メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

15章:アプリティカ - 9 -

 ホールでは、心酔わせる旋律に誘われ、男女が手をとりあって広間に中央に進みでるところだった。音楽にあわせて旋回し、微笑みをかわしながらフロアを優雅にめぐっている。
 ティカとヴィヴィアンは、その様子をバルコニーから眺めていた。誰にも気づかれないと思ったが、またしても、ユージニアと目があった。彼女は小さく目を見開き、物憂げな微笑を浮かべた。
 ティカは狼狽したが、ヴィヴィアンは動じることなく、如才ない笑みを浮かべた。口元は笑っているのに、暖かみを感じられない。彼女の哀願的な眼差しを、冷ややかで無感動な目で受け流しているように感じられて、ティカはいたたまれなかった。
「……ヴィー」
「ん?」
「ユージニアさんが見ていますよ」
 ヴィヴィアンはティカの肩をぐっと引き寄せた。
「彼女のことは気にしなくていいよ」
「でも」
 ティカはヴィヴィアンの胸に手をつき、身体が密着しすぎないようにした。
 ユージニアは一途な視線でヴィヴィアンを見つめていたが、やがて儚げに瞼を伏せて背を向けた。
 ティカは華奢な背中を目で追いかけずにはいられなかった。手紙は約束通り渡したが、ヴィヴィアンは彼女を誘うこともなく、隣にはティカを連れている――この光景を見て、彼女はどんな気持ちを味わったのだろう?
 経験したことのある、侘しさ、惨めな気持ちが蘇り、ティカは衝動的にヴィヴィアンの袖を引いた。
「ヴィー」
「ん?」
「ユージニアさんが帰っちゃいますよ」
「そうみたいだね」
 その全く関心のない口ぶりに、ティカは少しばかり苛立った。
「一言も声をかけないんですか?」
 つい咎める口調になり、ヴィヴィアンは探るような目をティカに向けた。
「かけないよ」
「どうして?」
「愛想を振りまいて、期待をもたせたら気の毒だろう。冷たいと思うかもしれないけれど、これくらい突き放した方が彼女のためだ」
「そんな――」
「彼女の気持ちに応えるつもりはない。向こうが声をかけてくるなら別だけど、俺の方から世間話をしにいくのはどうかと思うよ」
「きっと、すごく傷ついていると思いますよ」
 ヴィヴィアンは片眉をひそめた。
「逆に訊くけど、彼女を引き留めて、どんな言葉をかければいいの?」
「え? お手紙ありがとうって……」
「そのあとは?」
「う、嬉しかったです、とか……?」
「そのあとは?」
「えっと……」
「彼女が期待に顔を輝かせて俺をデートに誘ったら、俺はどう答えればいい?」
 返事に窮するティカをじっと見つめて、ヴィヴィアンは皮肉げに口元を歪めた。
「もちろんですとも! なぁーんて俺が答えたら、ティカはどうするの?」
 ティカの胸は激しく痛んだ。
「……だけど、もし彼女が泣いていたら」
 ヴィヴィアンの目つきが険しくなり、ティカは口をつぐんだ。
「泣いていたらかわいそうだから? 俺を彼女に譲ってあげるんだ?」
 突き放すような、冷たく嘲る口調に、ティカはとうとう俯いた。何もいえずにいると、ヴィヴィアンは屈みこんで、ティカの顔を覗きこんだ。
「俺にどうしてほしいの? 彼女のもとへいってほしいの? ほしくないの?」
 ティカはかぶりを振った。潤んだ橙の瞳から、今にも涙が零れ落ちそうになっている。まるで地雷原の真ん中に取り残されて、身動きがとれなくなった気分だった。
「ティカは、俺が彼女を慰めれば満足できるの?」
「違います……っ」
「なら、心にもないことをいうんじゃないよ」
 冷静な口調には、罰するような響きを帯びていた。
「……ごめんなさい」
