メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -
16章:セイレーン - 5 -
十二月二十七日。高額美術品競売会開催日。
今日は春のような陽気で、古色蒼然としたヘラージョ・アプリティカの屋根は、午後の陽光を浴びて燦然と輝いていた。
ヴィヴィアンとティカが会場へ着いた時、既に来場客の馬車が無数に止まっており、入り口では、街の憲兵や王都から派遣された海兵たちが、どんな不穏因子も見逃さぬと睨みを利かせていた。
なかへ入ったあとも大変な混雑だったが、ヴィヴィアンは慣れた様子でティカの手を引っ張り、渦巻く群衆のなかを進んだ。すると間もなく玄関広間を抜けて、目的地である劇場にたどり着いた。
「チケットは要らないんですか?」
受付に並ぶ群衆を横目に見ながら、ティカは不思議そうに訊ねた。
「専用のボックス席があるからね。かかった費用は、俺の勘定につけられる」
ティカは感心したように頷いた。有名人だと色々と顔が利くようだ。ようやく劇場に入ると、その壮大さにティカは圧倒された。
「わぁ……」
贅を凝らした豪奢な空間である。天上は高く、何層にもなったボックス席と座席は、金箔で装飾が施されている。
「こっちだよ」
ヴィヴィアンは立ち止るティカの手を引いて、螺旋階段をのぼった。一階は比較的に安価な庶民席だが、二階から上は富裕層向けである。
彼は、とびっきりの特等席――会場をみおろせる、二階のボックス席にティカを連れていった。
席におさまると、劇場の召使が現れ、折り畳みの丸卓を広げて、その上に果物や葡萄酒を乗せた銀盆をセットした。
「コルクをお抜きしましょうか?」
頭を低くしたまま、召使いが訊ねた。ティカは狼狽えたが、ヴィヴィアンは慣れた様子で頷いた。
「そうしてくれ。あと、ナッツと甘いものも持ってきてくれる?」
召使いは恭しく頷き、先ずはボトルのコルクを抜いた。ぽんと小気味い音がなり、傍にいた幾人かがこちらを見上げるのが判った。
細いグラスを恭しく渡され、ティカはぎこちなく口をつけた。
「美味しい?」
ヴィヴィアンに訊かれたが、ティカにはよく判らなかった。首をひねって、もう一口。
「なんだか、ぱちぱちする」
率直な感想に、ヴィヴィアンはくすっと笑った。
「シャンパンだからね」
大衆酒場で何度か飲んだことはあるが、それよりも炭酸はきめ細かく深みがあり、美味しいといわれれば、そうかもしれないと思った。
ややして、召使いが硝子の器に盛りつけられた、ナッツや菓子を運んできた。ティカは目を輝かせて手を伸ばした。高級シャンパンよりも、菓子の方が嬉しい。幸せそうに頬張る姿を、ヴィヴィアンは表情を綻ばせながらしばらく眺めていた。
緊張も解ける頃には、シルヴィーやユヴェールたちもやってきて、近くのボックス席におさまった。ティカがはしゃいだ様子で手を振ると、彼等は軽く手をあげて応えてくれた。
「――ご来場のみなさま」
拡声器を通して部屋に響く声に、談笑していた観客たちは一斉に壇上に注目した。
そこには、ぴかぴかの靴にベロアのジュストコールを颯爽と羽織った支配人、アダム・バッスクールが立っていた。期待に満ちた会場の視線を一身に集めて、彼は優雅にお辞儀をしてみせた。
「本日は、伝統あるヘラージョ・アプリティカの競売会にお越しいただき、誠にありがとうございます。これより二部に分けて、当会場にて世界最大規模の高額オークションを執り行います」
わっと歓声が沸き起こると、支配人は嬉しそうに破顔し、会場をぐるりと見回した。
「皆さま、盛大な拍手をありがとうございます。それでは、お待ちかねのオークションを早速始めるといたしましょう!」
眩い照明がたかれ、従業員たちの手により、中央のテーブルを覆う絹がばっととられた。こぼれでる輝きに、観客たちは一斉に息を呑んだ。
