メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

16章:セイレーン - 3 -

 目を醒ますと、清潔なリネンの香りがした。ティカは見慣れぬ寝台に横たわっており、傍には船医のキーラがいた。
「目が醒めた?」
 彼女は深みのある声で訊ねた。軍人体躯の肉感的な美女で、外見は二十代に見えるが、実際の年齢は不詳だ。医師であり薬師であり魔女である彼女は、ヘルジャッジ号の優秀な専属医である。今夜はいつもの白衣を着ていないので、ティカは違和感を覚えた。
「僕……痛っ」
 ティカは上掛けをめくって起きあがろうとしたが、ずきっとした痛みに顔をしかめた。彼女は寝台に腰かけ、腕を伸ばしてティカの髪を優しく撫でた。
「キャプテンに喧嘩を売るなんて、やるじゃないの」
 女性らしい優しい香りに心を奪われながら、ティカは照れくさそうに頷いた。
「ここは?」
「酒家だよ。二階の客室を借りたんだ」
 彼女は大きな黒い鞄を開けて、茶色の薬瓶バイアルをとりだした。なかには、彼女特製の、珊瑚礁から作った膏薬こうやくが入っている。塗ってもらうと、いい香りがしてスーッとするので、ティカは少し期待しながら彼女の手元を見つめていた。
「大丈夫ですか?」
 ユヴェールに声をかけられ、はっとしてティカは顔をあげた。今まで気づかなかったが、キーラの後ろにユヴェールとジゼル、プリシラ。窓辺の椅子にはアマディウスもいた。
「珍しいですね、ヴィーと喧嘩をするなんて。あの少女のことが、それほど気になりますか?」
 穏やかだが冷淡にも聞こえるユヴェールの言葉に、ティカは一瞬、返事を躊躇った。
「……それもあります。だって、彼女の声は本当に綺麗で、蚕白オパールの瞳も……」
 ティカは自信のなさそうな顔をしていたが、思い直して強気な顔になり、ぱっとアマディウスを見た。
「え、何?」
 視線がかちあい、紫水晶の青年は瞳を瞬いた。
「オデッサの瞳って、本当にすごく綺麗な瞳なんですよ」
 アマディウスが興味を惹かれたことは、一目で判った。その瞳の輝きに勇気をもらい、ティカは続けた。
「アマディウス、蚕白オパールには興味ありませんか?」
「ある」
 即答である。
「なら、オデッサの瞳にも興味ありますよね!」
 ティカは強引に関連づけたが、アマディウスは否定しなかった。
「……確かに、人魚の瞳や声には古来より諸説ある。例えば、人魚の流す涙は、瞳と同じ色の貴石に変わるともいわれている。彼女の瞳が蚕白オパールだというのなら、その瞳からこぼれる涙は、多彩な輝きを放つ宝石になるのかもしれない」
蚕白オパールはどんな宝石ですか?」
 ティカはアマディウスの目を見つめて、熱心に訊ねた。
「……蚕白オパールは、持ち主に幸運、あるいは不幸を呼びこむといわれているんだ」
「幸運と、不幸?」
「そう。持ち主を選ぶ石だ。宝石界の伝説級の蚕白オパールを知っているかい?」
「いいえ」
極光蚕白オーロラ・オパールさ。ある貧しい鉱夫が、希少なオパールを発見した。彼はとても金に困っていた。その石を売れたらどんなに良かったろう。けれど、彼が発掘した時に、不運にも岩が頭上に落ちてきて、彼は石を握ったまま死んでしまった」
「彼に、不幸をもたらしたということ?」
「結果的にそうだね。その蚕白オパールは原石でも、目利きなら一財産の価値があるとすぐに判ったそうだ。カットされて磨かれ、目も眩むような光を放つと、多くの蒐集家や盗賊達に狙われ、関わった人間は次々と死んだそうだよ」
「怖い話ですね」
 ティカは少々怯みながら相槌を打った。
「石には力がある。時に人は、価値ある石の魅力に負けて、不幸に見舞われるんだ」
「アマディウスは大丈夫ですか?」
「世界で一番安全な船に乗っている」 
 ティカはにっこりした。
「なら安心ですね。ね、アマディウス、彼女の瞳を近くで見てみたいと思いませんか?」
 アマディウスは目を瞬き、愉快そうに笑いだした。
「ティカ。まったく君という子は! 僕をけしかけて人魚の合成獣キメラを助けだすつもりかい?」
 罰の悪い顔をするティカを、アマディウスは面白がるような顔でみおろした。
「だって、このままじゃ……」
 いいかけて、ティカは顔を歪めた。このままでは、オデッサは競売会で売られてしまう……それなのに、何の手立てもなく狼狽えてばかり。あまりにも無力だ。
「そんなにオデッサが大切なのかい?」
 ティカは力なく頷いた。
 極光蚕白オーロラ・オパールの瞳がおもいだされる。神秘的に煌く瞳には、世界中の哀しみを讃えているように見えた。あの瞳が本当に輝いたら、どれほど美しいことだろう!
