メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

16章:セイレーン - 8 -

 唱えた途端に、男は眉ををひそめ、狼狽えたように胸に手をあてた。
「なんだ今のは、何をした? ……どうなっている?」
 アダムはしばらく、茫然自失の体になった。我が身に何が起きたのか、理解がつかぬようにティカを見つめ、やがて一歩を踏みだした。
「ここからだして」
 ティカは手ごたえを感じて、はっきりとした声でいった。アダムは、信じられない、といった顔でティカを凝視している。しばらく黙ったままそうしていたが、やがて思いだしたようにかぶりを振った。
「……だめだ」
「どうして!?」
「君が、大切だから」
「!? 僕が大切なら、どうして閉じこめるんだよっ」
 苛立ちを掻き立てられ、ティカは手すりを掴んで声を張りあげた。
「愛でるために」
「えっ!?」
「ティカ……」
 恍惚に翳る目に見つめられ、ティカの背筋に怖気が走った。魔法にかかっていることは確かだが、どうも雲行きが怪しい。
「……キャプテンとオデッサは、無事なの?」
 アダムは余裕のある笑みを浮かべた。
「どうかな? 君たちを襲ったのは、閣下からお借りしている凶手だ。君がここにいるということは、オデッサが首尾よく働いたのだろう。ならば、キャプテン・ヴィヴィアンといえでも無事ではすまされまい」
 凶手――色素欠乏症のように、青白い顔の男たちのことか。鋭く尖った金色の瞳が思いだされ、ティカはくしゃっと顔を歪めた。
「そんなっ……キャプテンが負けるわけないよ!」
 アダムは優しげな、それでいてどこか暖かみの欠ける微笑を浮かべた。
「彼は手ごわかったよ。もっと単純な性質かと思っていたが、慎重で用心深く、なかなか隙を見せなかった。一度襲撃に失敗してからは、近づくことすら容易ではなくなったからね」
「教会の帰りのこと? あれは、やっぱり貴方のしわざだったの?」
「そうだよ。あの好機を逃したのは残念だったが……キャプテン・ヴィヴィアンは腕が相当に立つようだから、オデッサに協力してもらうことにしたんだ。今度はうまくいったよ」
 満足そうに髭を撫でつけるアダムを見、ティカは盛大に顔をしかめた。
「こんなことのために、彼女を利用したの!?」
「こんなことではない、大望のためだ。閣下との約束だが――」
「オデッサに何をしたんだよっ!」
 言葉を遮ぎってティカが吠えると、アダムは首を傾げ、いいかね? とひとさし指を立てた。
「一つ誤解があるようだが、オデッサは鑑賞だけが目的の合成獣キメラではない。セイレーンの声を持つ兵器なのだよ」
「違う! 彼女は兵器なんかじゃない!」
「美しいものには棘があるのだよ、ティカ。彼女のことが心配なら、安心しなさい。連れ戻すよう、部下に命じてあるからね。すぐに会えるさ」
 公爵は、学徒にいいきかせる教師のような口調で説明した。その声には、宥めるような響きすらあったが、ティカの表情は苦しげに歪んだ。
 救えたと思ったのに……またしてもアダムに捕まったら、オデッサは今度こそ絶望してしまうだろう。
(オデッサ……ヴィー……)
 ティカは悄然しょうぜんと項垂れ、手すりを掴んだ。と、その手に、アダムの手が重ねられた。
「!?」
 驚いて顔をあげたティカは、翳った灰色の瞳と遭った。
「妙だな、子供に興味はないはずなんだが……私は、どうやら君が、ティカのことが欲しいようだ」
 その声に本気を嗅ぎとり、ティカは慌てて鉄柵から手を離した。無意識にあとずさり、アダムから距離をとる。
「ティカ……」
 魔法は、アダムのなかに眠る潜在的な、危険なまでの征服欲を目醒めさせてしまった。その異変を彼は自覚していたが、あまりにも陶酔的で、甘美で、疑惑よりも悦びが勝っていた。
「……お願い、ここからだして」
 もはや強気に振る舞う余裕も失せ、慈悲を請うティカを、アダムは熱の籠った眼差しで見つめた。つい先ほどまでは何とも思っていなかった少年に、性の欲望を感じている。服のしたの肌に、美しい肉体に、触れてみたい――それを支配し、慮辱したい。
 昏い欲望の眼差しをぶつけられ、ティカは生唾を飲みこんだ。
「……ここにはいられないよ。僕、帰らないと……待っている人がいるんだ」
 アダムは眉をひそめた。暗い目に嫉妬めいた焔が宿る。
「君は私のものだ。閣下にも、他の誰にも引き渡したりはしない。私が責任をもって、一生面倒を見てやろう」
「嫌だよっ!」
 ジョー・スパーナには捕まりたくないが、アダムに捕まるのも御免だ。
「ティカ、反抗的な態度は感心しないよ。私には、従順に振る舞った方が身のためだと思うがね?」
「こんなことをされて、僕が貴方のいうことを聞くと思う!? オデッサのことも、そうやって苦しめたのでしょう! 貴方は立派なんかじゃない! 冷たくて酷い人だ!」
 ティカはかっとなって、思わず叫んだ。高慢な男を、烈しく睨みつける。その程度で公爵が動揺するとは考えていなかったが、意外にも彼は躊躇いを見せた。
「……そのうち気も変わるだろう。」
「貴方に良心があるのなら、僕をここからだして! キャプテン・ヴィヴィアンのところへ帰して!」
 ティカは必死に訴えたが、アダムは気難しげな表情で押し黙り、頷こうとはしなかった。ただ反論することもなく、ティカをじっと見つめていた。その表情からは、彼が何を考えているのか、ティカにはまるで判らなかった。
 ティカがひとしきりわめいたあとで、公爵は口を開いた。
「……あとで様子を見にくる。どうするべきか、檻のなかでよく考えてみることだ」
 そういって踵を返す。部屋をでていこうとする背中を見て、ティカは慌てた。
「待って! ここからだして!」
 必死に叫んだが、扉をしめる音が無情に響いて、がっくりと項垂れた。
(……どうするべきか、だって?)
 答えは一つしかない。何がなんでも、ここから脱出するのだ。ヴィヴィアンが、アダムなんかに負けるわけがない。きっと無事でいて、今頃ティカを心配している。
(ヴィーのところに帰るんだ)
 決意を新たに、ティカは顔をあげた。
 と、その時。食事をのせた銀盆を手に、男が部屋に入ってきた
清潔な群青色の制服を着ており、頑丈そうな編みあげ靴を履いている。腰には二丁の拳銃をぶらさげ、海賊というより海兵のようだ。
「食事だ」
 男は短く告げると、檻のなかに料理を乗せた盆をいれた。事務的だが丁寧な手つきで、真面目さがうかがえる。柔らかみのある灰緑の瞳は、班仲間のアラディンを思いださせた。
(この人を味方にできたら、心強そうだぞ……よし)
 ティカはぎこちなく男に笑みかけた。
「お、お腹空いていたんだ、ありがとう……」
「ああ。あとで皿をとりにくる」
「アイ。あの、貴方の名前は?」
 男は黙って部屋をでていこうとするので、ティカは慌てた。
「待って! 僕はティカ。貴方は?」
 すると今度は無視せずに立ち止まり、ティカを振り向いた。
「ザックだ」
「そう、ザック。メル・アン・エディール!」
 間髪入れずに魔法にかけた。