メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

15章:アプリティカ - 3 -

 ティカはたちまち庭と森のとりこになった。
 自然と調和した庭は眺めているだけでも楽しい。庭師で森番のサムが手掛けた、藤やクレマチスの棚、野茨の茂みを見る度に足を止めて、繻子のような花びらを目で楽しんだ。
 しょっちゅう庭にでているので、サムとも親しくなった。彼の飼っている、賢い三匹の犬ともすぐに仲良しになった。
 ティカにとって、庭は神秘の宝庫だ。
 海ではお目にかかれない様々な昆虫の観察に夢中になり、昼間は、灌木かんぼくの蔭に屈みこみ、何時間でも図鑑を片手に過ごした。
 特に気に入っている場所は、巨大な切り株があるところで、樹脂が滲んだ表面には、蟻や角をもった甲殻虫など、いつでも様々な虫が集まっていた。
 そういった場所で図鑑を開いて、一つ一つの虫の名前を確かめ、精緻に描かれた絵と実物の姿を飽くことなく見比べた。
 自分も描いてみようという気になり、帳面と鉛筆を手に、目にとまった様々なものをスケッチしてみたりもした。
 それは、三歳児ですらもっとまもとな絵が描けそうな出来栄えであったが、ヴィヴィアンは笑って褒めてくれた。彼は特に気に入った二枚を金箔の額縁に収め――魔法のような科学反応を引き起こし、高尚で前衛的な絵に見えるから不思議である――食事をする広間と書斎に飾り、時々眺めて楽しんだ。
 大きな葡萄棚の傘の下の、白いハンモックもお気に入りだ。そこで昼寝をするのが最近の日課になっている。
 庭は、邸の裏に拡がっている六エーカーもの森林に繋がっており、その全てがヴィヴィアンの敷地だという。
 ティカは活動の範囲を庭から少しずつ広げていき、森を探検するようになるまで、そう時間はかからなかった。
 頻繁に出入りするうちに、サムとはますます打ち解けて、彼からは庭仕事のこと――新しい花を植えたり、茂みを整えて美しく伸ばそうとしたり、花壇に水をやったり、草木について多くを学んだ。
 狩りも学んだ。森で生きていくのに必要なことや、馬と友達になる方法を学んだ。
 サムはカヌーを自由に使わせてくれたので、ティカはいつでもアプリティカの森を探検することができた。
 古い森からは太古の匂いがした。海ではお目にかからない、様々な動物に出会った。茂みから不意に飛びだしてきた、幾匹もの兎にもぶつかった。彼等はさっと後ろ足でたちあがり、ティカをじっと見つめて、鼻をひくつかせた。ティカを恐れてはいないようだが、海の生き物のように、言葉を理解することはできなかった。
 美しい銀狐や優美な鹿、愛らしい栗鼠りすも見かけた。言葉は判らないが、自然に生きる野生動物の率直な瞳は純粋で、とても好ましく感じられた。なかにはティカに興味を示すものもいて、そろそろと近づいて鼻面を押しつける懐っこい生き物もいた。
 開けた野原で、長い蛇の抜け殻を見つけたこともある。背中に美しい模様が灰銀色と飴色に走っていた。とても薄くて、陽に翳して透かしてみることができた。壊さぬよう慎重に持ち帰り、宝箱――ヴィヴィアンからもらった雷管箱らいかんばこに閉まってある。
 森は、いつでも美しい音色に満ちていた。
 こまどりやつぐみ、可憐な小鳥たちが枝のそちこちにとまっていて、彼等の言葉はやっぱり判らなかったけれど、歌うような囀りは明るい気持ちにしてくれる。
 何を聴いても、何を見ても、生命の美しさと複雑さに対する感嘆の念がこみあげた。