「オデッサを助けたい。ヘラージョ・アプリティカなんて、なければ良かったんだ。或いは、僕がうんとお金持ちなら良かったのに!」
 ティカが八つ当たり気味にわめくと、それは困る、とアマディウスがすかさず突っ込みをいれた。しかし、不安のあまり肩を細かく震わせているティカを見て、アマディウスは表情を和らげた。
「ヘラージョ・アプリティカがなくなっては困るよ。クライ・エメラルドを売らないといけないからね。僕も欲しい宝石が山とあるし」
 ティカは頷いて、目の端に滲んだ涙を、手の甲で乱暴にぬぐった。
「ごめんなさい……でも、この望みが叶ったら、どんなに素敵だろう」
 アマディウスは目を悪戯っぽく輝かせて笑った。
「ティカの特権なんだろうね。僕は、割とその気になってきたよ」
「え?」
極光蚕白オーロラ・オパールは僕のもの。世界中の貴石は僕のもの……うーん、いい響きだ」
 アマディウスは満悦である。ティカには想像もつかぬ、彼だけの想像の世界に耽っている。とその時、部屋にヴィヴィアンが入ってきた。
「キャプテン!」
 ティカは慌てて姿勢を正した。
「ああ、寝ていていいよ。ごめん、痛かったろ? 手加減しなかったから」
「いえ」
 ティカは慎重に起きあがった。心配していたが、ヴィヴィアンは柔らかな表情をしており、怒ってはいないようだ。
「ごめんなさい、僕……キャプテンに、その、飛びかかったりして」
「謝ることはないさ。それより、驚いたよ。やるねぇ、ティカ。いい蹴りだったよ! 本当に強くなったね」
 その言葉に、ティカは心が高揚すると同時に、哀しみを味わった。彼に勝てなかった。オデッサを救う機会を失ったのだ――理解した瞬間に、涙があふれでた。
「ティカ?」
「うぅぅ~……っ」
 ティカは両手で顔を覆った。隣にヴィヴィアンが腰をおろす気配がする。寝台が重みで沈みこんだと思ったら、優しく肩を抱き寄せられた。慰めるように腕をさすりながら、
「泣くんじゃないよ……ほら、プリシラがホットチョコレートを入れてくれたよ」
「はい、ティカ君」
 顔をあげると、プリシラが甘い香りと湯気の漂う、陶製のマグカップをさしだしていた。
「ありあとうございます……」
 ティカは鼻をすすりながら、両手でカップを受け取った。甘い香りに、傷ついた心を慰められる。無心でホットチョコレートの表面を眺めていると、ロザリオとシルヴィーが部屋に入ってきた。
「みんな……」
 呆然としているティカを見て、ロザリアはにやっと笑った。
「なんだ、泣いてるのかよ。あんなに威勢よく喧嘩を売ったくせに」
「な、泣いてない」
 ティカは慌てて目元をこすった。ヴィヴィアンはその手をとり、形の良い指で優しく涙をぬぐった。
「皆、ティカが起きるのを待っていたんだよ」
「え?」
「ティカの話をちゃんと聞こうってね」
「え……」
「ティカが本気だってことは、よく判った。俺の心を動かしたんだから、勝負を挑んだ価値があったね」
「ッ、ふぐぅっ……」
 ティカのだいだいの瞳が涙で潤んだ。泣くのを堪えようとしたら蛙が潰れたような声が漏れ、周囲の笑いを誘った。
「あ、ありがとうございます……っ!」
「まだ助けると決めたわけじゃないぞ。先ずは話を聞いてからだ」
 シルヴィーはすかさず指摘したが、彼なりに精一杯の譲歩を示してくれているのだと思い、ティカは嬉しくなった。
「聞いてください、ここは特別な土地なんです。この場所で、オデッサに酷いことをしてはいけないんです」
「特別な土地?」
 ヴィヴィアンの言葉に、ティカはしっかりと頷いた。オデッサ――自分を知らない少女。まがいものだといった少女。だが、彼女は精霊に愛されている。精霊界ハーレイスフィアの贈りものを持っている。
「アプリティカは始まりの場所です。精霊たちは皆知っている、今度は絶対に人間を許さない」
「今度って……」
 ヴィヴィアンは奇妙な表情になった。
「アプリティカは――ッ!?」
 はやる心のままに言い募ろうとしたティカは、突然に、その表情を苦しげに歪めた。
 いってはいけない――古い魔法がティカに囁く。叡智を口にすることは許されない。けれどいってしまいたかった。
「どうしたの、ティカ?」
 心配そうなヴィヴィアンを見つめて、ティカはやるせない、歯がゆい念でいっぱいになった。
 いってしまいたい――貴方は、尊い精霊の血を引いているのだと。アンジェラの子孫なのだと。耳を澄ませば、聴こえるはずなのだ。波濤はとう万里を越えて届く海の囁き、鯨の歌声、海洋の無数のことの葉、人魚の黄昏のような歌声……アトラスの導く声!
