メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

15章:アプリティカ - 5 -

 不思議な邂逅があってからというもの、ティカは以前にも増して熱心に、森の探訪を続けた。小川にも毎日足を運んでいるが、残念ながら、あの日からオデッサに会えたことは一度もない。
 どんよりと曇った日である。
 ぱっとしない天気だが、ティカは構わずに森に分け入った。夜の間に雨が降ったようで、濡れた地面からうっすらと霧が立ち昇っていた。
 日課の散策を終えて邸に戻る頃には、寝室にヴィヴィアンの姿はなかった。
 このあと彼と教会にいく予定があるので、ティカは前夜のうちにローランドが用意してくれた衣装――糊のきいた白いシャツ、ズボンとベストに着替え、金釦の並んだ上着を羽織った。首には、ヴィヴィアンから贈られた、最高級の真珠の連なりを飾っている。全身鏡の前でおかしなところがないか確認すると、書斎へ向かった。
 ヴィヴィアンは毎朝、書斎で情報誌を読むのが日課で、その時間帯は、ティカも彼の傍で勉強を見てもらうのが習慣になっていた。
「お早うございます、ヴィー」
「お早う」
 机で珈琲を飲んでいたヴィヴィアンは顔をあげ、ティカを見てほほえんだ。
「素敵だよ。よく似合っている」
「ありがとうございます」
 そういう彼の方こそ素敵だ。銀白色の縞模様の上着に、群青のジレ、白いリボンを首にしめた、シンプルながら上品な装いをしている。
 ティカは机に近づいていき、彼が読んでいたものが、難解そうな論文書であることに気がついた。
「うわぁ、難しそう……」
 そうでもない、とヴィヴィアンは首をひねった。
「一応、権威あるところの最新発表だから読んでいるけれど、分厚いばかりで、戯言を縷々るる述べて、項数を増やしているだけだよ」
「ふぅん……」
 ティカは絵の多い図鑑や、冒険雑誌を好んで読むが、ヴィヴィアンは魔道光学や病理学に関する最新論文から、歴史書、経済学、専門雑誌の合本に至るまで、幅広く読み漁っている。いったい、何か国語が読めるのだろう?
「僕も今日は、違う本に挑戦してみよう」
 そういって、普段は読まない海軍情報誌を手にとった。だが、数分もしないうちに後悔し始めた。
「うーん……」
「どんなことが書いてあるの?」
 難しい顔で唸るティカを見て、ヴィヴィアンが訊ねた。
「ロアノスとビスメイルのことです。でも、言葉が難しくて」
「どれどれ、読んでごらん」
「アイ」
 ティカはたどたどしい発音で雑誌を読み始めた。
 何度も言葉をつっかえ、発音もしょっちゅう間違えるが、ヴィヴィアンは怒ったりしない。穏やかな表情で、時々、今のはありえないよ、と吹きだしながら、間違いを正してくれる。
「ぼ、貿易、かん……? この記事はちょっと、難しいなぁ」
 ティカが音をあげると、ヴィヴィアンが隣にやってきて、どれどれと手元を覗きこんだ。ティカはよく見えるように、海軍の挿絵が入ったページを開いてみせた。
「ああ……ビスメイルとの交易についてだね。色々書いてあるけど、要は貿易関税法に反対ということだ。評議会ときたら、俺が海軍学校にいた頃と少しも変わっていなくて、本当に安心するよ」
 ヴィヴィアンは皮肉をこめていった。ティカにはよく判らなかったが、ビスメイルと聞いて興味を引かれた。
「ロアノスがビスメイルと揉めているんですか?」
「創世記の頃からね。仲良くしろとはいわないけれど、お互い目と鼻の先にいるのに、交易にいちいち煩瑣な手続きがかかるのは愚かすぎるよね」
「ううん……?」
 腕を組み、難問を前にした学者のような顔つきをしているティカを見て、ヴィヴィアンは笑った。
「読書はあとにしよう。そろそろ出発しないと、礼拝に遅れてしまう」
 でかけることをすっかり忘れていたティカは、少し慌てた様子で本を閉じた。
「大丈夫、間に合うよ。予想外の渋滞でも起こしていない限り」
 彼は冗談めかしていった。のどかなアプリティカで、礼拝への道が混雑して身動きがとれない、なんて珍事はまず起こらない。
