
 ティカは叫んだが、アダムは容赦なく足を振りおろした。オデッサは腕を突きだしたまま、海面に沈んだ。ティカは悲鳴をあげて身を屈めようとするが、アダムに阻まれた。
「君は私とくるんだ」
「なんてことするんだ! オデッサは女の子なんだよっ!?  やっ……離せったら!」
 ティカは必死に抵抗しているつもりだが、それは震えるほどささやかなもので、アダムはやすやすとティカを抱え直すことができた。
 このまま船に乗るしかないのか――絶望しかけた時、封鎖したはずの扉から爆風による粉塵があがった。
 ぎょっとして振り向いたアダムに、木屑や粉塵が豪雨のごとく降り注ぐ。ついに彼はティカを離し、両手で頭を庇った。
 煙の奥から、悠々とヴィヴィアンが現れた。ティカを見た瞬間、瞳に安堵の色を浮かべたが、すぐに用心深く表情を消し、いつもの余裕に満ちた微笑を浮かべた。
「やぁ、ティカ。迎えにきたよ。いい子にしていたかい?」
「ヴィーッ!」
 ティカの視界はたちまち潤んだ。慌てて立ちあがり、ヴィヴィアンの傍へ駆け寄ろうとしたが、アダムに腕を掴まれた。
「離せっ!」
 もがくティカを、アダムは強引に自分の傍へ引き寄せた。ヴィヴィアンはアダムを見て冷たく嗤った。
「俺が誰か知っていて喧嘩を売ったんだろう? 当然、命を張る覚悟はあるんだろうね?」
 まるで社交場サロンにでもいるかのように、ゆったりとした表情でほほえんでいるが、瞳は少しも笑っていない。怒りを孕んで冴え冴えと輝き、権威者たちとの交渉に慣れているはずのアダムを圧倒した。
「くるな。近づけば、撃つ」
 アダムは追い詰められ、銃口をティカのこめかめに突きつけた。あれほど執着を示していたというのに、まるで別人の如し振る舞いである。少年の顔に浮かんだ驚愕と動揺を見て、アダムは口元を邪悪に歪めた。
「悪いね、どうやら君の催眠が切れたらしい。全く、不可解な悪夢を見ていた気分だ」
 彼に魔法をかけてから、一日が経過したのだ! 奇しくもこのタイミングで効果が切れてしまったらしい。
 ティカは判断に迷い、ヴィヴィアンを見た。彼は冷ややかな目つきで、アダムを睨んでいた。
「その子を返してもらおう」
「ティカを殺したくないなら、武器を捨てて、両手をあげろ。そのまま膝をつくんだ」
「ヴィー! こんな奴のいうことなんか――ぐっ」
 ティカは勇敢に訴えたが、こめかみを銃把で強く殴られ、くぐもった声で呻いた。
「やめろ! いうとおりにするから、ティカを傷つけるな」
 ヴィヴィアンは慎重に拳銃を手放すと、その場でゆっくりと膝をついた。
「ヴィー、だめ……ふぐぅッ」
 首を絞めつけられながら必死にもがくティカの頬を、アダムは容赦なく片手で掴んだ。ティカの喉から苦しげな呻きが漏れる。
「やめろ! その子に手をだすな。武器はもっていない」
 ヴィヴィアンは膝をつき、両の掌をアダムに見せた。アダムは勝利を確信した笑みを浮かべると、ゆっくり銃口を持ちあげてヴィヴィアンを照準した。
「――ッ!」
 ティカは声にならぬ声で叫んだ。ヴィヴィアンが撃たれてしまう。
 恐怖のさなか、背後から水飛沫があがった。水中から腕をつきだしたオデッサは、アダムの足を掴んだ。
「この……!」
 アダムは怒りに燃えた目でオデッサを撃った。くずおれる彼女を見て、ティカは狂乱状態に陥った。ヴィヴィアンは一瞬の隙をついてアダムの銃を奪い、ティカを引きはがすと同時に、アダムを力一杯殴りつけた。
「ぐぁっ」
 アダムは床に倒れ、こめかみを手で押さえながら、どうにか立ちあがろうとした。指の隙間からは血が流れている。落ちている拷問装置を拾おうとする手を、ヴィヴィアンは容赦なく踏みつけた。
「ぎゃあぁッ」
 苦痛の絶叫をあげる。骨が砕けるほどの痛みに、アダムはあえなく降参した。
「やめてくれ! 手が! 痛めつけないでくれ!」
 ヴィヴィアンは手に足をのせたまま、冷酷に見下ろした。
「なぜティカを攫った?」
「ぐぁッ!?」
「いえよ。手が使い物にならなくなるぞ」
「判った! いう! いうからやめろッ!!」
「何?」
「ジョー・スパーナ! ジョー・スパーナだッ!」
 アダムはなりふり構わず叫んだ。手から足がどかされると、傷ついた手を胸に庇い、怯えと媚の入り交じった目で、ヴィヴィアンを仰いだ。