「あのね、ヴィー……ッ」
 だが、言葉を続けることはできなかった。声がでてこない。
「ティカ!?」
 喉を押さえて突っ伏す背中を、ヴィヴィアンはいたわるように掌で撫でた。シルヴィーたちも心配そうに近づいてくる。
「どうしたの?」
「“まだ判らない?”」
 ティカの唇から精霊の韻律、古代語がこぼれた。目を瞠るヴィヴィアンをまっすぐに見つめて、ティカは声にならぬ声を伝えようとした。貴方は誰なのかを。人と精霊の間に生まれた孤独な人魚は、精霊王に愛され、やがて無限幻海を守護する女神アトラスとなったことを。
「……ティカ?」
「こほっ……平気、です。全部はいえないみたい……」
 ティカはびくびくしながら唇を開いた。どこまでならいっていいのか、いまいち判断がつかない。
「秘宝の制約だね?」
 その言葉は真実を突いていた。ティカは無言のまま、彼をじっと見つめた。思慮深く沈黙するヴィヴィアンに、信じてほしいというねがいのこもった懇願の眼差しを向けて。
 ヴィヴィアンは遠くを見るような目つきになり、
「そういえば、審判の日に鉄槌がくだされた場所は諸説あって、一つはこのアプリティカなんだよね……」
 訝しむシルヴィーたちのことは気にせず、ぶつぶつと呟いている。
「……人魚か……合成錬金ではなく、本当に精霊の血を引いているの?」
「おい、ヴィー。何をいってるんだ?」
 口を挟むシルヴィーに、ヴィヴィアンはしっと指をあてて黙らせた。
 ティカは、ヴィヴィアンの直感の鋭さ、真相解明力の凄まじさを改めて実感せずにはいられなかった。彼の導きだした答えは、かなり正解に近い。
 一つ修正するならば、オデッサの神秘の力は、精霊が先天的にそなえているたぐいではなく、女神アトラスが授けたものだ。あの少女は、アトラスに愛されている。
「俺はこう見えて信心深いから、今の言葉を信じるよ」
 と、ヴィヴィアンは結論づけた。ティカは瞳を輝かせたが、シルヴィーは胡乱げな目つきになった。
「……正気か? かくも輝き大航海時代に精霊だと?」
 ものいいたげな顔をしているティカの肩を、ヴィヴィアンは励ますように抱き寄せた。
「この子が視る不思議を、軽く考えないほうがいい。ティカには、不思議な直感がある。一番甘い花の蜜を見分ける蜂みたいに、言葉では説明できない直覚力があるんだよ」
「つまり、野生の力だな」
 紫煙をくゆらせながら、ロザリオはもっともらしくいい添えた。
「結構。だが、俺は目に見えるものしか信じない、現実主義者だ。納得できるだけの材料がない限り、梃子てこでも動かないからな」
 シルヴィーは腕を組み、冒険者の前に立ちふさがる魔王よろしく、一同を めつけた。
 何かの計画を前に、こうやって丁々発止とやりあうのは、シルヴィーの性質に るところも大きいが、ヴィヴィアンの日頃の行いのせいでもある。彼の度重なる英断暴挙のせいで、突拍子もない発言の全ては、奔放な想像力をあかすものでしかないと眉唾する向きがあった。
 親友の凍てつく眼差しにもめげず、ヴィヴィアンは人差し指を立てて、
「いいかい? 無限幻海の涯てについて議論されるように、この世には解き明かせない謎が実際にあるんだよ。始原の状態への回帰を思ってごらん。以前の文明では、人々は神々の言葉に耳を傾けたものだよ。ティカは、海にまします女神アトラスのお導きに従っているんだ」
「信仰を否定するつもりはないが、時代と共に解き明かされていく謎もある。俺には、そういった事象の方が馴染みやすいだけの話だ。とにかく、勘やお告げを信じて行動するには、いくら何でも早計じゃないか?」
「そう固く考えるなよ、シルヴィー」
「あんたの思考が緩すぎるんだよ、ヴィー」
「船乗りに柔軟さは必須だよ。一説では、彼女は人の身体に鱗をもつ姿でも知られている。人魚を模造した合成獣キメラを助けよ、と女神の思し召しだと俺は思うがね」
 ティカはうんうんと頷いているが、シルヴィーは反吐がでそうな顔つきになっている。
「よくもそこまで都合よく解釈できるな。大した才能だが、今回ばかりは譲らないぞ。論より証拠だ。雲を掴むような蓋然性がいぜんせいの仮説が、この俺に通用すると思うな」
