メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -
16章:セイレーン - 9 -
ザックは驚愕に目を見開いた。彼もまた、劇的な変化を見せた。灰緑の瞳は生き生きと輝きだし、驚いたように瞬きを繰り返した。
「あの……ここから、だしてくれる?」
檻を両手で掴み、ティカは自信なさそうにいった。
「だが……」
「お願い。ここからでたいんだ、ザック。力を貸して」
ザックは明らかに狼狽していた。落ち着き払っていた先ほどまでとは、別人のようである。彼は自分がなぜ照れているのかも判らぬまま顔を赤らめ、やがて迷った末に頷いた。
「わ、判った」
澄んだ目には憧憬の光が灯り、ティカに惹かれていることは一目瞭然だった。
「良かった、急いでくれる?」
「ああ。アダムさまは今通信室で、ビスメイルの死神と連絡をとっておられる。逃げるなら今のうちだ」
「ビスメイルの死神?」
「そうだ。アダムさまはあんたを……ティカを、ビスメイルに連れていくといっていたのに、急に航路を変えるよう指示されたんだ。行き先がどこであれ、この船にいる限り、碌な目にあわないだろう」
「ビスメイルに連れていかれるのは困る! ボートを一つ貸してくれる?」
ザックは奇妙な顔つきになった。
「ボートはあるが、アプリティカから大分離れているぞ。まさか、漕いで帰るつもりか?」
「なんとかなると思う。味方も沖にでて探してくれていると思うんだ」
「無謀だ! あんな小舟じゃ、引き返す前に沈んじまう! 命を投げ捨てるようなものだぞ」
ティカは真剣な顔でザックの瞳を見つめた。
「僕には、海の友達がいるんだ。船が沈んだら、彼等の背中に乗せてもらうよ。それより、この船に乗っていることの方がまずいんだ。だからボートを貸して!」
「だが、」
「ザック、お願い!」
ザックは言葉を躊躇った。ティカが見つめているうちに、彼の瞳から迷いが消えていった。
「……判った。すぐに戻る」
ザックは部屋をでていき、言葉の通り、しばらくすると戻ってきた。両手で籐 で編まれた洗濯籠を持っている。どうするのか見ていると、籠をいったん床に置き、ポケットから鍵束を取りだした。
三つの鍵を試したあと、四つ目で南京錠の鍵が開いた。ザックは檻のなかに入ると、強張るティカの前で長身を屈め、足輪の戒めも鍵束を使って外した。
「ありがとうっ」
「ああ」
安堵の笑みをこぼすティカを見て、ザックは目を細めた。意外なほど優しい仕草でティカの髪を撫でたあと、持ってきた籠を指さした。
「ティカ、身体は柔らかいか? あれに入れるか?」
「やってみる」
ティカは張り切って肩をぐるぐると回し、足を曲げて柔軟をすると、器用に身体をまるめて狭い籠のなかにおさまった。
「よし、大人しくしていろよ」
ザックは無造作にシーツや麻を籠の上にかけると、両手でもちあげて部屋をでた。ティカは細心の注意を払って、籠の網目の隙間から外の様子をうかがった。
幸い、部屋の前の廊下では、他の船員と一度もすれ違わなかった。
第二甲板に降りて、どうやらボートが格納されているらしい船倉に入ると、同じ制服を着た男が歩いてくるところで、彼は観察するような目でザックを見た。
「おい、どこへく?」
ザックは籠を見せつけるようにしていった。
「囚人の世話ついでに、帆布 をもってきてほしいと頼まれたんだ」
男は一応頷いて、道を譲った。だが違和感を覚えたようで、ザックの背中をしばらく見ていた。
目的の倉庫に入ると、ティカは籠から飛びだして、辺りをうかがった。壁に繋がれているボートに目を留めた。下は浅く海水の入った縦長の出発口になっているから、壁面の扉を直上にもちあげれば、海へでていける仕様だ。
「あのボート、おろせる?」
「ああ」
ザックはボートの縄に手をかけた。舫綱 のように強固で、なかなか解けない。ティカも手伝い、二人掛かりで小舟をおろそうとする。
