メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

15章:アプリティカ - 4 -

 斑岩はんがんの柱が並び、天井に格間が施された、大理石の広間が見える……華麗な造りをしているが、窓は分厚いカーテンに覆われて薄暗く、呪われた墓地のようだ。
 部屋の真ん中に、縦長の大きな水槽があり、錨のような太い鎖が巻きつけられていた。鎖が交差する中央には、真鍮製の南京錠が鈍い光を放っている。
 驚くことに、厳重に拘束された水槽に、少女が囚われている。その姿は目を疑うもので、下半身は蒼翡翠に煌く鱗に覆われ、足の先端では優雅な尾ひれが揺れている。
「……人魚?」
 ティカの呟きに、檻のなかの少女がはっとしたように顔をあげた。
 かんばせは青褪めているが、聖者のように儚げで美しい。青水海色の長い髪が、水のなかで戯れている。
 鎖でがんじがらめにされた、狭い水槽に押しこめられている人魚の姿は、傷々いたいたしくて、それでいて美しかった。
(あれ? ……どうなっているんだろう?)
 現実離れした光景を目の当たりにし、ティカは、自分がどこで何をしているのか判らなくなった。
 人魚は失われし古代精霊ティタニアの眷属だ。精霊界ハーレイスフィアにしかいないはずなのに、なぜ地上にいるのだろう?
 疑問に思いながら、恐る恐る水槽へ近づいていった。人魚も硝子板に手をついて、やってくるティカを不安そうに見つめている。
 水槽の前で立ち止まったティカは、少女の複雑神秘に輝く瞳を見て、思わず息をのんだ。
 見る角度によって虹彩を変える瞳には、青や銀、橙の筋が不規則に揺れて、まるで極光オーロラをとじこめた、蚕白オパールのようだ。なんて稀有な瞳なのだろう。
 ティカが硝子ごしに手を伸ばすと、彼女もまた手を伸ばした。
“貴方は誰?”
 不思議なことである。彼女は水中にいて、唇は動かしていないのに、その声は繊細な響きをもってティカをとらえた。
「ええと……僕はティカ。エステリ・ヴァラモン海賊団の一味、ヘルジャッジ号の船員だよ」
“海賊?”
「うん。君の名前は?」
“私はオデッサ”
「どうして檻のなかにいるの? 誰かに掴まってしまったの?」
 途端に、オデッサは表情を曇らせた。
“……人魚じゃないわ。まがいものよ”
「まがいもの?」
“私は、人間に造られたの”
「造られた……?」
“そうよ”
 オデッサは沈んだ声で囁いた。
「どういうこと? 君は本物の人魚に見えるよ」
“見た目はね。競売会で売るために、本物そっくりに造られたのよ”
 ティカの脳裏に天啓のようなものが閃いた。
「競売会? ヘラージョ・アプリティカのこと?」
“そうよ”
「えっ? ……でも、」
“私は人魚じゃない”
 オデッサは強い口調で、被せるようにしていった。
「人魚だよ!」
 ティカが強くいい返すと、少女は悲しそうにほほえんだ。
“ねぇ、ティカは海を知っている?”
 唐突な質問に、ティカは一瞬きょとんとし、すぐに頷いた。
「もちろん知っているよ」
“海って、どんなもの? 青いの? それとも緑なの?”
 ティカは瞳を瞬いた。人魚なのに、海を知らないのだろうか?
「海はね、いろんな色になるよ。朝いちばんの陽を浴びて金色に染まるし、晴れた日は真っ青、珊瑚の上ではエメラルド・グリーン。深い深いブルーホールの真上にいると、深淵の紺碧に見えるんだ」
“へぇ、素敵ね”
「晴れた日の海はね、ダイヤモンドみたいにきらきら輝いて見えるんだ。真下を見下ろすと、とても透き通っていて、深い海底まで水面の揺らぎが反射して見えるの」
“きっと素敵なんでしょうね”
「言葉ではとてもいいあらわせないよ! とっても綺麗なんだ」
“すごく見てみたいわ”
 少女の瞳に憧れが浮かぶのを見て、ティカは胸を締めつけられた。
「ねぇ、本当に海を知らないの? 尊い海の精霊なのに!」
“私は精霊じゃないわ、人工的に作られた怪物よ”
「そんなはずないよ! 君の歌声は、海から聞こえてくるようだった。僕には判るんだ」
 驚いた顔をするオデッサを見て、ティカはさらにまくしたてた。
「僕は、遠く離れた海洋の生きものの歌を聞きとることができる。君の歌声は、本当に海から聞こえてくるようだった」
“海……海へ帰りたい。わたしの居場所は、ここじゃない”
「そうだよ。いこうよ、海へ」
“いきたい”
 ティカは大きく頷くと、早速、水槽を調べ始めた。全く、この忌々しい鎖は、どうなっているのだろう?