「シルヴィー」
 ヴィヴィアンは困ったようにいった。シルヴィーは腕を組んで彼を見据えた。
「友人としてなら耳を傾けてもいいが、ヘルジャッジ号の筆頭航海士として俺には反駁はんばくする義務がある。アトラスがたなごころを指すが如く、俺が納得できるように説明してみせろ」
 その口調は鋼のようで、ティカは不安になった。彼が手を貸してくれないのなら、オデッサ救出は暗礁に乗りあげたも同然である。
 ティカは寝台を降りると、海軍のようにかかとをそろえて、シルヴィーを見つめた。
「お願いします、力を貸してください。シルヴィーの協力がどうしても必要なんです」
 シルヴィーは推し量るように、ティカをじっと見つめた。
「そうはいっても、相手が悪すぎる。一生追いかけられる嵌めになるぞ」
「難しいことなんだと思う。でも、やらないといけないんです」
「真偽は別として、見知らぬ人魚を助けるために、航海を共にしてきた百名を超える船員の人命を危険にさらせというのか?」
 ティカは狼狽え、言葉に詰まった。
 冬の湖水のように光る蒼氷色の瞳が、値踏みするようにティカを見つめている。
 部屋はしんと静まり返り、沈黙のなか、恐ろしく強固な意思と意思が衝突した。
「……何が正しいのか、僕には判りません。でも、航海をしてきたから、皆のことなら判ります。兄弟の誰かが困っていたら、口では文句をいったり喧嘩したりしながら、最後は絶対に力を貸すんだ。僕のことも何度も助けてくれた。ヴィヴィアン、シルヴィー、ロザリオ、皆が助けてくれた。オデッサも同じです。皆はまだあの子を知らないかもしれないけど、仲間になれば、きっとすぐに好きになりますよ! ……お願いします。どうか、力を貸してください」
 オデッサを助けたい。自分に正直でありたい。ティカの心はどこまでもまっすぐで、一つだった。
 ティカは、シルヴィーの顔に浮かんだ驚きが苛立ちに変わり、やがて一種の諦念と覚悟を秘めた表情へと和むのを見守った。
「……判ったよ」
「シルヴィー!」
 感極まって抱き着いてくる少年を、シルヴィーは宥めるように、軽く背中を叩いた。
「はぁ――……全く、乗り気なヴィーを止めるのは至難の業なんだ。おまけにティカにまで泣きつかれたら、多勢に無勢で勝ち目がないじゃないか」
 シルヴィーは片手で目を覆った。気苦労の絶えない親友の肩を、ヴィヴィアンは励ますように叩いた。
「よくいった、シルヴィー! それでこそ我が親友、この船の航海士だ」
 上機嫌にいったあと、くるりと振り向いて、
「皆もいいね?」
 念押しするようにいった。
「「アイアイ・キャプテン!」」
 小気味いい、唱和が返る。
「盛りあがっているところに水をさすようだが、具体的な計画はあるのか?」
 諦めがついたような顔で、シルヴィーがいった。
「正攻法でいくか、海賊らしく奪いとるか、二つに一つだ」
 ヴィヴィアンは指をたてて、もっともらしくいった。
「正攻法でいくとして、その人魚の相場はいくらだ?」
 ロザリオの言葉に、最低でも百億ルーヴ。ユヴェールが口を挟んだ。
「馬鹿高いな……」
 ロザリオアは口元を引きつらせ、煙草をくわえて火をつけた。
「じゃあ、奪いとる?」
 そういって、ヴィヴィアンも陶製の煙管に火をつけた。うまそうに吸いながら、煙の輪っかを吐きだす。
「大雑把な奴らだな……」
 シルヴィーはうんざりしたようにいった。
「俺たちは海賊だよ? お宝を奪うのはお家芸でしょ。だめだというなら、シルヴィー、資金を用意してくれるかい?」
 シルヴィーは深く息を吐くと、観念したように額を押さえた。
「……強奪は却下。正攻法でいく。全く、うちのキャプテンときたら金遣いが荒すぎて困る。俺がしっかり資産管理していることに感謝しろよ!」
 ついに航海士のお赦しがでた。はらはらしながら成り行きを見守っていたティカは、
「やった――ッ!」
 両腕を天に突きだして万歳をした。嬉しさのあまり、ぴょんぴょんと部屋を飛び跳ねる。しかし冷静なシルヴィーと目が合い、恐縮そうに縮こまる姿を見て、思わず全員が笑った。