「わ、私が誰だか判っているのか? こんな真似をして、キャプテン・ヴィヴィアンといえども、ただでは許されないぞ」
 アダムは脅す口調でいったが、ヴィヴィアンは穏やかともいえる表情でほほえんだ。
「そっちこそ判っているのかな? 俺はロアノス政府から認可されている、私掠船の船長だよ。ジョー・スパーナと通じている裏切者を、見せしめに殺すこともできるんだけど」
 アダムは歪んだ笑みを浮かべた。
「やれるものならやってみるがいい。圧倒的な権威の前に、真実が無意味になることもあるんだよ、キャプテン・ヴィヴィアン」
「反抗的な態度はいただけないな。貴方が自発的に協力されることを、強く勧告するよ」
「覚悟しておくことだ。港へ戻ったら、貴様と、その一味を徹底的に粛清してやる。私にした仕打ちを激しく後悔させてやるからな!」
 ヴィヴィアンは冷笑を浮かべた。
「ティカの前で、あんまりこういうことはしたくないんだけど……」
 彼は、おもむろにベルトから短剣を抜くと、男の前に屈みこんだ。氷の微笑を浮かべたまま、一遍の躊躇もなく、刃をアダムの横腹に浅く突き刺した。
「うぐぅっ!!」
 男は苦悶の呻き声をあげた。
「ジョー・スパーナは合成獣キメラを仕入れているんだろう?」
 ヴィヴィアンは血に塗れた刃を、男に見せつけた。男の目に恐怖以上の光が宿る。
「時間がないんだ。本当のことだけ教えてくれ。嘘をつくたびに、刺す」
 首に剣をあてると、アダムの喉ぼとけが上下した。
「……できるわけがない。私はセルヴァの大公。王の伯父だ」
 まるで、自分にいい聞かせているような口調だった。ヴィヴィアンは表情を変えずに、反対側の横腹を刺した。
「ぎゃあぁ――ッ!!」
 男の喉から苦痛の絶叫が迸る。
 凄惨な光景を、ティカは唇を噛みしめて見つめていた。
 ヴィヴィアンの二面性は、初見では先ず見破れない。優雅で貴公子然とした魅力あふれる海賊を演じたあとで、一瞬にして、冷酷無比な海賊になれるのだ。
「殺しはしない。そうしてもいいが、奴隷取引の重要参考人だからね。ただ、手足がついた状態で帰れるかどうかは、貴方の態度次第だ」
 アダムは震えあがり、観念したのか、蒼白な顔でがっくりと項垂れた。
 ヴィヴィアンがアダムを尋問している隣で、ティカは這いずりながら、オデッサに近づいた。彼女は出発口の板上に、うつぶせで、上半身だけをかろうじて乗せている状態だった。
「オデッサ、オデッサ!」
 少女は息も絶え絶えな様子で、力なくティカを見た。息をしているのが不思議なほど、少女は弱っていた。胸のあたりは真っ赤に染まり、その周囲には青白い血管が透けて見える。瞳と唇からも血を流し、死の淵にいる少女を見て、ティカはかける言葉が見つからなかった。
 傍らにヴィヴィアンが片膝をつくと、ティカは哀願するように彼を見あげた。
「ヴィー、オデッサが……っ」
 ヴィヴィアンは少女に両腕を伸ばし、海から抱きあげると床の上にそっとおろした。容態を見て、酷いな、と厳しい顔で呟いた。
「お願い、助けてあげて」
 ヴィヴィアンはティカを見つめた。
「もう、彼女は限界だ。合成獣キメラの心臓ともいえる核を、壊されてしまっている」
「そんな……」
 ティカの頬を涙がすべりおちた。唇を戦慄わななかせるティカの肩を、ヴィヴィアンは一層強く抱きよせた。
「……ティカ」
 オデッサは瞼を震わせて、澄んだ瞳にティカを映した。
「オデッサっ!」
「あいつ……アダムは?」
 ティカは力強く頷いた。
「捕まえたよ。もう大丈夫、キャプテンが厳しくこらしめてやったからね」
「いい気味」
 オデッサはにやりとして笑おうとして、失敗した。苦しそうにむせる。その蒼白い顔が、サーシャの間際の姿と重なって見えた。
「ああ、オデッサ……っ」
 なんということだろう。助けたい少女が、死の淵にいるというのに、どうしてこんなにもティカは無力なのだろう。
「ごめんなさい、ティカ……酷いことをして……」
 オデッサはか細い声でいった。涙にぼやけた視界で、ティカはかぶりを振った。
「オデッサのせいじゃないよ」
「……良かった、ティカが無事で」