とその時、廊下の方から、男たちの怒鳴り声が聞こえてきた。
「どこにいった!?」
どうやら逃げたことがばれたらしい。鋭い怒声と共に、床板を軋ませながら駆けてくる、複数の足音がする。
ティカは慌ててボートを海水に浮かべようと縄を引っぱったが、声はすぐそこまで迫っている。
「急げ!」
ザックは入り口に立ち、油断なく剣を構えた。敵がなだれこむと同時に、ボートのロープがようやくほどけて、ばしゃーんと出発口の海水に水平になった。
すぐさま飛び乗ろうとしたティカは、ザックの背中を狙う敵を見て躊躇い、踵を返した。
「――このぉッ!!」
突然の攻撃に、敵は驚いて飛びのいたが、新たな敵がすぐに目の前に現れた。多勢に無勢。だが、ティカは鍛え抜かれた敏捷性を発揮し、刃を受け流した。心を落ち着かせ、煌く剣に集中する。
相手はティカを見るなり小柄な少年と侮ったが、すぐさま後悔することになった。ティカは男の腕の肉を切り、剣を奪った。男は泣き叫んで悪態をついたが、どうにか両脚で踏ん張り、次のティカの一線をかわした。決まっていれば致命傷だった。
これもロザリオの教えの一つだ。攻撃が最大の武器であるように、防御は生き残るための最大の武器になりうる。
ティカは屈んだ姿勢で着地すると、一気に加速した。二度跳躍し、大きな回し蹴りで長身を吹っ飛ばした。
死角から、強烈な一撃が飛来した。太刀筋は全く見えなかったが、際どいところで躱した。鋭い一撃を、受け流すと同時に横へ逃げたが、腕がその衝撃で痺れるのを感じた。退路を探りなら、剣戟 に応じる。
どうやらかなりの手練れだ。教本にあるような剣技である。優雅で正確、迷いがない。相手はティカを殺すつもりでいる。
「くそっ」
息を整えながら、悪態をつくティカに、刃がふりおろされる。
ティカは上目遣いに、剣の柄を追いながら、身を屈める。正攻法では永劫に勝てない。ならば裏をかくまで。
「うわっ」
ティカは油断を誘い、わざと剣を弾かれ、体勢をくずしたと見せかけ、ぐっと縮んで相手の懐にもぐりこんだ。柄の方で顎を砕く。
ロザリオ直伝の裏技である。卑怯といえばそうかもしれないが、実戦でそんなことはいっていられない。
「――やめろ! ティカに傷つけるなッ!」
と、アダムの声が聴こえた。確かめている余裕はない。左右から襲いかかる一方に裏拳をいれて、もう一方の敵は横腹に蹴りをお見舞いした。
「あ!」
奮闘したティカだが、首に痛みが走り、がくりと膝をついた。
「安心しなさい、ただの麻酔弾だ」
困惑するティカを見て、アダムは笑みを深めた。
「君には本当に驚かされるよ。一体、どうやってザックにいうことをきかせたんだ?」
彼はティカの前に屈みこみ、頼りげなく震えている少年の背中に腕を回した。
「ティカを離せ!」
ザックが怒鳴った。かと思えば、苦しげな呻き声をあげる。アダムが邪魔で姿は見えないが、とりおされられているようだ。
「彼は僕の魔法にかかっているだけなんだ。酷いことはしないで!」
慄然 とティカが叫ぶと、アダムの瞳がきらりと光った。
「噂に聞いたことがある。古代神器をもつ少年は、心を奪う魔法を操れると……与太話だと思っていたが、まさか私にも……?」
複雑な顔をするティカにじっと目を注ぎ、やがてアダムは驚嘆と歓喜をその目に灯した。
「実に興味深い! この私を催眠にかけるとは!」
声には狂信的な響きが忍びこんでいた。アダムは腕のなかの少年にじっと目を注ぎ、執着を感じさせる手つきで頬を撫でた。顔を背けるティカの顎を掴み、目を覗きこむ。
「ジョー・スパーナもキャプテン・ヴィヴィアンも欲しがるはずだ。合成獣 など比べ物にならない、君は本当に、特別な少年だよ」
「僕はエステリ・ヴァラモン海賊団の一味だ。他の誰の仲間にもなるつもりはない」