「こちらは、六〇.二〇カラットの大粒ダイヤモンド。東洋の鉱山からとれた曇りなき輝き、恐ろしいまでの透明度。内部に一切の傷がない、フローレス・ダイヤモンドです!」
賞賛の拍手が沸き起こり、アダムは笑みをこぼした。
「盛大な拍手を、ありがとうございます。それでは始めましょう。三億ルーヴからスタートします。希望される方は?」
観客席から札をあげる者が相次いだ。アマディウスも挙手している。彼は誰よりも先に札をあげた。ダイヤを見るその眼差しは、真剣そのものだ。
「では三億ルーヴ。はい、二番の方、三億五千万! 三億五千万ルーヴあがりました。十八番の方、四億ルーヴ!」
息もつけぬコールの嵐に、会場は大盛りあがり。値段がつりあげられる度にあがる札数は減っていき、最後はアマディウスと老紳士の一騎打ちになった。
「――八十二臆ルーヴ! 二番の方の落札です。おめでとうございます」
ついに勝敗は決した。満場の拍手が降り注ぐなか、アマディウスは完璧な礼節に則ってお辞儀をした。
ティカも夢中で拍手を送った。会場中から讃えられている彼が、英雄のように見えて誇らしかった。
支配人のアダムも満悦そうだ。八十二臆ルーヴという、ダイヤモンドでは過去最高額での落札が成立したのである。並の資産家では手が届かない金額だが、空の帝国で五指に入る、大富豪の一族であるアマディウスであれば問題はなかった。彼の支払い能力をアダムも信頼していた。
そのあとも、様々な品が次から次へと競売にかけられた。
世にも稀 な稀覯 本。南国の花鳥を螺鈿 で象 った宝石箱。古い象形文字 の綴られた石碑。最高級の雪花石膏 の皿。宝石の嵌めこまれた金の装身具、さまざまな宝飾剣、色褪せた絵の描かれている磁器製の飾り壺。
数えあげればきりがない。世界中の宝ものが、この場に集結しているかのようだった。
第一部が終り、休憩の時間になると、ティカたちは会員制ラウンジに集まった。明るい窓際でヴィヴィアンもシルヴィーと談笑している。ティカはきょろきょろと彼等を眺め、心ここに在らずといった風に、落札した宝石を眺めているアマディウスの傍に近づいていった。
「こんにちは」
ティカは明るく声をかけたが、案の定アマディウスは無反応だった。代わりに、傍にいたユヴェールは笑顔を向けてくれた。
アマディウスは手にした凸レンズで先ほど入札した宝石を仔細に調べている。
「アマディウスは何を見ているんですか?」
「……ん? ああ、サファイアの指輪だよ」
顔をあげたアマディウスは、細長い指先で、見事な指輪を光に翳してみせた。
「欲しかった品物の一つなんだ。素晴らしい輝きだと思わないかい?」
「綺麗ですね」
「本当にね。ずっと見ていられるよ……」
うっとりと頬を染めて見入る姿に、ティカは首を傾げた。
「ダイヤモンドは見ないんですか? もっと大金をだしたのに」
「あれは弟に頼まれたんだよ。僕は代理で落札しただけ」
「弟って、バビロンにいる?」
「そう、空飛ぶ軍艦に乗っている双子の弟。ダイヤモンドに目がないんだけど、軍の任務があるから、なかなか地上に下りてこれないんだ」
「ふぅん、どうやって渡すんですか?」
ティカは不思議に思ったが、アマディウスには聞こえていなかった。
「嗚呼、美しい……本当に美しい……なぜだい……?」
完全に閉じた世界に入りこんでいる。ティカは意志疎通を諦め、ヴィヴィアンの元へ戻ると、大人しく彼等の会話に耳を傾けるのだった。
第二部が始まると、観客たちは、目にも彩な宝石の洪水に忽 ち目を奪われた。
希少性の高い月長石、ルビー、美しい真珠、八カラットのブルー・ダイヤモンド。比類ない高値で、次々と取引されていく。
