メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

14章:帰郷 - 8 -

 十月一日。
 ヘルジャッジ号をアプリティカに移す日、波止場には多くの船員が集まった。ヴィヴィアンが呼んだわけではない。我が家とも呼べる船の出港を見に、船員たちは自主的に集まったのである。
 尚、シルヴィーの計らいで、今日は関係者以外立ち入り禁止のため、先日と違って波止場は落ち着いている。
 甲板では、数人の船員が残って作業をしているが、殆どの船員は降りているので、いつも賑やかなヘルジャッジ号はがらんとしている。
 班仲間と雑談していたティカは、出発を知らせる船の汽笛に顔をあげた。
 見送ってくれる兄弟と、しばしのお別れだ。
 表情を曇らせるティカを見て、オリバーは鞄に手を突っこみ、握り拳をティカに突きだした。
「ティカ、手をだして」
「何?」
 ティカが不思議そうに掌を上にして差しだすと、オリバーは無花果いちじくの葉の包みを乗せた。
「蜂蜜に浸した棗椰子なつめやしの実だよ。おやつに食べて」
「ありがとう!」
 満面の笑みを浮かべるティカの首に、オリバーは腕を回して、頭を軽くぶつけた。ティカも彼の肩に腕を回して同じ仕草で応える。
「元気でいろよ、ティカ」
「うん! オリバーもね」
 力強い視線を交わし、手を打ち鳴らす。そのまま、しっかりと握りしめた。
「次に会うのは、アプリティカだ」
「うん! 待っているよ」
 その時、ヴィヴィアンが甲板から顔を覗かせた。
「ティカ、そろそろあがっておいで」
「アイ!」
 ティカは元気よく返事をし、颯爽とタラップをのぼった。船縁に駆け寄って埠頭を見下ろすと、オリバーや船室の仲間、シルヴィーやユヴェールたちがいた。
「またなティカ!」
 オリバーが声を張りあげた。
「うん!」
 ティカも負けず大きな声で返事をし、大きく手を振り返した。
「出発!」
 ヴィヴィアンの号令により、船を固定している索具が外された。荷が軽くなっているので、ヘルジャッジ号の発進は普段よりもなめらかだ。
 ティカは波止場が見えなくなったあとも、甲板で風に吹かれていた。船員の姿はまばらで、とても静かに感じる。
 ながの別れというわけでもないのに、いつも兄弟たちと一緒にいたから、なんだか寂しく感じる。オリバーにもらった包みを解くと、砂糖をからめた木の実が入っていた。口のなかへ放りこむと、たちまち甘味が拡がって、ティカは思わずにっこりした。
「美味しい……」
 噛みしめるように味わっていると、傍にヴィヴィアンがやってきた。
「やぁ、ティカ」
「ヴィー」
 彼はティカの肩を、優しく抱き寄せた。
「オリバーたちと離れて、寂しい?」
「少し」
「すぐに会えるさ」
 ティカは顔をあげて、穏やかな眼差しにほほえみ返し、再び海を見つめた。
 いつでも元気な少年にしては静かだが、ヴィヴィアンの方は上機嫌だった。
 以前から、ティカを居心地の良い別荘のどれかに招待したいと思っていた。アプリティカの別荘は気に入っている一つで、恐らくティカも喜んでくれるに違いない。腕の良い料理人を呼び、十分にもてなすつもりだ。海の上とは違う、陸の上の暮らしを存分に満喫してほしい。そして、仕事を忘れて怠惰に耽る……幼い恋人が、十六歳を迎える日をずっと待っていた。
 恋人を別荘に招待し、心が浮き立つというのは、ヴィヴィアンにとって初めての経験である。
「陸の上も楽しいよ。約束する」
 謎めいた微笑を浮かべるヴィヴィアンを見て、ティカは満面の笑みを浮かべた。
「僕も楽しみです」
 仲間と離れて過ごすのは寂しいが、船を造船所に預けている間は仕事はお休み、昼も夜もヴィヴィアンと一緒に過ごせるのだ。想像するだけで、ティカの心は明るくなった。

 昼前には、アプリティカ上陸を告げる、最初の警鐘が船に響いた。
 船長室でヴィヴィアンとボードゲームをしていたティカは、急いで最上甲板にあがり、船縁に駆け寄った。
 森林から流れてきた靄が港を覆い、静かに凪いだ湾は、鏡のように白い靄のかかる街並みを映しだしている。
 美しい光景に見入っていると、ヴィヴィアンが隣にやってきた。
「パージからだと、アプリティカはあっという間だね」
 彼の言葉に、ティカは目を輝かせた。ぱっと長身を仰ぐと、夢にあふれる青い瞳が優しく細められた。