 オデッサは硝子の檻に掌を押し当て、悲しそうにティカを見つめた。
“……ここをでていけたらいいのに。産まれた時から、檻のなかにいたわ。外の世界は知らない”
「僕がだしてあげる」
“え?”
 ティカは器用に水槽をよじ登ると、格子蓋を交差している鎖を両手で掴んだ。オデッサは慌てて水面から顔をのぞかせた。
「ティカッ!」
 それは、初めて聞いた彼女の肉声だった。
「うぎぎ……この鎖、硬いなっ」
「無茶よ、手を痛めちゃう! あいつが、厳重に鎖を巻きつけるよう指示したんだもの。外れっこないわ」
 ティカは鎖と奮闘しながら、彼女の声はなんて美しいのだろうと思った。水中で唱える神秘的な囁きよりも、ずっと明るくて、溌剌としている。それでいて、歌のように耳に心地よい。
 俄然やる気になり、ティカは力の限り闘ったが、やがてびくともしない鎖に根負けた。しょんぼりと眉をさげ、荒い息を整えながら、水槽をのぞきこむ。
「はぁ……鍵を壊すか、開けるかしないと、ちょっとこの鎖はどうにもできなさそうだよ」
 オデッサは諦念の滲んだ微笑を浮かべた。
「そうね……仕方がないわ」
「諦めちゃだめだよ! なんとかして逃げないと」
「……」
「僕は本気だよ。君は、ここにいちゃいけない」
「だけど、ここからでることは難しいと思うわ……この身体ですもの。運よく檻からでられても、水がなければ歩けないのよ」
 オデッサは尾ヒレをひらめかせ、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「私も人間なら良かったのに。人間みたいに二本の足があれば、ティカと一緒に歩けるのに」
 ティカは硝子の檻に手を添えた。
「君はすごく綺麗だよ! 僕には精霊界の尊い人魚にしか見えない。なんとか助ける方法を考えるよ」
「……人魚じゃないわ」
「大丈夫だよ。絶対に助けるからね」
 オデッサはティカをじっと見つめ、感情をこらえるように唇を噛みしめた。今にも泣いてしまいそうだ。
「……ありがとう」
 両手に美しい顔を沈め、くぐもった声で囁いた。檻がなければ、抱きしめてあげられるのに。ティカは残念に思いながら、硝子に額を押し当てた。
 オデッサは沈んだ顔をしてたが、何かを察知したように顔をあげた。
「もういって。もうすぐ見張りがくるわ。見つかっちゃう!」
 急速に、意識を現実に引き戻される感覚に、ティカは慌てた。
「待って! アプリティカの競売会で売られるって話、本当?」
「ええ、でも表の競売会じゃないわ。秘密の競売会で売られるのよ」
「秘密?」
「あいつがそういっていたのよ。夜の競売会で私を並べるって」
「あいつって誰?」
 オデッサが何かをいった気がしたが、聞こえなかった。次の瞬間、ティカは森のなか、橋の上にいて、小川を覗きこむようにして屈みこんでいた。だがバランスを崩して、小川に落ちてしまった。
「うわっ!?」
 足がつく浅瀬だが、腰まで浸かってしまい、凍えるような寒さに襲われた。
「オデッサ?」
 さっきまで喋っていた少女はどこにもいない。水の向こうに目を凝らしてみても、何も見えない。
 ティカはたまらず岸辺にあがると、両腕で身体を摩った。寒くてたまらない。
「オ、オデッサ? どこにいるの?」
 何度も名前を呼んでみたが、誰の返事もなかった。

 森の探訪からティカが帰還した時、追いはぎにでもあったかのような有様だった。下半身はずぶ濡れで、ブーツは土と腐葉土がへばりつき、頬にまで泥が跳ねている。癖っ毛の黒髪はくるくると巻きあがり、今朝、綺麗に梳いてくれたホリーの努力が台無しである。