やがて陽が暮れ、競売も終盤にさしかかると、いよいよ本日の目玉商品――精霊界 のクライ・エメラルドをのせたテーブルが壇上に運ばれてきた。布で覆われているにも関わらず、会場中から期待に満ちた大歓声が沸き起こった。
ティカの胸は期待と喜びでいっぱいになった。あの宝石は僕たちがとってきたんだ! そう叫びたかった。ヴィヴィアンやサディール、そして海の生き物たちに助けれ、ブルーホールの深海からとってきたのだ。
支配人は芝居じみた仕草で指を鳴らし、宝石を覆う絹を外させた。
「深海の神秘。当競売会で初めて披露されます、精霊界 のエメラルドをご覧ください!」
会場を静かな驚きの声が満たした。
「それでは三十億ルーヴから始めましょう」
開始宣言と共に、客席から無数の札があがった。
「では三十億ルーヴ。はい、三十一億ルーヴあがりました。三十二億ルーヴ!」
瞬く間につりあがっていく金額に、ティカはこれまでに経験したことのない高揚感を覚えた。隣を見れば、ヴィヴィアンも期待に瞳を輝かせている。
「百十二億ルーヴ!」
既に目を瞠るほどの高額に達している。あがる札は最初の半数にまで減ったが、決着はまだつきそうにない。
「百十三億ルーヴ! 二十八番の方、百十五億ルーヴ!」
過去最高額の値段を更新し、もはや会場は静まり返っていた。ヴィヴィアンは寛いだ様子で満足そうに眺めているが、ティカはグラスに手を伸ばす余裕もなく、固唾をのんで見守っていた。
「百二十億ルーヴ……あちらと、あちらのお客様ですね」
最後まで札をあげているのは、南西の国からやってきた宝飾品販売商と、個人蒐集家の二人だ。この世の頂点に立つ資産家同士の一騎打ちである。
「続けます。百三十億ルーヴ」
コールはまだ止まらない。ついに百五十億ルーヴを突破すると、普段は冷静な航海士までもが、動揺を抑えきれずに口に手をやり、緊張した様子を見せた。ティカも百億ルーヴを超えたあたりから、全身の震えが止まらなくなっていた。百五十億ルーヴだって? 聴覚を疑いそうになるが、こうしている間にも金額はつりあがっていく。
「二百五十億ルーヴ! 二十八番の方からあがりました。二百五十億ルーヴ、いかがですか?」
なんという天文学的に桁外れの莫大な数字であることか! この途方もない競売劇の観客の殆どにとって、想像もつかぬ大金であることは間違いなかった。
「ありませんか?」
一方の客人は悔しそうな表情を浮かべ、かぶりを振った。
「それでは二百五十億ルーヴ! おめでとうございます!」
決着がついた瞬間、会場からは割れんばかりの拍手喝采が起こった。ティカもすっかり興奮して夢中で手を鳴らした。お目にかかったこともない金額が、あのエメラルドにつけられたのだ!
「僕たちは大金持ちだ!」
有頂天になったティカが叫ぶと、ヴィヴィアンは笑った。
「違いない」
そういって、口元を手で押さえたまま固まっているシルヴィーを見た。青い瞳に悪戯めいた光を灯して、
「どうだい、あの時アンデル海峡を渡らなくて良かっただろう?」
シルヴィーは瞬きをすると、いつもの自信を取り戻してにやりと笑った。
「いつの話だ。だが、認めるよ。あんたのいった通り、巨利を手にしたな」
二人が肩を叩いて喜びを分かち合う姿に、ティカは冒険の始まりの日を思いだした。パージ港で出会った時、シルヴィーはアンデル海峡の仕入れを不意にしたヴィヴィアンに腹を立てていたのだ。けれど今日まで共に航海を続け、幾多の困難を乗り越え、さらに大きな財宝を手にすることができた。アプリティカで想像以上の値段で売ることができたのだ。
高揚した気分のまま、ティカは夜から始まる秘密の競売会にも当然参加するつもりでいたが、ヴィヴィアンは難色を示した。
「うーん……オデッサが気になるのは判るけど、奴隷売買は見ていて気持ちがいいものじゃないよ。先に邸に戻っていたら?」