 今日の彼は軽装で、青地に銀糸の刺繍で縁取られた上着に、灰色のズボン、拍車のついたブーツをあわせている。カトラスは差していないが、真珠色の銃身の拳銃は革ベルトにぶらさがっている。
 一方、ティカは王都であつらえた濃紺の上下に、絹の靴下と編みあげの山羊革靴をあわせている。くせ毛はヴィヴィアンが綺麗に梳かしてくれた。仕込み杖を片手に立つ姿は、貴族の少年に見えないこともない。
「きれいな街ですね」
 逸る心を抑えきれずにティカがいうと、ヴィヴィアンはほほえんだ。
「競売会が始まるから、これから大勢の客がやってくるぞ。賑やかになることだろうね」
「へぇ~!」
 ティカは街を見ながら、その様子を想像してみた。胸をときめかせ、おのずと笑みが浮かんだ。しかし、間もなく笑みを消した。そして、真剣になった。
 何の前触れもなく、光る水面から、波の音と共に、幽かな旋律が伝わって聴こえてきたのだ。

“……還りたい……海へ還りたい……”

 澄んだ歌声は息をのむほど美しいが、黄昏のようにひっそりとしていて、哀しげだ。
 突然の災厄と運命の予感に足がすくみ、ティカの胸に不安が疼いた。首をめぐらし、誰が歌っているのか姿を探そうとしていると、
「どうしたの?」
 ヴィヴィアンが不思議そうに訊ねた。
「いえ……今、歌が聴こえたんです」
「歌?」
「はい、海の歌でした……」
 鯨の友だち、アルルシオのことを思い浮かべたが、彼の歌声とは違う。もっと柔らかな、女性の声だった。
 声を探そうとしたが、甲板は次第に騒がしくなり、耳を澄ますことは困難になった。
「野郎共、荷下ろしを始めるぞ!」
「「アイ・サーッ!」」
 サディールの怒鳴り声に、船員は威勢のいい返事で答えた。ティカの意識は完全に現実世界に引き戻されたが、どうにも心が落ち着かない。
 何百、何千と耳にしてきた、吊索ちょうさくの擦れる音が、やけに物々しく、凶兆を孕んで聞こえる。美しい海にまがつなにかを感じて、ティカは為す術もなく立ち尽くした。
「ティカはこっち」
「うわっ」
 ぼうっとしていたティカは、ヴィヴィアンに腕を引かれて我に返った。最上甲板のさらに上、幹部が指揮するために立つ、露天甲板に立った。
「いいんですか?」
 ティカは不安そうにいった。今日は仕事を免除されているのだが、用もなくここに立つのは気が引けてしまう。
「そわそわしなくていんだよ」
 落ち着かない様子でいるティカの肩を、ヴィヴィアンはなだめるように軽くたたいた。
「ほら、もう桟橋につくぞ」
 波止場に着くと、荷下ろしの安全を守る衛兵達が待機していた。サディールとヴィヴィアンの監督で、船艙に保管されていた全ての宝石が運びだされた。
 真珠やいにしえのエメラルド、サファイヤといった貴石の数々、数百箱分。精緻な刺繍を施された絨毯、貴重な骨董品。数百の木枠の箱には、精緻に彫りおこされた石像や石板、翡翠の彫刻やターコイズや貝殻の装飾品、磁器がおさまっている。
 それらの箱は木綿布にくるまれ、大容量を運搬できる巨大な八輪馬車に乗せられた。アプリティカの護衛選り抜きの騎馬連隊に守られ、銀行に運ばれていった。
「立派な馬車だなぁ……」
 ティカは感心したように呟いた。 
 この古い都では、王都では姿を消しつつある馬車が、今もなお交通手段として活躍している。移動には車より馬車の方が多く使われていて、歩道の縁石は切り石でできており、街路の脇の芝生の道には、馬車の発着のためにつくられた石の踏み台が設置されていた。
 荷下ろしが終わると、造船所の従業員がやってきて、空っぽになったヘルジャッジ号に牽引のためのロープを繋いだ。このまま造船場まで、船で引っ張って移動するのだ。
「すみませーん! 船を動かしまーす! 荷物はもう残っていませんかー?」
 タラップの下から従業員が声を張りあげると、操舵室から航海士たちがでてきた。彼等のやりとりを、ティカはヴィヴィアンと共に露天甲板から見ていた。ここから先は造船所の仕事だ。船員たちも腰を下ろして休んでいる。
 ギカントマス造船所は、ガロ=セルヴァ・クロウ連合王国の推薦造船所であり、ヘルジャッジ号もここで造られた。今日は五年ぶりの里帰りというわけだ。