ティカは、殆ど瞬きもせずにいった。
「気は長い方でね。ゆっくり口説くとしよう。幸い、時間はある。誰もやってこない離島で、しばらく二人きりで過ごそうじゃないか」
ティカは唇をかみしめた。酷く罵ってやりたいが、瞼が勝手に降りてくる……碌に抵抗もできぬまま、足輪を嵌められた。
意識が薄れゆく数秒間に思った。ついに運命も尽きたか、と。
「あの……ここから、だしてくれる?」
檻を両手で掴み、ティカは自信なさそうにいった。
「だが……」
「お願い。ここからでたいんだ、ザック。力を貸して」
ザックは明らかに狼狽していた。落ち着き払っていた先ほどまでとは、別人のようである。彼は自分がなぜ照れているのかも判らぬまま顔を赤らめ、やがて迷った末に頷いた。
「わ、判った」
澄んだ目には憧憬の光が灯り、ティカに惹かれていることは一目瞭然だった。
「良かった、急いでくれる?」
「ああ。アダムさまは今通信室で、ビスメイルの死神と連絡をとっておられる。逃げるなら今のうちだ」
「ビスメイルの死神?」
「そうだ。アダムさまはあんたを……ティカを、ビスメイルに連れていくといっていたのに、急に航路を変えるよう指示されたんだ。行き先がどこであれ、この船にいる限り、碌な目にあわないだろう」
「ビスメイルに連れていかれるのは困る! ボートを一つ貸してくれる?」
ザックは奇妙な顔つきになった。
「ボートはあるが、アプリティカから大分離れているぞ。まさか、漕いで帰るつもりか?」
「なんとかなると思う。味方も沖にでて探してくれていると思うんだ」
「無謀だ! あんな小舟じゃ、引き返す前に沈んじまう! 命を投げ捨てるようなものだぞ」
ティカは真剣な顔でザックの瞳を見つめた。
「僕には、海の友達がいるんだ。船が沈んだら、彼等の背中に乗せてもらうよ。それより、この船に乗っていることの方がまずいんだ。だからボートを貸して!」
「だが、」
「ザック、お願い!」
ザックは言葉を躊躇った。ティカが見つめているうちに、彼の瞳から迷いが消えていった。
「……判った。すぐに戻る」
ザックは部屋をでていき、言葉の通り、しばらくすると戻ってきた。両手で
三つの鍵を試したあと、四つ目で南京錠の鍵が開いた。ザックは檻のなかに入ると、強張るティカの前で長身を屈め、足輪の戒めも鍵束を使って外した。
「ありがとうっ」
「ああ」
安堵の笑みをこぼすティカを見て、ザックは目を細めた。意外なほど優しい仕草でティカの髪を撫でたあと、持ってきた籠を指さした。
「ティカ、身体は柔らかいか? あれに入れるか?」
「やってみる」
ティカは張り切って肩をぐるぐると回し、足を曲げて柔軟をすると、器用に身体をまるめて狭い籠のなかにおさまった。
「よし、大人しくしていろよ」
ザックは無造作にシーツや麻を籠の上にかけると、両手でもちあげて部屋をでた。ティカは細心の注意を払って、籠の網目の隙間から外の様子をうかがった。
幸い、部屋の前の廊下では、他の船員と一度もすれ違わなかった。
第二甲板に降りて、どうやらボートが格納されているらしい船倉に入ると、同じ制服を着た男が歩いてくるところで、彼は観察するような目でザックを見た。
「おい、どこへく?」
ザックは籠を見せつけるようにしていった。
「囚人の世話ついでに、
男は一応頷いて、道を譲った。だが違和感を覚えたようで、ザックの背中をしばらく見ていた。
目的の倉庫に入ると、ティカは籠から飛びだして、辺りをうかがった。壁に繋がれているボートに目を留めた。下は浅く海水の入った縦長の出発口になっているから、壁面の扉を直上にもちあげれば、海へでていける仕様だ。
「あのボート、おろせる?」
「ああ」
ザックはボートの縄に手をかけた。
とその時、廊下の方から、男たちの怒鳴り声が聞こえてきた。
「どこにいった!?」
どうやら逃げたことがばれたらしい。鋭い怒声と共に、床板を軋ませながら駆けてくる、複数の足音がする。