 玄関に立っているヴィヴィアンは、真剣な様子で、ローランドやサムと何やら会話をしているところだった。彼は、森からひょっこり現れたティカを見て、驚いたように駆け寄ってきた。
「ティカ! 何があったの!?」
 その鬼気迫る表情に、ティカは慄えあがった。脊髄反射で頭をさげる。
「ごめんなさいっ!」
「謝らなくていいから、顔を見せて。怪我はない?」
 ヴィヴィアンは早口でまくしたてた。
「ありません」
 ティカが顔をあげると、頬を暖かい両手で包まれた。ヴィヴィアンは怒っていなかった。心配でたまらないという顔をしている。
「氷のように冷たいじゃないか。どうしてずぶ濡れなの?」
 そういいながら、自分の上着を脱いでティカの肩にかけた。
「汚れちゃう!」
「そんなことはいいんだよ。さぁ、なかへ入ろう。早く温めないと」
 ヴィヴィアンはティカの濡れた身体を温めるように手で摩ると、自分が濡れるのも厭わずに、冷え切ったティカの体を抱きかかえた。
「ヴィー、聞いてください。とても不思議なことが起きたんです」
「あとで聞くよ。風呂が先だ」
「僕が何を見たと思いますか? 信じられないことが起きたんです! 人魚を見たんです。本物の人魚、精霊界ハーレイスフィアの聖なる眷属ですよ!」
 ティカはヴィヴィアンの肩に手を置いて、興奮気味にまくしたてた。
「ティカ、変なものを食べた?」
「えっ? 食べていませんよ」
「そうかい? 森で人魚を見るなんて、随分と想像豊かな幻覚を見たようだね」
「幻覚じゃありません! ……たぶん」
「森に人魚はいないと思うが、ティカが満身創痍で、偉大な冒険から生還したということは判っているよ」
 なだめるように軽く背中を叩かれ、ティカはむくれた。
「僕の話をちゃんと聞けば、そんな風には思わないはずですよ。オデッサの、そう、名前だって教えてもらったんですからね。オデッサの姿はまさしく人魚そのもので、足は鱗に覆われて、尾ひれがあって、水のなかを魚みたいに泳ぐんですよ」
 ティカはなんとか彼に判ってもらいたくて、一生懸命に喋ったが、十分に説明しないうちに、浴室に着いてしまった。
「よしよし、判ったよ。話はあとでたっぷり聞かせてもらうから、先ずは湯に入りな」
 そういってヴィヴィアンがぱちんと指を鳴らすと、朱金の粒子が瞬き、浴槽の底から熱い湯がしみでてきた。
「魔法だ!」
「簡単な魔術だよ」
 湯がたまっていく様子をじっと眺めているティカの服に、ヴィヴィアンは手をかけた。
「ほら、早く脱いで」
 ティカが湿った服に苦戦していると、見かねたヴィヴィアンは手を伸ばした。服を剥ぎ取り、泥でへばりついた靴下は、短剣で斬ってしまった。一通りの世話を終える頃には、浴槽は湯でいっぱいになっていた。
「じゃあ、よく温まってからでておいで。俺は書斎で待っているから」
 ヴィヴィアンは少し疲れたような声でいった。
「アイ、すみません……」
 落ち着きを取り戻したティカは、ばつの悪そうな顔で頭をさげた。
 一人になると、ティカは熱い湯を身体にかけた。あまりの心地よさに、ため息が漏れた。いい匂いの石鹸で身体を洗い、浴槽に身体を沈めた。疲れが癒えて、心地いい清潔感、深い安心感に包まれる。
 やがて足の爪先までぽかぽか温まると、風呂をでて、寝間着に着替えた。ガウンを羽織ってヴィヴィアンの待つ書斎に向かう。扉をノックすると、入って、となかから声をかけられた。
「失礼します」
 彼は、王都の最新情報誌を読んでいたようだ。傍にブランデーの入ったグラスが置かれている。入ってきたティカを見つめて、にっこりほほえんだ。