 馬車に乗りこんだあとは、穏やかな沈黙のなかで窓の外の景色を眺めてすごした。あいにくの天気だと思ったが、それも次第に晴れてきた。
「ヴィー、雨があがりましたよ」
 ティカが嬉しそうにいうと、ヴィヴィアンは頬杖をついたまま微笑を浮かべた。
 午前の早い時間であったが、薄寒い十月とは思えぬほど、優しい輝きが辺りに満ち渡り、空の高いところを雲の筋が流れている。
 道ゆく人の動きも穏やかで、のんびりしたものだ。
 青空を背に、穏やかな陽光を浴びて立つ教会は、安息日めいた静穏な姿で立っている。
 涼しげな建物は広い敷地にあり、錆びているが形のいい錬鉄製の塀が、歩道に面した正面の入り口を挟むように続いていた。
 なかに入ると、堂内は明るい雰囲気で、丸い天井にはアトラスのモザイク画が描かれていた。たおやかな両腕をひろげて、優しい微笑で迎えいれてくれる。女神を囲む妖精たちの愛らしいこと。
 訪れる人は、精霊界ハーレイスフィアに足を踏み入れたような心地で、陽射しの差しこむ聖堂を歩くのだった。なかにはティカより年下の子供もいたが、皆一様に小奇麗な格好をしている。
「綺麗ですね、ヴィー」
 そっと囁くと、ヴィヴィアンは目を細めてティカの肩を抱き寄せた。
 礼拝式の形と音の世界は、ティカにとってなじみの深いものだった。
 幸福館にいた頃は、毎日の朝と夜に礼拝の勤めがあった。祭壇を綺麗に掃除し、祭壇で歌ったり、祈念したり、参列者に奉仕したりしていた。
 風琴オルガンの演奏と共に祈りは始まった。アトラスを讃える賛美歌が厳かに繰り返される。
 ティカは旋律に耳を傾けながら、祭壇の前で数珠を手に祈りを捧げ、海へ還った仲間のこと、そしてサーシャを想った。
 司祭の厳かな古語の祈りに耳を澄ませ、少年僧侶の合唱にあわせて、歌をうたったりもした。
 礼拝が終ったあともしばらく残り、厳かな教会を見て回った。
 香の煙のなかに器具や装飾が金色に煌くのを見、栗林りつりんする石柱の合間に、福音書の著者や尊い聖者の象が立っているのを眺めた。ヘルジャッジ号の女神の瞳はサファイヤの宝石だが、聖堂の女神の瞳は真珠母貝だ。
 夢中になって観察しているティカを見て、ヴィヴィアンはほほえんだ。
「ティカには退屈かと思ったけど、楽しそうにしているね」
「人って、すごいと思うんです。石や木を使って、こんなに複雑で美しい像を作ってしまうんだから」
 ティカは興奮した様子でいった。
 植物や動物などの自然のほかにも、人は石や木を使って第二の創造をすることができる。それらは途方もない神秘に思えるのだ。
「海の歌も素敵だけど、人間の歌も素敵ですね。サーシャも歌がすごく上手でしたよ」
「ティカの歌声も素晴らしかったよ」
「ありがとうございます」
 ティカは照れたようにはにかんだ。讃美歌、特に女神アトラスの歌が好きだった。一糸乱れぬ厳格な節を、たえず反復される懇願と賛美とを愛していた。
「幸福館では毎日礼拝があって、子供たち皆で歌うんです。僕は、その時間がとても好きでした。心が安らぐし、想像をかきたてられるから……」
 祈念しながらその神聖な意味を追い、あるいはまた意味を忘れて、ひたすらその詩句の厳かな韻律を愛し、深い音、朗々と響く詩句の韻律に溶けこむのだ。
「ティカは感受性が豊なんだね。とても素晴らしいことだよ」
 ヴィヴィアンの顔に浮かんだ笑みを見て、ティカは胸を打たれた。
「君のように素直で鋭敏な感覚を持つ人、霊感を受けた人は、俺のように醒めている大抵の人間に勝っているんだ」
「勝っている――僕がヴィーに?」
 びっくりし過ぎて、声の調子が外れてしまった。
「そうだよ。知っているだろう? 君は俺にないものを、たくさん持っているんだ」
「そんなことないと思う」
 ティカは驚いたようにいった。
「全く、ティカは星のような人だね。自分がどれほど眩く俺を惹きつけているか、判っていないんだから」
「それはヴィーの方だよ」
「ありがとう。ティカにそういわれるのは嬉しいよ。君は俺の霊泉の源だからね」