 巨大なヘルジャッジ号が、さらに巨大で壮大な空間に吸いこまれていく様子は、圧巻の一言に尽きる。ティカは言葉も忘れて、息を呑む光景に圧倒されていた。
 ニスと木材、石灰の匂いが漂っていて、片側の硝子張りの壁越しに午後の陽光が射しこんでいる。湾曲した天井から冷光灯が無数に垂れているが、自然光で十分に明るい。
 船が完全に止まると、ティカを含め、船員たちは全員甲板から降りた。造船所の従業員が、ヘルジャッジ号を固定する様子を、興味深く見守った。
 入り口の一つでは、ヘルジャッジ号の修繕に使うのであろう、雄大な大木が運びこまれているところだ。
「立派な幹だなぁ」
 何世紀もかけて育った巨木を見ていると、なんともいえぬ畏れを覚える。
 ティカの視線を追いかけて、ヴィヴィアンは頷いた。
「帆柱にする真っすぐな材木や、樫材の梁は、ミッキオ木材会社から買いつけているんだよ」
 ギカントマス造船所の傍には、グラン屑鉄製鉄所とミッキオ木材会社が併設されており、小型や大型の商船、巨大な軍艦の修繕から製造まで、一連の作業を可能にしているのだ。
「ここはまるで、船の大工場ですね!」
 ティカは感嘆をこめていった。
「ほら、彼がダンカンだよ。この大工場を仕切っている職人だ」
 ティカは弾かれたように振り向き、ヴィヴィアンが指さす男をじっと見つめた。
 筋骨たくましい大男だ。若々しいが、四十歳は過ぎているだろう。労働者らしく袖をまくりあげ、黒いズボンは埃がついて白くなっている。頬や首、腕といった服からのぞく肌という肌を、先史時代の遺跡に描かれた岩石線画のような入れ墨に覆われており、一目見たら忘れられない出で立ちである。
 思わず、声をかけるのを躊躇いそうになる男だが、ヴィヴィアンは違った。気安い様子で近づいていき、
「やぁ、ダンカン。久しぶりだね」
「こんにちは、キャプテン・ヴィヴィアン」
 ダンカンの厳しかった眼差しが、喜びに輝いた。旧友と再会したように、ヴィヴィアンの肩を叩いている。彼はすぐに、興味深そうに見あげているティカに気づいて、不思議そうな顔をした。
「この少年は誰だ?」
「この子はティカ。うちの船員で、俺の大切な幸運の女神なんだ」
 ティカが緊張した様子でおずおずと笑みかけると、ダンカンは人好きのする笑みを浮かべた。
「キャプテンの女神か。そりゃ、会えて光栄だ。よろしく、ティカ」
「よろしくお願いします」
 ダンカンは頷いたあと、職人の目つきで船を見あげた。
「無限幻海の秘宝に挑んだと聞いていたが、見たところ、帆桁の損傷はさほどなさそうだな」
「まぁね。嵐で傷んだりもしたけど、うちの大工は腕がいいから、航海の合間に修理した。けど船底はどうか判らない」
 ヴィヴィアンの言葉にダンカンは頷いた。
「見てみよう。今日中には、鎖で引きあげる予定だ」
「頼むよ。資金は惜しまないから、強度を最優先してくれ」
 ヘルジャッジ号はまだ水に浮いているが、これから巨体五千五百トンを持ちあげる鎖で巻きあげられ、船底まで宙に浮かすのである。
 既に陸揚げされている他の船を見て、ティカはすっかり感心してしまった。あんなにも大きな船を、同じ人間が造っているとはとても信じられない。
 ふと視線を感じて顔をあげると、造船所で働く男たちのなかに、意外な顔を見つけた。
 イアンだ。
 昔、幸福館で一緒に暮らしていた子供である。ティカは心底驚いたが、向こうも同じくらいに驚いた顔をしていた。
「……ティカ?」
「やぁ……」
 ティカは引きつった顔で、手をあげた。
「ん、知りあい?」
 ヴィヴィアンの言葉に、ティカは曖昧に頷いた。
 彼は昔から体格も度胸もでかく、幸福館の子供たち、特に男子からは崇敬されていた。サーシャの気を引きたいイアンは、彼女が何かと庇うティカを目の仇にしていて、二人は仲が良いとはお世辞にもいえなかった。
 イアンは、かつて見下していた少年に嫉妬の念を覚えていた。尊敬する師と、海の英雄の二人に囲まれ、親しげに声をかけられているのだから。
「イアン、案内してやったらどうだ?」
 二人を友達だと思ったらしいダンカンは、気を利かせたつもりでいった。
 ティカは微妙な表情を浮かべたが、イアンが笑顔で頷き返すのを見て、考えを改めた。昔はいじめられていたが、あれから大分時が経っている。もしかしたら、仲良くできるかもしれない。
「キャプテン、ちょっとイアンのところにいってきますね」
