メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

15章:アプリティカ - 8 -

 十月二十二日。からりと晴れた秋の夜。
 競売会ヘラージョ・アプリティカの会場で、選評会が行われようとしていた。
 これは、十二月の終わりに開催される競売会の出品権利を懸けて、参加者たちの投票により選ばれるものだ。ヴィヴィアンの当選は確実といわれているが、規則に従い、彼も投票の結果を待つことになる。
 この時期、建物をとりまく紅葉は見ごろを迎えており、目の保養に、昼前からやってくる客は少なくなかった。
 正面玄関から見渡せる並木道は見事なもので、蝋燭のような白ポプラの焔、銀青色を帯びた針葉樹と、楡の枝は紅色から朱色、紫から黄緑とかわり、さながら精巧に織りこまれたタペストリ綴錦のようだった。
 玄関広間へ足を踏み入れたティカは、異次元空間に迷いこんだ心地に陥った。
 壁には巨大なタペストリ綴錦がかけられ、大理石の床には青い絨毯が敷かれている。
 頭上に拡がる円天井キューポラは非常に高く、一面が硝子張りで、柔らかな三つ子の月光が射しこんでいる。
 白鳥をかたどった銀の洋燈ランプが繊細な金色の針金でつるされ、そこに灯った火から、かぐわしい香りがほのかに漂い、室内に充満している。年代物の家具は、蜜蝋とテレピン油で磨かれ艶々だ。
 会場に入り、ティカはさらに目を瞠った。
 人々の談笑する声が、天井の高いホールに響き渡っている。活気に満ちているにもかかわらず、混雑した市場とはまるで違い、上品な雰囲気が漂っていた。大声で呼びかける商人や、値切ろうとする客はおらず、制服姿の店員ですら、紳士淑女たちと同じくらい優雅に見える。
 音楽家達による演奏も壮麗で気品があり、船上でボーラたちが聞かせてくれた頓狂で、陽気な音楽とは全然違う。
 今夜はティカもきちんと正装しているが、どうにも落ち着かず、周囲から浮いているような気がしてしまう。
 だが、カーヴァンクル商会の三人組、ユヴェールと、彼の腕にそれぞれ左右から腕を絡ませているプリシラとジゼルは別だ。彼等は会場に入った瞬間から周囲の視線を集めた。
 三人とも見事な銀髪に金目で、すらりとした肢体に容姿も大変に美しいのである。
 華やかな三人の隣には、着飾ったアマディウスの姿もある。彼は仕事道具の詰まった大きな鞄をさげていた。選評会では、競売会に出品予定の商品がお披露目されており、希望すれば間近で検分することもできるのだ。
 華やかな夜会など眼中にないアマディウスは、入札予定の宝石や骨董品を検分するためにきていた。桁外れの権威者や美女に目もくれず、宝石の陳列された硝子棚の前に直行である。
「君、ちょっといいかい? ダイヤを見せてほしいんだ。それからこっちのサファイヤも……」
 そういって、従業員に鍵のかかった硝子ケースを開けてもらい、ベルベッドを敷いた銀盆に、目的の宝石を並べた。
 ほっそりとした白い指に手袋をはめて、早速宝石を確かめている。掌で重みを確かめ、じっと目を凝らし、最初は肉眼で、次に精密な拡大鏡で微細に調べた。その表情はさながら恋する乙女だ。
 相変わらず病的に顔は青白いが、すべすべと髭はなく、儚げで疲れたような消極的な美しさをもつ青年である。秋波を送る婦人もいたが、彼はどんな美女よりも宝石に夢中だった。
 尚、カーヴァンクル号の名札がついた硝子棚の周囲には、人だかりができていた。なかでもメテオライト級の宝石、精霊界ハーレイスフィアのクライ・エメラルドは、訪れる客の賞賛を欲しいままにしていた。
 会場にヴィヴィアンが現れると、会話はぴたりとやみ、部屋のなかが静まりかえった。誰もが驚愕し息をのんだ。
 ヴィヴィアンは、象牙色のサテンで織られた極上の礼装に身を包み、シャンデリアの光を眩く反射するぴかぴかのヘシアンブーツを履いている。煌く髪には銀細工とサファイアを飾り、頭の天辺から爪先に至るまで、非の打ちどころのない完璧な貴公子だったからだ。
 女性は一人残らず頬を染めて、扇子の内側で囁きを交わした。男性ですら憧憬の眼差しで見つめている。彼等は、自分の妻や恋人がヴィヴィアンに魅入っていても、責めることはできなかった。