ティカは、とっておきのお楽しみを奪われたかのように感じ、激しく首を左右に振った。
「どうか僕も連れていってください! オデッサが落札される瞬間を、この目で見たいんです。お願いします!」
と、額づきかねない勢いで懇願され、ヴィヴィアンは思案げな表情を浮かべつつ、最終的に頷いた。
今日は春のような陽気で、古色蒼然としたヘラージョ・アプリティカの屋根は、午後の陽光を浴びて燦然と輝いていた。
ヴィヴィアンとティカが会場へ着いた時、既に来場客の馬車が無数に止まっており、入り口では、街の憲兵や王都から派遣された海兵たちが、どんな不穏因子も見逃さぬと睨みを利かせていた。
なかへ入ったあとも大変な混雑だったが、ヴィヴィアンは慣れた様子でティカの手を引っ張り、渦巻く群衆のなかを進んだ。すると間もなく玄関広間を抜けて、目的地である劇場にたどり着いた。
「チケットは要らないんですか?」
受付に並ぶ群衆を横目に見ながら、ティカは不思議そうに訊ねた。
「専用のボックス席があるからね。かかった費用は、俺の勘定につけられる」
ティカは感心したように頷いた。有名人だと色々と顔が利くようだ。ようやく劇場に入ると、その壮大さにティカは圧倒された。
「わぁ……」
贅を凝らした豪奢な空間である。天上は高く、何層にもなったボックス席と座席は、金箔で装飾が施されている。
「こっちだよ」
ヴィヴィアンは立ち止るティカの手を引いて、螺旋階段をのぼった。一階は比較的に安価な庶民席だが、二階から上は富裕層向けである。
彼は、とびっきりの特等席――会場をみおろせる、二階のボックス席にティカを連れていった。
席におさまると、劇場の召使が現れ、折り畳みの丸卓を広げて、その上に果物や葡萄酒を乗せた銀盆をセットした。
「コルクをお抜きしましょうか?」
頭を低くしたまま、召使いが訊ねた。ティカは狼狽えたが、ヴィヴィアンは慣れた様子で頷いた。
「そうしてくれ。あと、ナッツと甘いものも持ってきてくれる?」
召使いは恭しく頷き、先ずはボトルのコルクを抜いた。ぽんと小気味い音がなり、傍にいた幾人かがこちらを見上げるのが判った。
細いグラスを恭しく渡され、ティカはぎこちなく口をつけた。
「美味しい?」
ヴィヴィアンに訊かれたが、ティカにはよく判らなかった。首をひねって、もう一口。
「なんだか、ぱちぱちする」
率直な感想に、ヴィヴィアンはくすっと笑った。
「シャンパンだからね」
大衆酒場で何度か飲んだことはあるが、それよりも炭酸はきめ細かく深みがあり、美味しいといわれれば、そうかもしれないと思った。
ややして、召使いが硝子の器に盛りつけられた、ナッツや菓子を運んできた。ティカは目を輝かせて手を伸ばした。高級シャンパンよりも、菓子の方が嬉しい。幸せそうに頬張る姿を、ヴィヴィアンは表情を綻ばせながらしばらく眺めていた。
緊張も解ける頃には、シルヴィーやユヴェールたちもやってきて、近くのボックス席におさまった。ティカがはしゃいだ様子で手を振ると、彼等は軽く手をあげて応えてくれた。
「――ご来場のみなさま」
拡声器を通して部屋に響く声に、談笑していた観客たちは一斉に壇上に注目した。
そこには、ぴかぴかの靴にベロアのジュストコールを颯爽と羽織った支配人、アダム・バッスクールが立っていた。期待に満ちた会場の視線を一身に集めて、彼は優雅にお辞儀をしてみせた。
「本日は、伝統あるヘラージョ・アプリティカの競売会にお越しいただき、誠にありがとうございます。これより二部に分けて、当会場にて世界最大規模の高額オークションを執り行います」
わっと歓声が沸き起こると、支配人は嬉しそうに破顔し、会場をぐるりと見回した。
「皆さま、盛大な拍手をありがとうございます。それでは、お待ちかねのオークションを早速始めるといたしましょう!」