「そう?」
 ヴィヴィアンは思案げな表情を浮かべたが、ダンカンが船の修繕計画について説明し始めると、ティカを見て頷いた。
「いっておいで。俺の目の届くところにいてね。黙って外にでないように」
「アイ、キャプテン」
 返事をしてイアンの傍へいくと、彼はティカの全身をじろじろと眺めまわし、訝しげに眉をひそめた。
「随分、いい服を着てるんだな」
 ティカは慌てて自分の恰好をみおろした。確かに上等な衣装を着ている。ヴィヴィアンがわざわざ仕立て屋を呼んで、ティカのためにあつらえてくれた服だ。
 一方、イアンは着古した青色のズボンにくすんだ同色のベストを着ている。彼の前で上等な服を着ていることが、突然に躊躇われた。後ろめたいような、よく判らぬ羞恥と罪悪感に襲われ、ティカは朱くなった。
「……うん。もらったんだ」
「もらったぁ?」
 イアンは奇妙な顔でいった。ティカはさらに気まずい思いで頷いた。
「ふぅん……それで、ここで何をしているんだよ?」
「えっと、船を見学にきたんだ」
 途端にイアンは小鼻を膨らませ、得意満面になった。
「そうだろう! あのキャプテン・ヴィヴィアンの船なんだぞ。すごいだろう」
 ティカは嬉しくなって、にっこりした。
「知っているよ! 僕はその船に乗ってアプリティカまできたんだ」
「はぁ?」
 イアンは盛大に眉をしかめてみせた。
「あのね、僕、幸福館をでたあと、キャプテン・ヴィヴィアンの船に乗せてもらえたんだ」
「馬鹿かお前。つくならもっとましな嘘をつけよ。お前が海賊船に乗れるわけないだろ」
「本当だよ!」
「信じられるかよ。キャプテン・ヴィヴィアンの船に乗っているなんて……本当のところ、どっかの商船に乗ってきたんだろう?」
「違うよ!」
「じゃあ、ここには何しにきたんだよ? ティカも造船所で働くのか?」
「ううん、違うよ。ヘルジャッジ号を預けるところを見にきたんだよ」
 イアンは変な顔つきになった。
「その服、まさか盗んだんじゃないだろうな」
「違うよ! 盗んでないっ! ……えっと、キャプテンがくれたんだ」
「なんでキャプテンが、お前に服をくれるんだよ」
「それは、えっと……僕、あんまり服を持っていないから」
 イアンは納得したように頷いた。
「ふぅん、なかなか気風きっぷのいい商船なんだな」
 あくまでも、ティカが海賊船に乗っていることを認めるつもりはないようだ。
「商船じゃないよ。海賊船だってば」
「お前が海賊船に乗って、何ができるっていうんだよ」
「甲板仕事をしているよ。うんと高い帆柱にも上って帆をはったり、畳んだり、夜直に就いて、嵐や敵船がこないか瞠るんだ」
 イアンは小馬鹿にしたように、鼻で笑った。
「そうだよな。それで敵がきたら、カトラスを抜いて戦うんだよな?」
「うん!」
「お前はいつまで経っても、子供みたいな奴だな」
 イアンは呆れたようにいった。彼の威圧的な口調に、幸福感の記憶が蘇った。ティカはすっかり委縮してしまい、しゅんとして口を閉ざした。
「服を買ってくれるキャプテンって、どんな人?」
「キャプテンはすごい人だよ! 綺麗で、優しくて、強くて、皆に慕われている。キャプテンに不可能なことなんてないんだ」
「ふぅん……」
「イアンは? ダンカンさんはどんな人?」
 イアンの瞳が輝いた。
「おっかないけど、公平でいい人だよ。それに、腕は確かだ。どんな船だって、親方に直せない船はないんだぜ」
「へぇ! すごいんだね」
「当たり前だろ、キャプテン・ヴィヴィアンの船を預かるくらいだぜ? いっておくが修理だけじゃない、親方は一から船を作ることもできる。この間も、巨大な軍艦の設計を頼まれたんだ。貴族や政治家が、遠路から親方に是非とお願いしにやってくるんだ」
「すごいね!」
「ギガントマスの技術は世界一だよ。親方は、そのなかでも一番偉いんだ」
「すごいなぁ、こんなに大きな造船所で働いていることもすごい!」
 感心しきりのティカを見て、イアンはふいに赤くなった。思わず熱が入ってしまったと感じたようだ。
「はいはい、もういけよ。俺はお前と違って忙しいんだ。素人にうろうろされちゃ、目障りだね!」
 イアンは居丈高にいうと、背を向けていってしまった。残されたティカは呆気にとられて立ち尽くしていたが、ヴィヴィアンに呼ばれたので、彼の元へ駆け寄った。