ティカは慌ててボートを海水に浮かべようと縄を引っぱったが、声はすぐそこまで迫っている。
「急げ!」
ザックは入り口に立ち、油断なく剣を構えた。敵がなだれこむと同時に、ボートのロープがようやくほどけて、ばしゃーんと出発口の海水に水平になった。
すぐさま飛び乗ろうとしたティカは、ザックの背中を狙う敵を見て躊躇い、踵を返した。
「――このぉッ!!」
突然の攻撃に、敵は驚いて飛びのいたが、新たな敵がすぐに目の前に現れた。多勢に無勢。だが、ティカは鍛え抜かれた敏捷性を発揮し、刃を受け流した。心を落ち着かせ、煌く剣に集中する。
相手はティカを見るなり小柄な少年と侮ったが、すぐさま後悔することになった。ティカは男の腕の肉を切り、剣を奪った。男は泣き叫んで悪態をついたが、どうにか両脚で踏ん張り、次のティカの一線をかわした。決まっていれば致命傷だった。
これもロザリオの教えの一つだ。攻撃が最大の武器であるように、防御は生き残るための最大の武器になりうる。
ティカは屈んだ姿勢で着地すると、一気に加速した。二度跳躍し、大きな回し蹴りで長身を吹っ飛ばした。
死角から、強烈な一撃が飛来した。太刀筋は全く見えなかったが、際どいところで躱した。鋭い一撃を、受け流すと同時に横へ逃げたが、腕がその衝撃で痺れるのを感じた。退路を探りなら、
どうやらかなりの手練れだ。教本にあるような剣技である。優雅で正確、迷いがない。相手はティカを殺すつもりでいる。
「くそっ」
息を整えながら、悪態をつくティカに、刃がふりおろされる。
ティカは上目遣いに、剣の柄を追いながら、身を屈める。正攻法では永劫に勝てない。ならば裏をかくまで。
「うわっ」
ティカは油断を誘い、わざと剣を弾かれ、体勢をくずしたと見せかけ、ぐっと縮んで相手の懐にもぐりこんだ。柄の方で顎を砕く。
ロザリオ直伝の裏技である。卑怯といえばそうかもしれないが、実戦でそんなことはいっていられない。
「――やめろ! ティカに傷つけるなッ!」
と、アダムの声が聴こえた。確かめている余裕はない。左右から襲いかかる一方に裏拳をいれて、もう一方の敵は横腹に蹴りをお見舞いした。
「あ!」
奮闘したティカだが、首に痛みが走り、がくりと膝をついた。
「安心しなさい、ただの麻酔弾だ」
困惑するティカを見て、アダムは笑みを深めた。
「君には本当に驚かされるよ。一体、どうやってザックにいうことをきかせたんだ?」
彼はティカの前に屈みこみ、頼りげなく震えている少年の背中に腕を回した。
「ティカを離せ!」
ザックが怒鳴った。かと思えば、苦しげな呻き声をあげる。アダムが邪魔で姿は見えないが、とりおされられているようだ。
「彼は僕の魔法にかかっているだけなんだ。酷いことはしないで!」
「噂に聞いたことがある。古代神器をもつ少年は、心を奪う魔法を操れると……与太話だと思っていたが、まさか私にも……?」
複雑な顔をするティカにじっと目を注ぎ、やがてアダムは驚嘆と歓喜をその目に灯した。
「実に興味深い! この私を催眠にかけるとは!」
声には狂信的な響きが忍びこんでいた。アダムは腕のなかの少年にじっと目を注ぎ、執着を感じさせる手つきで頬を撫でた。顔を背けるティカの顎を掴み、目を覗きこむ。
「ジョー・スパーナもキャプテン・ヴィヴィアンも欲しがるはずだ。
「僕はエステリ・ヴァラモン海賊団の一味だ。他の誰の仲間にもなるつもりはない」
ティカは、殆ど瞬きもせずにいった。
「気は長い方でね。ゆっくり口説くとしよう。幸い、時間はある。誰もやってこない離島で、しばらく二人きりで過ごそうじゃないか」
ティカは唇をかみしめた。酷く罵ってやりたいが、瞼が勝手に降りてくる……碌に抵抗もできぬまま、足輪を嵌められた。
意識が薄れゆく数秒間に思った。ついに運命も尽きたか、と。