メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

14章:帰郷 - 4 -

 波止場で解散したあと、ティカはオリバーたちと共にパージ・トゥランを散策することにした。
 この街に静寂はない。
 荷馬車の車輪の音や、自動車の行き交う音。無数の足音、客を呼びこむ売り子の声、ものを売り買いしたり、盗人に浴びせるどすの利いた罵声。雑多な音、時刻を告げる教会の鐘の音が渾然一体となり、街を賑わせている。
 ティカたちは、昼の間は大通りから市場小路を気ままに散策し、夜になると賑わっている酒場へ入った。
 客は労働階級の男ばかりで、老いも若きも、仕事の疲れを麦酒で癒していた。なかには娼婦を侍らせている男もいる。
 ヘルジャッジ号の船員はどこへいっても注目の的らしく、飲んで食べて、やがてカードに興じるうちに、テーブルの周りには人が集まりだした。
 すると、いつもの悪乗り二人組――ブラッドレイとセーファスは悪戯っぽい顔つきになり、
「そろそろやるか?」
「おう」
 何やらこそこそと囁き始めた。
 ティカは席を立つ二人に、どこへいくの? と声をかけたが、彼らは返事をせず、後ろを向いたまま掌を閃かせた。そうして少し離れたところにある別のテーブルに腰をおろし、金を懸けた賭博をやり始めた。
 鴨にしてやろうと椅子に座った客は、逆に鴨にされ、二人はあっという間に、一晩飲み明かすには十分な金を巻きあげてしまった。
 意気揚々とティカたちのところに戻ってきた二人は、空いたグラスの山を見て、呆れたような顔つきになった。
「おいおい、どれだけ酒を飲んだんだ?」
 ブラッドレイが文句をいうと、
「陸祝いに、お前らが稼いでくれるって信じていたぜ!」
 マクシムが豪快に笑い飛ばし、思わずブラッドレイとセーファスも笑顔になった。
「任せとけ」
 と、胸を拳で叩くブラッドレイ。
「よし、今夜はとことんいくぞ!」
 セーファスが上機嫌にいうと、全員が陽気な笑い声をあげて、麦酒の杯をつきだした。
「カンパーイッ!! ……ところで、どこへいくの?」
 ティカも皆の真似をしながら、こっそりオリバーに訊ねた。親友は忍び笑いをもらし、ティカの耳に口を寄せて囁いた。
「今夜は飲み明かそうぜ、ってことだよ」
「なるほど……えっ、でも僕、ホテルにいかないと」
「判ってるよ。もう少しいいだろ? 心配するな、あとで送っていくから」
 その言葉に、時間を気にしていたティカは頷き、酒瓶に手を伸ばした。指が触れる瞬間、ブラッドレイがかすめるようにして取りあげた。
「お子様ティカはそれくらいにしておきな。飲み過ぎると、またどやされるぞ」
 ティカはむっとしたが、カルタ・コラッロでの騒動を思いだし、お行儀よく両手を膝の上に置いた。
「お子様ティカはこいつにしておきな。美味しい、美味しい、果物ジュースだぞぉ~」
 頭を撫でるブラッドレイの手を煩げに払い、ティカは彼を睨みつけた。
「お子様じゃないよ。もうすぐ十六歳になるんだから」
「判ってる、判ってる」
 にやにやしているブラッドレイからグラスを受けとり、ティカは不満そうな顔で口をつけたが、
「うわっ、美味しい! 驚いた。麦酒よりずっと美味しいよ」
 目を輝かせていった。
「皆も飲んでごらんよ!」
 興奮気味に続けるティカを見て、全員が笑った。
 その時、別の卓で飲んでいた客が子分を引きつれ、肩をいからせながら近づいてきた。眉毛は焦げ茶で太く、意思の強そうな瞳をしている。いかにも無頼漢といった風情で、シャツにはウィスキーコークの沁みができ、逞しい腕には鮫の入れ墨が彫られている。
「お前ら、人の金でじゃんじゃん飲みやがって! どうせイカサマなんだろう、えぇ!?」
 どうやら、ブラッドレイとセーファスにやりこめられた客の一人のようだ。
「まぁ、落ち着けよ。イカサマなんて俺はしてないぜ」
 ブラッドレイは肩をすくめていった。
