メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -
14章:帰郷 - 7 -
「今日は口座を作りにいこう。ロアノス銀行で開設しておけば、世界中の支店でいつでも引きだすことができるよ」
と、彼に勧められるがまま、ティカは初めて自分の口座を開設した。
これまでは、航海で得た報奨金や配給金は、船の金庫に預けておけば良かったが、今回ばかりは船倉を全て空にしなければならず、保管場所を変える必要があった。
三度の航海給金はほぼ手つかずで残っているので、それなりの金額がある。自分で管理する自信のないティカにとって、銀行という存在はありがたかった。
その翌日、ヴィヴィアンは宿泊している部屋に、評判の仕立て屋を呼びつけた。
淡泊な表情の職人は、小柄なティカをひと目見るなり、手際よく採寸を済ませ、奇跡のような仕事にとりかかった。
数日後には、最高級品の夜会服、乗馬服、革靴やドレス靴、不断着から下着に至るまで、一通りの衣装が届けられた。
素晴らしい品々にティカは目を瞠ったが、なかでも黒いマラッカステッキは、一目見るなり気に入った。
鏡の前で、レイピアのようにステッキを構えるティカを見て、ヴィヴィアンはおかしそうに笑った。
「勇ましいね。決闘でもするのかい?」
「ありがとうございます、キャプテン!」
ティカは満面の笑みでいった。
「それは特注の仕込み杖なんだ。抜いてごらん」
「えっ」
ティカは弾かれたようにステッキに目を落とすと、杖を調べた。かちっと音がなり、すらりと剣が現れる。
「うわぁっ! 剣だ!」
なんて見事なのだろう。白銀に煌めく刀身に、興奮しているティカの顔が鏡のように映りこんでいる。
深い感謝の念をこめて、ティカはヴィヴィアンを見つめた。
「こんなに素敵な贈りものを、ありがとうございます」
ヴィヴィアンはにっこりした。
「どういたしまして。そんなに喜んでもらえて、俺も嬉しいよ」
贈り物はこれだけに留まらず、ティカは贅沢の極みというものを、数日の間で経験することになった。
そして昼も夜も、あらゆる上流階級の招待を受けた。貴族や貿易商の会議、骨董や蒐集家たち、特別な有力者たちの集まり。
ヴィヴィアンがいくところ、ティカはどこへでもついていった。彼が仕事をしている時は彼の鞄を持ち、晩餐にはめかしこんで同じ席についた。
孤児院育ちのティカにしてみれば、ヴィヴィアンを始め、彼をとりまく環境は異世界の光景だった。
どこへいくにも、ヴィヴィアンは非の打ちどころのない装いをしているが、ティカも素晴らしい装いをしていた。お気に入りのステッキを手にしていると、紳士になったようで非常に気分が良かった。
九月二十九日。
ティカとヴィヴィアンは花束をもって、サーシャの墓参りにいった。
魂の聖域は、芝生と鮮やかな色の花に覆われた、美しい庭園のようだった。見晴らしもよく、極彩色のパージの街並みを一望できる。賑やかな喧騒は遠く、まるでヴァイオリンのように優しい囁きに聴こえる。
天気に誘われ、あるいは昔からの
青みがかった丘に立ち、ティカは深呼吸をした。
どこまでも澄み渡っている青い空に、活き活きと萌える果樹が映えている。サーシャの眠る霊園が、揺り籠のように美しいところで嬉しかった。
ティカは、サーシャの墓石の前に屈みこみ、パンジーの花束をそっと置いた。
「ねぇ、サーシャ。ここは庭園みたいだね。綺麗な薔薇が咲いていたよ」
囁くティカの隣で、ヴィヴィアンは帽子をとって恭しく胸の前にもっていき、優雅にお辞儀をした。
「初めまして、サーシャ。ようやく挨拶ができて嬉しいよ」
ティカは思わず笑顔になった。
「サーシャは、航海の間も傍にいてくれたんです。ヘルジャッジ号を見守ってくれていたんですよ」
墓石には確かにサーシャの名が刻まれているが、大好きな少女が、ここで常しえの眠りに就いている実感はなかった。彼女の自由な魂は、今もティカの傍にいてくれるように思う。
事実、航海のさなか追想に浸るだけでなく、今という時にも彼女の気配を感じることがあった。
「ティカの守護天使が航海を見守ってくれていたんだね」
「うん……」
ヴィヴィアンの優しい言葉に、ティカは夢想に耽りながら頷いた。
幸福館での日々を、今では遠い世界の出来事のように感じるけれど、サーシャと過ごした記憶だけは、いつでも鮮明に思い浮かべることができる。感傷と郷愁。とめどなく蘇る、在りし日の記憶……航海が楽しい時も辛い時も、何かあるたびに、打ち寄せる波のようにサーシャのことを繰り返し想っていた。彼女は、ティカの心を形成する礎そのものだ。
(サーシャ、くるのが遅くなってごめんね。でもね、いい風が吹くたびに思いだしていたよ。サーシャのこと……)
追憶の向こうで、大好きな少女が、変わらぬ笑顔を向けてくれる。
(ねぇ、サーシャ。僕は海賊船に乗っているんだ。知ってるよね? けどさ、今でも信じられないんだ。あの、キャプテン・ヴィヴィアンの船に乗っているんだよ! ヘルジャッジ号がカーヴァンクル号だなんて、驚きだよね。サーシャもびっくりしたでしょ?)
少女のささめく笑い声が聞こえた気がした。ティカは目を開けて、ぼんやりと辺りを見回し、樹に背を預けているヴィヴィアンを見つめた。
彼こそはティカの輝ける救世主だ。無限海へ連れだしてくれた人。サーシャを失った悲しみを癒してくれた人。嵐のなかでも、砲撃のなかでも、手をさしのべて救いあげてくれた人。
目があうと、ヴィヴィアンは優しい笑みを浮かべた。ティカもほほえみを返して、前を向いて再び目を閉じた。
(あの人が僕の好きな人、キャプテン・ヴィヴィアン……無限海の大海賊で、ヘルジャッジ号で一番偉い人。僕の恋人なんだ。とても大切な人……)
ようやく彼女に報告することができた。ある種の達成感のような、切なくも清々しい感慨深いものを感じて、ティカは顔をあげた。心地いい風が頬を撫でていく。その時、大好きな少女の声が、はっきりと聞こえた気がした。
“良かったね、ティカ!”
「うん! ……ありがとう、サーシャ。君のことが大好きだよ、いつまでもずっと」
心の声が、そのまま言葉となって、ティカの唇からこぼれ落ちた。
さわさわ、そよ風が吹いている。優しい風を感じていると、ヴィヴィアンに肩を抱き寄せられた。
「お話できた?」
ティカはにっこりほほえんだ。
「アイ。連れてきてくれて、ありがとうございます」
暖かな視線を交わし、ティカはふと何かに気がついたように身を屈めた。
「どうしたの?」
ヴィヴィアンは不思議そうにいった。ティカは無言で野花を摘み取り、手にした赤紫の花を、ヴィヴィアンの上着の釦穴にさした。
「ん?」
「魔除けの花です」
ヴィヴィアンは碧眼を優しく細めて、ティカの髪を撫でた。
「ありがとう。古い魔術にも使われる花だよ。よく知っているね」
「昔ね、サーシャに教えてもらったんですよ」
「そう……」
その時、とても心地いい風が吹いて、二人は顔をあげて、紺碧に煌めく湾を見つめた。
水と光が戯れている。美しい光景を前に、永遠のように感じられるほど長い間、二人は無言で涼風に吹かれていた。