 ヴィヴィアンはにっこり笑った。ティカは照れてしまい、視線を足元に落としたが、ふと嫌な気配を感じて強張った。
「こんにちは、キャプテン・ヴィヴィアン」
 不意に声をかけられ、二人は声のした方を振り向いた。落ち着いた物腰の紳士が近づいてきた。彼は、慇懃いんぎんな権威の雰囲気を醸しており、周囲の注目を集めていた。
「やぁ、アダム」
 気さくに挨拶をするヴィヴィアンの隣で、ティカは男に目が釘づけになった。かすかに漂う薬品の匂い、禍々しい気に、思わずぞっと悪寒をもよおしたのだ。
「遠路からはるばる、よくきてくれました。お会いできる日を、本当に楽しみにしていましたよ」
 アダムは朗らかにいったが、瞳は、鋭く洞察力に富んでいるように見受けられる。
「それは俺の台詞だよ。一年も前から、アプリティカの競売会を見据えて航海を続けてきたからね。競売会の成功に期待しているよ」
「ええ、もちろん。今年は格別に、素晴らしいものになるでしょう」
 アダムは友好的な笑みを浮かべた。彼がティカに視線を向けた瞬間、ティカは、恐怖で頬が引きつりそうになった。
「ティカ?」
 ヴィヴィアンが訝しむようにいった。ティカは慌てて笑顔を取り繕った。
「こんにちは、アダムさん」
「こんにちは。君は、キャプテンの小姓かな?」
 穏やかな笑みを浮かべているが、灰色の瞳は、傲岸ごうがんに冷たい火花を散らし、貪欲さが感じられた。ティカの怯えを読み取ったのか、ヴィヴィアンは、ティカの肩をぎゅっと抱き寄せた。
「彼はティカ。うちの船員で、俺の恋人なんだ」
「そうでしたか、いや失礼。休暇をご一緒に過ごすとは、仲がよろしいことだ。どうぞ楽しんでください」
「ありがとう」
 ティカもどうにか会釈をした。彼が去っていくのを見てから、
「……今の人は、誰ですか?」
「セルヴァ国王の叔父で、ヘラージョ・アプリティカの理事長、競売会の責任者だよ。ついでに、文化財理事を務める学者でもある」
「うーん……」
 納得がいかない、という顔をしているティカを見て、ヴィヴィアンは怪訝そうに眉をひそめた。
「どうかした?」
「いえ……素晴らしい人なんですよね? だけど、どうしてだろう。とても嫌な感じがしたんです」
「嫌な感じって?」
「うーん、なんていったらいいんだろう……本性を隠しているというか、なかはどろどろしていて、不気味っていうか……」
「……へぇ、高邁こうまいな学者で人格者だと聞いたけれどね」
 真剣な表情で考えこむヴィヴィアンを見て、ティカは次第に自信を失くした。
「僕の勘違いかもしれません。失礼なことをいって、ごめんなさい」
「謝ることはないさ。それに、自分の直感は信じた方がいい。当たることが多いからね。ティカの場合は特に」
 不安そうなティカの頭を、ヴィヴィアンは軽く撫でた。
「教えてくれてありがとう」
 とその時、今日も美しいユージニア・グアンタモナが現れた。彼女を見た瞬間に、ティカは気分が萎むのを感じた。
「ごきげんよう。キャプテン・ヴィヴィアン」
 萎縮するティカの肩を、ヴィヴィアンはぎゅっと抱き寄せた。
「やぁ、ユージニア」
「貴方も礼拝にいらしていたのね。あえて嬉しいわ、キャプテン・ヴィヴィアン」
「この子にアプリティカ聖堂を見せてあげたくてね」
 ユージニアはティカに目を落とすと、女神もかくやという微笑を浮かべた。
「まぁ、ティカ。初めまして」
 美女に笑みかけられ、ティカの心臓は宙がえりした。
「は、はじめまして」
「聖堂はどうだった?」
「すごく綺麗です」
 朱くなるティカを、ユージニアは目を細めて見つめた。このように見つめられたら、男なら誰でも彼女の足元に跪きたくなるだろう。
「良かったら、このあと公園にいきませんこと?」
 彼女がじっとヴィヴィアンを見つめていったので、ティカは心配になったが、杞憂だった。彼はすまなそうな微笑を浮かべて、
「ごめんね、ユージニア。二人で過ごしたいんだ」
 すぐに断り文句を口にした。ティカは安堵したが、残念そうな表情を浮かべるユージニアを見て、今度は後ろめたい気持ちになった。
「まぁ、仲がよろしいのね。今度は、ぜひ私もご一緒させてくださいね」