 ある朝。ティカは、画材の入った手提げ鞄を脇にはさみ、森へ入った。
 普段よりも行動範囲を広げて、原始林のさらに奥深くに分け入ると、人気のない大伽藍だいがらんのような静けさに包まれた。
 香気の高い、爽やかな冷気を胸いっぱいに吸いこむ。陽の射しこむ葉かげのなかの鳥の声を聴き、耳を澄まし、あたりを見回してみる。陽が昇り、空は明るく澄んでいるが、大樹の葉が覆いかぶさる森は昼でも薄暗かった。
 だが、ティカは恐れることなく前に進んだ。
 彼にとって、母なる大地の恵みを、草木や鳥獣たちが謳歌している様を眺めながら散歩するのは、この上なく楽しいことだった。海の上も素敵だけれど、陸の上も同じくらいに素敵な世界だ。
 散策の途中で秋苺や野葡萄、黒山査子くろさんざしの実を見かけるたびに、摘まんで食べたりした。
 前人未踏の地を発見せんと歩いていくと、やおら上の方から水の流れる音が聴こえてきた。
 足を進めるにつれて音は大きくなり、やがて小川にかかる石造りの橋にいきついた。秋の河から立ち昇る月色の靄が、青銅色の木立のなかを流れている。
 ティカは橋の中央で屈みこみ、水面の光の戯れに目を凝らした。
 渓流の澄んだ石清水は、川底の石や砂利が透けて見えるため、遠くからだと昏く見えるが、近寄ってみれば、硝子のように透明なことが判る。
 どうやら、色々と面白いもので満ちているようだ。
 斑模様の山女魚やまめが水の中で何度か旋回してから、銀色の閃光のように水の底に消えていった。
 水辺では、青鷺あおさぎ椋鳥むくどり、蜂鳥たちが気持ち良さそうに憩っている。滅多に人がやってこないのか、彼等はティカを恐れる素振りは一切なかった。
 海では観ることのできない野生の花も、目を楽しませてくれる。水槽や睡蓮が繁茂し、鯨の代わりに蛙が音楽を奏でている。
「けろ、けろ、めっけろ、けろけろっ、めっけろ……」
 彼等の愉快な演奏なら、一日中だって聞いていられる気がする。
(面白いなぁ! 森には、海とは全然違う生き物がたくさんいるんだ)
 飽かず小川の流れを眺めていると、不意に視線を感じた。
 昔、サーシャに注意されたことがある。森で視線を感じても、目をあわせてはいけない。妖精の魔法にかけられてしまうから。彼等は悪戯好きで、ものを隠したり、人間の台所に忍びこんでは、牛乳を腐らせたりパンを焦がしたりする。そして、夜になると毒きのこを囲んで、輪になって踊るのだという……
 もしも見つかったら、魔法をかけられ、森を永劫に彷徨う羽目になる。
 ティカが必死に顔をあげたい衝動を堪えていると、美しくも哀しい歌声が聞こえた。聞き覚えがある。アプリティカにくる途中で耳にした、あの少女の声だ!
「誰? どこにいるの?」
 ティカは顔をあげて、あちこちを見回したが、姿は見当たらない。
“あの子を助けてあげて……”
 小さな声は、四方から聞こえてきた。
“囚われている、かわいそうな人魚……”
“助けてあげて……”
“助けてあげて……私たちは鉄の檻には触れない……”
 無数の声……というよりも、脳裏に直接語りかける思念のようだ。不明瞭なうえに、それらが幾つも同時に重なるものだから、ティカは声を拾うのに苦労した。
「ねぇ、誰を助ければいいの?」
 水面が陽を反射して揺れている。光のきらめきが不自然に歪み、ふいにうなじの毛が逆立った。
“嫌……”
 押し殺した霊的なささやきは、細い霧の向こうから発せられた。ティカは声の主を探して視線を彷徨わせた。
“ここは嫌……ここからだして……っ”
 すすり泣くような声が聞こえてくる。とても小さな声だ。しくしく心で泣いている……耳を澄ませながら、ティカは海に囁くように、そっと呼びかけた。
(ねぇ、誰なの?)
 囁きはぴたりとおさまり、恐る恐る、問いかけるように囁いてきた。
“……誰?……私の声が聞こえるの……?”
 煌く水面に誘われるようにして、ティカはじっと河をのぞきこんだ。水面は不思議な光彩を放ち、次の瞬間、鏡のように見知らぬ風景を映しだした。