「それとも、俺が彼女と一緒にいても平気なの?」
「違います!」
 潤んだ瞳から、とうとう涙がこぼれ落ちた。だが、ヴィヴィアンは容赦しない。
「うん、違うよね。俺だって勘弁してほしいな。確かに彼女は傷ついているかもしれない。けど、大事にしている恋人に、他の誰かに譲ってやるなんていわれて、俺のことはかわいそうだと思わないの?」
「ごめんなさい。僕、僕……ッ」
 喉奥に熱いものがこみあげて、ティカは辛そうに口を閉ざした。心の奥に積みあげた自制という名の煉瓦の壁が崩壊していく。拳をぎゅっと握りしめ、眉を八の字にさげ、嗚咽が零れぬよう、唇は一文字に引き結ばれている。
「……あーあ、俺も泣きたいよ」
 ヴィヴィアンの呟きが、ティカの心に突き刺さった。ゆっくり踵を返す背中を見て、ティカは恐慌に陥った。彼が扉に手をかける前に駆け寄り、背中に抱き着いた。
「いかないで! ごめんなさい! 僕が間違っていました。どうかいかないでください」
「……」
 ヴィヴィアンはバルコニーから去ろうとはしなかったが、黙ったままでいる。
「ユージニアさんはかわいそうだ。あんなに綺麗な人が傷ついている、いじらしいしと思う。でも、力になれない。僕もヴィーが好きだから……っ」
 こみあげる涙をこらえているせいで、ティカの声は掠れた。ヴィヴィアンは振り向くと、涙にぬれたティカの頬を両手で包み、額にキスをした。
「……そうだよ。俺はティカの恋人なんだから、人にあげようなんて思わないでよ。さすがに傷つくよ」
 ティカは許しを求めてヴィヴィアンの胸に飛びこんだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
 ぽろぽろと涙がこぼしながら、心からの謝罪を繰り返すティカを、ヴィヴィアンはじっと見つめた。その眼差しはさながら愛撫であった。
「俺もごめん、意地悪が過ぎたね。こんなに泣かせて……そもそも俺が原因なのに、大人げなかったよ」
 腕のなかで、ティカはかぶりを振った。
「ユージニアが傷ついていると思って、ティカは胸が痛むんだね」
 しゃくりあげながら、頷く。
「人の痛みを理解できるのは、ティカが素直で、優しいからだ。とても尊いことだよ。でもね、それは優先順位を違えていい理由にはならないと俺は思う」
 ティカは罰せられた子犬のような表情で、ヴィヴィアンを仰いだ。凪いだ瞳を見つめて、こくりと頷いた。
「第一、彼女はそれほど殊勝じゃないよ。繊細に見えても、社交界を知り尽くしているやり手だ。同情を誘う言動は全部、駆け引きなんだよ」
 ヴィヴィアンの甚だしく失敬な私見に、ティカは微妙な顔つきになった。反論を感じ取ったのか、ヴィヴィアンはさらにこう続けた。
「実際、素直なティカにつけこんで、俺への繋がりをもとうとしているんだから。ティカがそんな風に心を悩ます必要はないんだ」
 そういって、そばかすの浮いた鼻を、細長い指でちょんと突く。ティカはかぶりを振った。
「あの人は、ヴィヴィアンのことが好きなんです。それは本当ですよ」
「……仮にそうだとしても、俺が愛しているのはティカだ。彼女を悲しませることになっても、ティカを選ぶよ」
 ティカは黙りこみ、頷いた。
「よし、じゃあ仲直りのキスをしよう」
 身を屈めるヴィヴィアンの首に腕をまわし、ティカはべそをかきながら、触れるだけのキスをした。ヴィヴィアンが好きだ――他の誰かを傷つけたとしても、ティカにも譲れないものがある。
 ヴィヴィアンは優しい手つきでティカの髪をすきながら、ポケットから綺麗に折りたたまれたハンカチをとりだした。ティカの涙を拭いてやり、赤くなった瞼や鼻にキスをしてから、もう一度、唇をしっとりと塞いだ。