「僕は平気だよ、オデッサが助けてくれたから。だけど、オデッサが……」
「いいの、ティカが無事で良かった……」
 儚げにほほえむ少女の頬を、ティカは指先でそっと撫でた。殆ど暖かみを感じられなくて、さらに涙があふれた。こぼれおちた雫が、少女の頬を濡らしていく。
「大丈夫、きっと助かるよ、仲間が助けてくれるからね」
 振り向くと、ヴィヴィアンの後ろには、いつの間にやってきたのか、シルヴィーやサディールたち、ヘルジャッジ号の兄弟たちが集まっていた。ティカは哀願するように彼等を見た。しかし、いつもは賑やかな海賊たちが一言も口をきかず、哀しそうにティカをみおろしているばかりだった。
「ヴィー、お願い。助けてあげて……」
「……肉体は無理でも、魂は救える。オデッサが安らかに逝けるように、祈ってあげよう」
「そんな……っ」
 ティカは仲間のなかに船医のキーラを見つけて、縋るような眼差しを向けた。
「キーラ、貴方の魔術で助けてあげられませんか?」
 彼女は眉をさげ、力なくかぶりを振った。
「ごめんよ、ティカ。尽きる命ばかりは、私にもどうしようもできないんだ」
 ティカは歯を食いしばり、次にシルヴィーを見た。
 彼も諦めた瞳をしていた。喚く寸前のティカの手に、オデッサは触れた。
「いいのよ、ティカ。ありがとう……ティカのおかげで、魂が救われたわ」
 ティカは白い手を両手でつかみ、命を吹きこもうとするかのように、力強く握りしめた。
「諦めちゃだめだ。いつか、光の を開くから! きっと、精霊界ハーレイスフィアに連れていってあげるから! 君の仲間に会わせてあげる! だから、だから……っ」
「ありがとう、ティカ。今度は、ちゃんと海の生き物に生まれるように、アトラスさまにお願いしてみるね」
 彼女の口から血の筋が垂れるのを見て、ティカは顔をゆがめた。
「……オデッサ、喋っちゃだめだ」
「そうしたら、ティカの船を追いかけていくよ」
 死を覚悟した少女の笑みは、儚くも凛として美しかった。
「そんな、オデッサ……待って……お願い、逝かないで!」
 オデッサはほほえんで、小さく頷いた。優しい表情でティカを見つめ、眠るように、静かに瞼が閉じられた。
「……オデッサ?」
 ティカの掌から、白い手が力なくすべり落ちる。
「ねぇ、待ってよ、オデッサ……逝かないで……っ」
 ティカは切実な表情で懇願した。だがオデッサは動かない。
「お願い、逝かないで、逝かないで! う、うぅぅ……っ」
 額に額を押し当て、心から懇願した。
 ティカの両目から涙があふれた。哀しみに打ち震える少年を、ヴィヴィアンは胸のなかに抱き寄せた。
「ティカはできることをしたんだよ。オデッサのいった通り、彼女の魂は救われたんだ」
「でも、でも……っ」
 優しくて勇敢な友達が、逝ってしまった。
「オデッサに感謝しなくては……彼女が俺たちをここまで連れてきてくれたんだよ」
「うぅ、オデッサ……ッ」
「それから、イアンも協力してくれたよ」
「い、イアンが?」
「アダムの船影を見たとシルヴィーに伝えて、気球を運びだすのを手伝ってくれたんだ。おかげで時間を短縮できた。海にでてからは、オデッサがここまで案内してくれた」
 ティカは深い悲しみに魂を貫かれた。
「僕は、オデッサに、助けるって約束したのにっ!!」
「ちゃんと助けたよ、一番大事な彼女の心をね……オデッサがティカのために尽くしたのは、大切なものが何か知っていたからだ。いい友達をもったね、ティカ」
 腕に抱かれ、髪を撫でられると、ティカは身体から力を抜いた。
「ふ……ふぇ、えっ、うえぇんっ……!」
 ヴィヴィアンにしがみつき、上着に顔を押しつけて子供のように泣きじゃくる。ヴィヴィアンは、黒髪に慰めのキスを落としながら、優しい言葉をかけ続けた。
 夜の海に、咽び泣く慟哭が響いた。壊れかけた船の軋む音や、打ち寄せる波の音までもが、もの悲しい弔鐘のようだった。
「――ティカ」
 ヴィヴィアンに名前を呼ばれても、ティカは顔をあげることができなかった。
「ティカ! 見てごらん」
 焦ったようなヴィヴィアンの声に、ティカも涙に濡れた顔をあげた。眩しい光が目に入るのは、どうしたことだろう? オデッサを見ると、彼女の体は黄金色の神秘的な光の水に包まれていた。