 優しく笑みかけられ、ティカはぎこちなくほほえんだ。友好的な女性なのに、紳士的な態度をとることができない。暗い悪質な何かが、心の底に沈殿していくようだった。
「悪いね、それじゃまた」
 ヴィヴィアンは如才ない笑みで挨拶をして、ティカの肩を抱いたまま外へでた。
「さて、このあとどうしようか?」
 ティカは俯いたままだった。ヴィヴィアンは、沈んだ顔をしているティカの頭の天辺にキスを落とした。
「夜まで大分時間がある。何をしたい?」
「僕……」
「乗馬はどう?」
 ティカは弾かれたように顔をあげた。だいだいの瞳を輝かせている少年の瞳を見て、決まりだ――ヴィヴィアンは楽しそうに笑っていった。
 しかし、楽しい午後とはいかなかった。
 馬車での帰り道、人気のない通りを走っている最中に、曲者くせものに囲まれたのだ。
「ここにいて」
 銃を抜いたヴィヴィアンは、自分もでていこうとするティカの肩をぐっと手で抑えた。
「僕もいきます!」
「だめ、向こうは銃を持っているし、狙いはティカかもしれない」
 反論を許さぬ厳しい口調に、ティカは気圧された。ヴィヴィアンは窓から腕をだし、威嚇射撃をした。
「ヴィー!」
「伏せて!」
 ティカは、ぎりぎり外の様子が見えるくらいに身体の位置を調節して、外の様子を伺った。
 ヴィヴィアンは巧みな射撃の腕前を発揮し、少なくとも二人に命中させたが、敵は死ななかった。
 覆面から覗く金色の瞳がティカを捉えた。ふっと獣じみた光り方をして、ティカは背筋がぞくっと震えるのを感じた。慌てて体を伏せると同時に、ヴィヴィアンが再度発砲した。
「不死身か? 心臓を狙ったのに、どういう体をしているんだ?」
 ヴィヴィアンは怪訝そうにいった。ティカが恐る恐る顔をあげた時、敵は暗い森の合間に、外套を翻して消えていくところだった。
「キャプテン、怪我はありませんか!?」
「平気。ティカは?」
「僕も平気です。誰なんですか?」
「判らないが、かなり手練れだったな。俺が誰だが知っていて、躊躇なく発砲してきた。どこかの商売敵が放った刺客かな?」
 ヴィヴィアンは冷静に分析しているが、ティカは不安に駆られた。
 襲ってきた男……どこの誰かも判らぬうえに、その顔は色素欠乏症のように青白く、不気味な青い筋が皮膚のしたに無数に張り巡らされていた。とても人間とは思えぬ、不気味で奇怪な姿だった。
「キャプテン、僕にも銃を貸してください」
 今は仲間と別行動をしていて、船もない。今度また無防備なところを襲われたら、次は無事では済まされないかもしれない。
「そうだね、射撃の練習もしておかないとね」
 ヴィヴィアンはティカの髪を撫でながら、窓の外に目を凝らした。
「……俺としたことが、ここまで接近されるとは油断したな。これじゃ、シルヴィーに怒られても仕方がない」
 ほとんど独り言のように呟いた。彼が静かに怒っていることを肌に感じて、ティカはぞくりと肌が粟立つのを感じた。
 邸に戻ると、ヴィヴィアンは書斎へ籠った。遠距離の海底電信を使って船員に連絡をとり、地元警察も動員して、周辺警備と敵の行方を探るよう指示をだしたりした。
 普段は寝つきの良いティカも、その夜は気が昂ってなかなか眠れず、空が白み始める頃、ようやく寝室に戻ってきたヴィヴィアンは、まだティカが起きていることに驚いた。
「起きていたの?」
「うん……キャプテン、大丈夫ですか?」
「ありがとう、大丈夫だよ」
 ヴィヴィアンは微笑を浮かべていった。ゆったりした動作で上着を脱いでシャツの襟を緩めると、ベッドの上掛けをめくって、ティカの隣にもぐりこむ。
「シルヴィーたちに連絡した。今夜は隠れ家に集まろう……それまで休憩だ」
 そういってティカを後ろから抱き寄せ、首筋に顔をうずめた。
 唇がうなじをかすめ、ティカはびくっとしたが、ヴィヴィアンは流石に疲れた様子で、それ以上何もせず、間もなく小さな寝息を立て始めた。ティカよりも先に、彼が眠ることは珍しいことである。ティカも安心したせいか、急激な眠気に誘われ、深い眠りへと落ちていった。