 相手はお目にかかったことのない完璧な容姿をもっていて、おまけに無限海の大海賊、あのキャプテン・ヴィヴィアンなのである。
「あの方がキャプテン・ヴィヴィアン?」
「なんて美しい人なのかしら。妖精の王子様みたい」
 賞賛に満ちた囁き声があちこちから聞こえてくる。隣にいるティカまで注目を浴びて、緊張に胃がよじれそうだった。
 ヴィヴィアンは眩いばかりの美貌と、いかにも大人物らしい粋で磊落らいらくな様子から、忽ち衆目を集めた。
 誰もが、無限海の冒険譚を聞きたがった。ヴィヴィアンは皆の期待に大盤振る舞いで応え、才気煥発さいきかんぱつ、雄弁に物語り、陽気に皆を笑わせた。
 熱い視線を集めるヴィヴィアンを見てティカは、甘美な誇らしさと、胸に渦巻く苦々しさを同時に味わった。ヴィヴィアンは、とびきりの美女ですら、ほんのさりげない一瞥、たったひと言で虜にできるのだ。
「ああ、この雰囲気。懐かしいな」
 ティカの隣で、ヴィヴィアンは機嫌よさそうにいった。ゴシップになることなど無頓着なヴィヴィアンだが、実際、ティカにかけては細心の注意を払っていた。
 社交の場で人々を楽しませながらも、嫉妬深い目や邪悪な舌がティカを攻撃しないよう、傍から離さず、時に周囲を威圧し、その寵愛ぶりを周囲に理解させていたのである。
 しかし、そうした彼の気遣いを、ティカは判っていなかった。注目を浴びて居心地が悪いぞ、くらいにしか感じていなかった。
「ごきげんよう、キャプテン・ヴィヴィアン」
 アダムのエスコートで、ユージニアが現れた。今夜も女神もかくやという美しさである。
 細かくカールさせた髪を素晴らしく高く結いあげ、宝石をちりばめた花の髪飾りを挿している。上等の絹を仕立てた檸檬色のドレスで、スカートには細かく襞が寄り、薔薇の刺繍が施されている。
「こんばんは、ユージニア。アダム。お招きいただき、どうもありがとう」
 ヴィヴィアンが優雅にお辞儀をすると、アダムは品の良い笑みを浮かべた。
「こちらこそ、偉大なるキャプテン・ヴィヴィアンにお越しいただき、大変光栄です」
 二人は社交の挨拶から始まり、そのうちユヴェールが輪に加わると、競売会について少々こみ入った話をし始めた。
 ティカは最初こそ彼らの会話に耳を傾けていたが、すぐに思考は彷徨いだし、気がつけばヴィヴィアンに熱い視線を送っているユージニアを見つめていた。彼女がヴィヴィアンに恋をしていることは、火を見るよりも明らかだった。
 見つめすぎたせいか、ぱちっと目があい、ティカはにわかに慌てた。美女は優しく笑みかけ、身を屈めて、そっとティカに囁いた。
「彼らはお話に夢中みたいだから、あっちのテーブルにお菓子をとりにいかない?」
「え?」
「自由に食べていいのよ。お皿にとりわけたら、また戻ってくればいいわ」
 ティカは、ユージニアの指さす方を見つめた。人々の合間から、料理やデザートの並んだ細長いテーブルが覗いている。
 お菓子の誘惑に屈したティカは、ヴィヴィアンに身振りでテーブルを差し、彼が頷くのを見てから、ユージニアと並んで歩きだした。会話の糸口を探していると、彼女は静かな声で訊ねた。
「あなたはヴィヴィアンの恋人?」
 ティカが驚いて顔をあげると、ユージニアはほほえんだ。
「隠さなくていいのよ、彼は奔放な人だから……けど、あなたのことは、きっと大切なのね。見ていれば判るわ、ちっとも傍から離そうとしないんですもの」
「えっと……」
「羨ましいわ」
 ティカが口ごもると、ユージニアは夢見るような眼差しで語り始めた。
「……懐かしいわね。彼がパージに寄港している間は、毎晩のように邸を抜けだして、彼の待つ、秘密の館まで車を走らせたものだわ。毎夜のその喜びは、到底言葉ではいいあらわせないわ」
 ティカの胸に鋭い哀しみが射した。表情にでてしまわぬよう、唇を硬く引き結ぶが、彼女と過ごしていたであろう想像のヴィヴィアンが目に浮かび、胸が烈しく締めつけられた。
「夢のように幸せなひと時だったわ……」
 その声には、熾火のようにくすぶる強い憧れが滲んでいた。ヴィヴィアンが航海にでている間も、彼女は永続的な情熱を育てていたのだ。