「温まったかい?」
「アイ、ありがとうございます」
「おいで。さっきの話の続きをしよう」
 ティカは、火の灯された暖炉の前にある、革張りのソファーに腰かけた。ヴィヴィアンも隣に座ると、ティカを抱き寄せ、頭のてっぺん、額、そばかすの散った鼻梁にキスをした。腕をゆるめて顔を離すと、ティカの瞳をのぞきこんで訊ねた。
「心配したんだよ。森で何があったの?」
「あの……」
 ティカは森での邂逅めぐりあいを、一からヴィヴィアンに話して聞かせた。
 ティカの摩訶不思議な体験談を、最初のうちは愉快そうに聞いていたヴィヴィアンだが、次第に真剣な様子になり、オデッサとの会話の仔細を聞き終える頃には、顔から笑みを消していた。
「それで、ティカはどう思うの?」
「彼女は、競売会で売られるっていっていました。本当でしょうか?」
「判らない。ただ、心当たりがある。ビスメイルが生物兵器を開発しているという情報を耳にしたんだ。この件に関して、ちょうど今、仲間に調べてもらっているところだよ」
「ビスメイル? オデッサと何の関係が?」
「つまり、オデッサはビスメイルで造られたかもしれないということ」
「違います! 彼女は本物の人魚です! ……尊い精霊なのに、売るだなんて酷い」
 ティカは表情を曇らせて、項垂れた。
「尊い精霊かどうかは判らないが、秘密の競売会というのは気になるね。調べてみよう」
 ヴィヴィアンは神妙な声でいった。
「本当ですか?」
「ティカの千里眼を無視するわけにもいかないしね。シルヴィーたちにも連絡しておくよ」
「ありがとうございます」
 ティカは安堵の笑みを浮かべた。やはりヴィヴィアンに相談して良かった。彼ならきっと力になってくれる。
 不意に膝の上に抱きあげられ、ティカはヴィヴィアンの肩に手を置いた。
「俺に感謝してる?」
「もちろんです!」
「じゃあ、お礼をちょうだい?」
 ティカは思わず息をのんだ。暖炉のはぜる金色の焔が、蒼い瞳のなかで踊っている。
 最近の彼は、ティカの方から求めさせようとする。最初は戸惑っていたティカだが、キスには大分慣れてきた。見つめあい、そっと顔を寄せる。ヴィヴアンの首に両手を回すと、力強い腕が背中に回された。
「ん……」
 軽く唇を触れあわせ、角度を変えて何度か繰り返す。いつもなら、そろそろヴィヴィアンの方から求めてくるのだが、今日は違うらしい。
 思い切って唇を舐めてみると、うっすら開くので、舌を忍ばせてみた。舌が触れ合った瞬間に驚いて、思わず顔を引かせてしまった。
「あ……」
 ヴィヴィアンはティカをじっと見つめていた。怯みかけたが、
「……もう一度」
 うなじに置かれた手に優しく引き寄せられ、ティカはおずおずと唇を重ねた。さっきよりも強く、しっとりと。唇で彼の唇を挟みこんでみる。艶めいた吐息を聞いた途端に、身体は熱くなった。思わず彼の頬を両手で挟んで、舌を深く挿しいれてからませ、吸いあげた。
「んっ……」
 自分からそこまで求めたのは初めてのことで、我に返ると共に、肩に手をついて体を引き剥がした。
 彼の唇が朱く、濡れているのを見て、ティカの心臓がどっと音を立てた。自分がそうさせたのだ。
「……ありがとう。上手になったね」
 ヴィヴィアンは形の良い指を伸ばして、ティカの唇を親指でそっとぬぐった。
 色々と衝撃で、ティカはもう、倒れてしまいそうだった。彼の肩に顔をうずめて、泣きそうな声で呻く。宥めるように頭を撫でられた。
「またしてくれる?」
 また? これ以上続けたらどうなってしまうのだろう? そう思いながら、こくりと小さく頷いた。