メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

16章:セイレーン - 4 -

 十一月の終わりに、選評会の結果が公表された。ヘラージョ・アプリティカの全ての出品が明らかになり、新聞や雑誌の一面には、連日、競売会の記事が大々的に取りあげられるようになった。
 十二月になると、のどかな田舎町のアプリティカは、一年で最も賑やかな季節を迎えた。競売会に参加するために、世界中から人が集まってくるのだ。この時期はどの宿屋も満室御礼である。
 そして十二月二十六日。競売会前夜。アダムはオデッサの水槽を眺めながら、葡萄酒を飲んでいた。
「明日が楽しみだよ……昼も夜も、大勢の客がやってくるぞ。ビスメイルの富豪やカーヴァンクル商会、エステリ・ヴァラモン海賊団を始めとする私掠船乗りたちが、私の競売会に大金を落としにやってくるのだ」
 水中で蹲っていたオデッサは、力なく顔をあげてアダムを見た。
「クライ・エメラルドは過去最高額をつける競売劇になるだろう。お前とどっちが値を張るかな?」
 アダムはさらに笑みを深めると、こう続けた。
「大金を稼ぐだけでは終わらせないぞ……先日の襲撃は失敗したが、明日は成功させてみせる。オデッサ、判っているね?」
 オデッサは嫌そうに顔をしかめた。
「カーヴァンクル商会の裏競売の目的は君だ。あそこはエステリ・ヴァラモン海賊団の貿易顧問を務めているから、落札後はキャプテン・ヴィヴィアンに引き渡すだろう。彼が商品を眺めないわけがない。その時こそがチャンスだ」
 オデッサは不愉快のあまり、両耳を手でふさいだが、アダムは悦に入った様子で続けた。
「簡単な仕事だよ、オデッサ。その鈴を振るような魔性の声で、歌えばいいだけだ」
 オデッサは我慢がならず、水面から顔をのぞかせると、アダムを睨みつけていった。
「煩い! 好き勝手にいわないでちょうだい、誰が歌うものですか!」
 尾ひれで水面を掻きあげ、格子天井の向こう、泰然と寛ぐアダムの方へ勢いよく飛沫を跳ねさせる。弧を描いて跳ねあがった水渋木は、男の艶やかな靴の先を僅かに濡らした。
 アダムは不愉快げに顔をしかめると、懐に手を突っこみ、装置を取りだした。強張るオデッサの顔を見ながら、それを起動した。
「ッ、卑怯者!」
 オデッサは苦しげにもがき、尾ひれで水を激しく掻き回す。
「何度いえば判るんだろうね、君は。誰が飼い主なのか、そろそろ理解してもよさそうなものだが……魚の血が混じったせいで、知性も劣化したのかな?」
 アダムは自分の頭を指でさし、唇を嘲弄に歪めていった。オデッサは怒りに燃える瞳でめつける。
「偉そうに! あんたみたいな奴は、さっさとくたばればいいんだ!」
「やれやれ、麗しき人魚が品のない……明日はお行儀よくしてくれたまえよ」
「知ったことですか! 恥をかきたくないのなら、競売会で売ろうだなんて思わないことね」
「馬鹿な。お前にいくら投資したと思っている? しっかり働いてくれなくては困る」
「あんたのいうことなんか誰が……きゃあぁッ!」
 心臓をしめつけられ、オデッサは悲鳴をあげた。たまらず水中に潜り、尾を激しく震わせてもがき苦しむ。
「装置がある限り、私から逃げられやしないんだ。私はいつでも、お前を意のままに操ることができるんだよ」
 オデッサが苦しげに水槽を叩いても、アダムは容赦しなかった。装置を動かし続け、オデッサが弱っていく様子をただ見ていた。
「抗うだけ無駄だ。どうせ最後は自我を手放すのだから……素直に従った方が、痛みは少なくすむぞ」
 嫌だというように、オデッサは烈しく首を振り、水槽の底へと沈んだ。
「全く、強情な娘だ」
 アダムは首をひねり、非情にも拷問装置を操った。オデッサは賢明に耐えたが、拷問は執拗に繰り返され、次第に追い詰められていった。
 ついに恐怖と苦痛と絶望から心を手放し、生気の感じられない虚ろな表情で、従順にアダムを見つめるのだった。
「でておいで、オデッサ」
 彼女は水面に顔をのぞかせると、ぼんやりとアダムを見た。
「これで十五回目だ。少しは慣れてきたかね?」
「はい、ご主人さま……」
「いい返事だ。さぁ、歌っておくれ。美しい声を聞かせてごらん」
「はい、ご主人さま……」
 オデッサは目を閉じて歌いだした。美しい調べに、アダムは満足そうにほほえんだ。
「その調子だ、オデッサ。誰もが君の歌の虜になるだろう」
「……」
「襲撃のタイミングは合図する。その時は君の素晴らしい歌声で、全員眠らせるんだ。できるね?」
「仰せの通りに、ご主人さま……」
 オデッサは虚ろな顔で返事をした。
「よろしい。期待しているよ、オデッサ」
 アダムは椅子を立ち、扉を開けてでていく前に振り向いた。
「明日は大仕事が待っている、今夜はゆっくり休みなさい」
 慈悲を与えるようにつけ加えると、部屋の明かりを落とした。
 部屋に静寂が戻ったあと、オデッサはしばらく茫然自失していたが、やがて我に返った。心を凍らせていた間の出来事が蘇り、思わず呻き声が漏れた。
(うぅ……悔しい、また負けた! またいいようにされた! どうして私は、あいつに勝てないのッ!?)
 悔しさのあまり、血が滲むほど細い唇を噛みしめる。両手に顔を沈めると、瞼の裏にティカの笑顔が浮かびあがった。
(ティカ……)
 明日、ティカが競売会に現れ、オデッサを落札する奇跡を起こしてくれたとしても、その良心に報いることができない――心を縛られている限り。
(うううぅっ……おのれ、アダム。どうして、私はどうして、自由になれないのッ!!)
 オデッサは水槽のなかでもがいた。水槽の表面を両の拳で叩くが、強化硝子はびくともしない。
(どうしよう、なんとかティカに伝えないと……っ)
 オデッサは何度も囁いた。彼に警告したいが、幾ら呼びかけても気配を感じられない。いつかのような奇跡は、二度は起こせないのだろうか?
(……ティカ……明日はきちゃだめだよ)
 初めて好ましいと思った人間。手をさしのべてくれた心優しい人なのだ。もう一度会いたいと思っていたけれど、明日だけは会いたくない。
(あぁ……どうすれば……)
 オデッサは必死に考え、どうにか自分を励まそうと試みたが、重苦しい絶望に圧し潰されそうだった。
 陽射しのような笑顔が脳裏を過る。ティカだけは傷つけたくない。けれどこのままでは、オデッサのせいで彼を不幸にしてしまう。
 恐怖。懇願。絶望――遥かなる精霊界ハーレイスフィアへの郷愁が抑えきれないほどに膨らみ、ままならない状態への苛立ちがいや増した。
“あああぁぁぁ――ッ!! ここからだせ! 私をだせッ!”
 拳を硝子に叩きつけた。何度も何度も。怒りと絶望で気が狂いそうだった。
 ぷつり。張りつめた糸が切れるように、ふいに怒りがおさまり、哀しみが押し寄せてきた。オデッサは水槽の底で縮こまり、死んだように動かなくなった。
 ティカを苦しめるくらいなら、いっそ海の泡となって消えてしまいたかった。