「あの人がひとところに留まらないのは承知しているわ。けれども、せめてロアノスにいる間だけは、私を恋人にしてくれないかしら……」
 ティカは心が重たくなっていくのを感じた。足元に無限幻海の深淵が口をあけて、滝の瀑布ばくふへ真っ逆さまに落ちていく錯覚に襲われていた。
「きっと難しいわね。貴方はかわいいし、彼、きっと夢中なんだわ」
「……」
「心配しないで。邪魔をするつもりはないのよ。あの人がここを去れば、私にはどうすることもできないんですもの……」
 その寂しそうな視線は、ティカにある種の優越感と罪悪感を同時にもたらした。ティカはこれからもヘルジャッジ号でヴィヴィアンと航海にでていけるが、彼女は船に乗ることはできないのだ。
「これを、キャプテン・ヴィヴィアンに渡してくれないかしら?」
 花の香りのする手紙を目の前にさしだされ、ティカは戸惑った表情で、手紙と彼女の顔を交互に見た。ユージニアは力ない微笑を浮かべ、哀願するように見つめている。男として、受け取らないわけにはいかなかった。
「どうもありがとう」
 ユージニアの顔に浮かぶ安堵を、ティカは苦い気持ちで見守った。
「いえ……」
「若い貴方に怖いものなんてないのでしょうね。羨ましいわ。いつかその恋が終わる時、悔いのないようにね……私みたいに」
 恋が終わる? ティカの頭は真っ白になった。
 茫然とするティカを見て、ユージニアは通俗的で弱々しくて同時に謎めいた微笑を浮かべた。
「いえ、意地悪なことをいってしまったわ。許してちょうだい。さっ、どれがいい?」
 美女は詫びたあと、気を取り直すように明るくいった。
 ティカは目の前に並んだ美味しそうなお菓子の数々を見て、そういえば、お菓子をとりにきたことを思いだした。二つほど皿に盛ったものの、気分はすっかり沈んでいた。甘いお菓子より、ポケットにしまった、鉛のように重たく感じられる手紙が気になる。
(何が書いてあるんだろう……)
 繊細で、とても綺麗な女性ひと。想いを寄せている相手がヴィヴィアンでなければ、全力で応援しただろう。
 ヴィヴィアンたちの元に戻ったあと、間もなくユージニアはアダムと共に去った。
 結局、ティカはお菓子に殆ど手をつけず、若い給仕が通りがかると、皿ごと返してしまった。
「食欲がないの?」
 ヴィヴィアンに不思議そうに訊ねられ、ティカは頷くことしかできなかった。ナイフを心臓に突き立てられたかのように、非情に深く絶望的に傷つけられた感じをもって、苦しく息をしながら、ただ黙って彼の傍にいた。
 できることなら邸へ帰りたかったが、ヴィヴィアンは人気者で、ひっきりなしに声をかけられた。
 彼等の会話を聞き流していると、ふと、離れたところにいるユージニアと目があった。彼女の目が問いかけているように感じられて、ティカの心臓は激しい痛みを訴えた。
 蝋のように青褪めているティカを、ヴィヴィアンは心配そうな顔で見下ろした。
「ティカ?」
 ティカは衝動的にヴィヴィアンの手を掴むと、バルコニーの方へ引っ張った。彼は驚いた様子をみせたが、おとなしくティカのあとをついてきた。
「ティカ? どうしたの?」
 ティカは口を利かず、ヴィヴィアンの手を掴んで人気のない場所に誘導した。
 半円型のバルコニーには、飾りのついた錬鉄れんてつの手すりがめぐらされ、中庭パティオから薔薇が香っていた。仄明るい角灯らんたんに照らされ、奥まった砂利敷きの小径が深い夜の闇にのみこまれている。
 二人きりになると、ティカは我に返ってヴィヴィアンの手を離した。
「どうしたの?」
 ヴィヴィアンが再び訊ねる。
「すみません、ぼ、僕……っ」
 ティカは悲壮な顔になり、口を手で覆った。自分のしてしまったことが信じられない。ユージニアと引きあわせるのが嫌で、考えるよりも先に身体が動いていたのだ。
「大丈夫? 何があった?」
 ヴィヴィアンは心配そうな様子で、ティカの顔をのぞきこんだ。
「あの、その……っ」
「うん?」
 美しい、稀有な青金石色ラピスラズリの瞳にティカが映りこんでいる。ティカは殆ど衝動的に手を伸ばし、ヴィヴィアンの襟を引っ張って手前に引き寄せ、唇にキスをした。
(――あれっ? 僕、今なにした?)