眩い照明がたかれ、従業員たちの手により、中央のテーブルを覆う絹がばっととられた。こぼれでる輝きに、観客たちは一斉に息を呑んだ。
「こちらは、六〇.二〇カラットの大粒ダイヤモンド。東洋の鉱山からとれた曇りなき輝き、恐ろしいまでの透明度。内部に一切の傷がない、フローレス・ダイヤモンドです!」
賞賛の拍手が沸き起こり、アダムは笑みをこぼした。
「盛大な拍手を、ありがとうございます。それでは始めましょう。三億ルーヴからスタートします。希望される方は?」
観客席から札をあげる者が相次いだ。アマディウスも挙手している。彼は誰よりも先に札をあげた。ダイヤを見るその眼差しは、真剣そのものだ。
「では三億ルーヴ。はい、二番の方、三億五千万! 三億五千万ルーヴあがりました。十八番の方、四億ルーヴ!」
息もつけぬコールの嵐に、会場は大盛りあがり。値段がつりあげられる度にあがる札数は減っていき、最後はアマディウスと老紳士の一騎打ちになった。
「――八十二臆ルーヴ! 二番の方の落札です。おめでとうございます」
ついに勝敗は決した。満場の拍手が降り注ぐなか、アマディウスは完璧な礼節に則ってお辞儀をした。
ティカも夢中で拍手を送った。会場中から讃えられている彼が、英雄のように見えて誇らしかった。
支配人のアダムも満悦そうだ。八十二臆ルーヴという、ダイヤモンドでは過去最高額での落札が成立したのである。並の資産家では手が届かない金額だが、空の帝国で五指に入る、大富豪の一族であるアマディウスであれば問題はなかった。彼の支払い能力をアダムも信頼していた。
そのあとも、様々な品が次から次へと競売にかけられた。
世にも
数えあげればきりがない。世界中の宝ものが、この場に集結しているかのようだった。
第一部が終り、休憩の時間になると、ティカたちは会員制ラウンジに集まった。明るい窓際でヴィヴィアンもシルヴィーと談笑している。ティカはきょろきょろと彼等を眺め、心ここに在らずといった風に、落札した宝石を眺めているアマディウスの傍に近づいていった。
「こんにちは」
ティカは明るく声をかけたが、案の定アマディウスは無反応だった。代わりに、傍にいたユヴェールは笑顔を向けてくれた。
アマディウスは手にした凸レンズで先ほど入札した宝石を仔細に調べている。
「アマディウスは何を見ているんですか?」
「……ん? ああ、サファイアの指輪だよ」
顔をあげたアマディウスは、細長い指先で、見事な指輪を光に翳してみせた。
「欲しかった品物の一つなんだ。素晴らしい輝きだと思わないかい?」
「綺麗ですね」
「本当にね。ずっと見ていられるよ……」
うっとりと頬を染めて見入る姿に、ティカは首を傾げた。
「ダイヤモンドは見ないんですか? もっと大金をだしたのに」
「あれは弟に頼まれたんだよ。僕は代理で落札しただけ」
「弟って、バビロンにいる?」
「そう、空飛ぶ軍艦に乗っている双子の弟。ダイヤモンドに目がないんだけど、軍の任務があるから、なかなか地上に下りてこれないんだ」
「ふぅん、どうやって渡すんですか?」
ティカは不思議に思ったが、アマディウスには聞こえていなかった。
「嗚呼、美しい……本当に美しい……なぜだい……?」
完全に閉じた世界に入りこんでいる。ティカは意志疎通を諦め、ヴィヴィアンの元へ戻ると、大人しく彼等の会話に耳を傾けるのだった。
第二部が始まると、観客たちは、目にも彩な宝石の洪水に
希少性の高い月長石、ルビー、美しい真珠、八カラットのブルー・ダイヤモンド。比類ない高値で、次々と取引されていく。
やがて陽が暮れ、競売も終盤にさしかかると、いよいよ本日の目玉商品――