 我に返ってすぐに離れるが、もう取り消すことはできない。唖然としているヴィヴィアンを見て、ティカは混乱の極致に突き落とされた。必死に言葉を探すが、頭が真っ白で何も思い浮かばない。
「……嬉しいね。ティカの方からキスしてくれるなんて」
 ヴィヴィアンは甘く囁くと、ティカの腰を抱きあげ、バルコニーの淵に座らせた。
「俺もしていい?」
 そういって頬や耳殻を指先で撫でる。ティカを視線だけで拘束し、そっと唇を重ねた。
「ん……」
 柔らかなキスを二度、三度と繰り返し、次はしっかりと唇を重ねあわせた。
「ふ、ぅ……んんん……っ」
 キスに夢中になるにつれて、他のことを考える余裕は失せた。舌を絡め捕られ、水音がたつほど甘く貪られる。情熱に煽られて、ティカも夢中で応えた。
 しかし、ポケットから手紙が零れ落ちた瞬間、理性を呼び戻された。腕のなかでティカが強張ると、ヴィヴィアンもキスをほどいて、
「何か落ちたよ」
 地面に落ちた手紙に目を落とした。
「だめっ!」
 ティカは俊敏な動きでバルコニーから降り、ヴィヴィアンが拾うよりも早く、手紙を鷲掴んだ。背中を向けて縮こまる。
「それは何?」
「うぅ~っ……」
 ティカは情けない声をあげた。今すぐここから逃げ去りたい。或いは、手紙を破って捨ててしまいたい。
「ティカ?」
 どうする? 捨てる? いやいや、そんな非道な真似はとてもできない。やったが最後、永劫に良心の呵責に苛まれるだろう。
「ねぇ、大丈夫?」
 この惨めな状態に決着をつけるには、手紙を渡すしかないのだ。
 けれど、怖い。
 ティカには自分を選んでもらえる自信がなかった。
 相手は完璧な淑女で、健気で優しく、純粋な人なのだ。航海の無事を祈って、教会で祈りを捧げるような人なのだ。
「ティカ、どうしたの?」
 ヴィヴィアンはいよいよ心配そうにいった。
 ティカは不安でたまらなかったが、それでもある種の正義感から、手紙によった皺を丁寧に伸ばし、ヴィヴィアンを振り向いた。ふるえるような声で、
「ヴィー、これ……」
 おずおずと手紙をさしだした。彼は訝しげに手にとり、署名を見てさらに眉をひそめた。
「ユージニア?」
 彼がその名前を口にしただけで、ティカは、説明のつかない涙が胸にあふれるのを感じた。ヴィヴィアンは訝しげに封蝋ふうろうを剥がし、硬い表情のまま手紙に目を走らせている。
 見ていられない――読み終えた時、彼はどんな行動にでるのだろう?
 考えるだけでも息が止まりそうになる。この不安から解放されるためなら、なんでもやるだろう。悪魔に魂を売り渡してもいい。そうだ、いっそ魔法をかけてしまえば――
「ティカ?」
 思い詰めた表情で、口を両手で塞いだティカを、ヴィヴィアンは怪訝そうに見つめた。
「僕、休憩室で待っていますね」
「待って!」
 ヴィヴィアンはティカの腕を掴んだ。
「大丈夫? ユージニアと何かあったの?」
 ティカはぎこちなくほほえんだ。
「渡してほしいと頼まれただけです」
「本当に?」
「はい」
「どうも様子が変だと思ったんだ。料理を取りにいった時か……ユージニアめ。次は受け取らなくていいよ。俺からもいっておく」
「……」
 ティカは小さく頷き、視線を足元に落とした。ヴィヴィアンは身を屈めて、ティカの瞳を覗きこんだ。
「何をいわれたの?」
 ティカが首を振ると、そっと手をのばして頬に押し当てた。
「嫌なことをいわれた?」
「……違います」
「でも傷ついている」
「……」
「もう彼女とは口を利かなくていいよ。もし鉢合わせたら、俺のところまで逃げておいで。足は速いだろう?」
 鼻をきゅっと摘まれて、ティカは思わず小さく笑った。
「帰りたいところだけど、今夜はもう少しいないといけないんだ。我慢できる?」
「アイ」
「いい子だ」
 抱きしめられ、髪に優しいキスが落ちる。ティカもおずおずと背中に腕を回し、彼に抱き着いた。荒れていた気持ちが、静まっていくのを感じる。
「……ダンスが始まったみたいだし、もう少しここにいようか」
 ティカは彼に抱き着いたまま顔をあげた。
「でも、ヴィーがいないと、皆が困りませんか?」
「愛想はもう十分振りまいたから、ダンスは勘弁してもらおう。俺にも休憩が必要だ」
 彼がわざとらしくティカにもたれてきたので、ティカはしっかり支えながら、くすくすと笑った。