ティカの胸は期待と喜びでいっぱいになった。あの宝石は僕たちがとってきたんだ! そう叫びたかった。ヴィヴィアンやサディール、そして海の生き物たちに助けれ、ブルーホールの深海からとってきたのだ。
支配人は芝居じみた仕草で指を鳴らし、宝石を覆う絹を外させた。
「深海の神秘。当競売会で初めて披露されます、
会場を静かな驚きの声が満たした。
「それでは三十億ルーヴから始めましょう」
開始宣言と共に、客席から無数の札があがった。
「では三十億ルーヴ。はい、三十一億ルーヴあがりました。三十二億ルーヴ!」
瞬く間につりあがっていく金額に、ティカはこれまでに経験したことのない高揚感を覚えた。隣を見れば、ヴィヴィアンも期待に瞳を輝かせている。
「百十二億ルーヴ!」
既に目を瞠るほどの高額に達している。あがる札は最初の半数にまで減ったが、決着はまだつきそうにない。
「百十三億ルーヴ! 二十八番の方、百十五億ルーヴ!」
過去最高額の値段を更新し、もはや会場は静まり返っていた。ヴィヴィアンは寛いだ様子で満足そうに眺めているが、ティカはグラスに手を伸ばす余裕もなく、固唾をのんで見守っていた。
「百二十億ルーヴ……あちらと、あちらのお客様ですね」
最後まで札をあげているのは、南西の国からやってきた宝飾品販売商と、個人蒐集家の二人だ。この世の頂点に立つ資産家同士の一騎打ちである。
「続けます。百三十億ルーヴ」
コールはまだ止まらない。ついに百五十億ルーヴを突破すると、普段は冷静な航海士までもが、動揺を抑えきれずに口に手をやり、緊張した様子を見せた。ティカも百億ルーヴを超えたあたりから、全身の震えが止まらなくなっていた。百五十億ルーヴだって? 聴覚を疑いそうになるが、こうしている間にも金額はつりあがっていく。
「二百五十億ルーヴ! 二十八番の方からあがりました。二百五十億ルーヴ、いかがですか?」
なんという天文学的に桁外れの莫大な数字であることか! この途方もない競売劇の観客の殆どにとって、想像もつかぬ大金であることは間違いなかった。
「ありませんか?」
一方の客人は悔しそうな表情を浮かべ、かぶりを振った。
「それでは二百五十億ルーヴ! おめでとうございます!」
決着がついた瞬間、会場からは割れんばかりの拍手喝采が起こった。ティカもすっかり興奮して夢中で手を鳴らした。お目にかかったこともない金額が、あのエメラルドにつけられたのだ!
「僕たちは大金持ちだ!」
有頂天になったティカが叫ぶと、ヴィヴィアンは笑った。
「違いない」
そういって、口元を手で押さえたまま固まっているシルヴィーを見た。青い瞳に悪戯めいた光を灯して、
「どうだい、あの時アンデル海峡を渡らなくて良かっただろう?」
シルヴィーは瞬きをすると、いつもの自信を取り戻してにやりと笑った。
「いつの話だ。だが、認めるよ。あんたのいった通り、巨利を手にしたな」
二人が肩を叩いて喜びを分かち合う姿に、ティカは冒険の始まりの日を思いだした。パージ港で出会った時、シルヴィーはアンデル海峡の仕入れを不意にしたヴィヴィアンに腹を立てていたのだ。けれど今日まで共に航海を続け、幾多の困難を乗り越え、さらに大きな財宝を手にすることができた。アプリティカで想像以上の値段で売ることができたのだ。
高揚した気分のまま、ティカは夜から始まる秘密の競売会にも当然参加するつもりでいたが、ヴィヴィアンは難色を示した。
「うーん……オデッサが気になるのは判るけど、奴隷売買は見ていて気持ちがいいものじゃないよ。先に邸に戻っていたら?」
ティカは、とっておきのお楽しみを奪われたかのように感じ、激しく首を左右に振った。
「どうか僕も連れていってください! オデッサが落札される瞬間を、この目で見たいんです。お願いします!」
と、額づきかねない勢いで懇願され、ヴィヴィアンは思案げな表情を浮かべつつ、最終的に頷いた。