「今夜は仲間と楽しく飲んでるんだ。邪魔しないでくれよ。取り過ぎて悪かった」
 セーファスも、とりなすように五千ルーヴ紙幣を一枚、男の前にさしだしたが、男は納得しなかった。
「それっぽっちで我慢できるか! きっちり耳をそろえて全額返しやがれ」
 指を突き立てる男を見て、マクシムが無言で立ちあがった。いわおのような巨躯に、男はしばし圧倒されたが、やおら大音量で怒鳴る。
「脅したって無駄だ! 今すぐ、俺の金を返せ!」
 ざわめいていた店内はしんと静まり返り、皆の視線がティカたちに集中した。マクシムがおもむろに腕をまくりあげ、胸の前で組んだ指を荒っぽく鳴らすので、全員が乱闘を予期して身構えたが、彼はどかっと椅子に座った。
「力比べしようや。恨みっこなし! あんたが勝てば、損を被った倍の金額を支払ってやる」
 肘をついて腕をさしだす巨漢を見て、熊のような男もにやっと笑った。
「……いいだろう、乗った!」
 その瞬間、わっと歓声が沸き起こった。
「これは見ものだぞ!」
 店にいた人々は目を輝かせ、二人を取り囲んだ。いざ勝負。戦いの幕が開けるや拳を握りしめ、観戦に夢中になった。
「ぐぎぎぎぎっ!」
 挑んだ男は、顔を真っ赤にして唸っている。だがマクシムの腕はぴくりとも動かない。
「マクシム! がんばれっ!」
 飛び交う野次に負けじとティカも声を張りあげる。
 流石はマクシム。顔を真っ赤にしている熊男と違い、余裕の表情である。血管の浮きあがった鋼の如し腕は、びくともしない。
 たん! ついには小気味いい音を立て、熊男の手がテーブルに倒された。
「くそっ!」
 熊男は悪態をついたが、瞳は澄んでいて、最初にあった怒りは失せているようだった。
「店を騒がせた詫びと、楽しませてもらったお礼だ。今ここにいる全員に一杯驕るぜ!」
 すかさずブラッドレイが気前よくいうと、酒場は興奮にどよもした。彼はイカサマ師から一転して、酒場の英雄になったのである。
 他にも名乗りをあげる挑戦者がいれば、マクシムは喜んで相手になり、必ず勝利した。
 白熱する腕相撲に一同は歓声をあげ、酔余の放歌をする者もあった。店は千客万来、愉快な一体感に誰もが酔いしれた。賑わう酒場に客足は途絶えず、ヘルジャッジ号の他の船員も繰りこんだ。
 愉快な心地でジュースを飲むティカの横で、兄弟たちは楽しげに次々と酒瓶を空け、夜も更ける頃には、強い地酒まで呑み始めていた。
「ねぇ、女の人に声をかけないの?」
 ティカは不思議に思って兄弟に訊ねた。いつもなら、とっくにご婦人と共に消えている頃合いである。
「ティカは明日から、キャプテンと一緒なんだろ? 今夜は仲間内で飲もうや」
 ブラッドレイの言葉にティカは嬉しくなった。同じ気持ちだった。こんな風に陸の上で騒ぐのは、カルタ・コラッロ以来だ。
「ありがとう、ブラッドレイ」
 ブラッドレイは照れ臭そうに笑った。それを見たオリバーが、赤ら顔で人差し指を立て、チッチッチッと左右にふってみせた。
「どうせティカを送ったあとで、女を口説く魂胆なんだよ。ブラッドレイは口のうまい女好きの気取り屋だからな」
「悪いか?」
 ブラッドレイは堂々と答えると、オリバーの首に腕を回し、そのまま締めあげた。
「うぎゃ、悪くない! 悪くないっ!!」
 オリバーは降参を訴え、机をばんばんと叩く。すると兄弟は大爆笑。ティカも一緒になって笑った。
 ようやく解放され、首を摩っているオリバーを見て、ティカは首を傾げた。
「オリバーは、明日からどうするの?」
「しばらくパージでのんびりするよ。一年ぶりの陸暮らしだぜ。仕事もないし、休暇を満喫しなくちゃ」
「そうだね」
「ティカはキャプテンの別荘にいくんだよね」
「うん!」
 オリバーは神妙な顔つきになり、ティカの肩をぽんぽん叩いた。
「何?」
「いや、とうとう大人になるんだなと思って」
「もうすぐ十六歳になるよ! オリバーに追いついたぞ!」
 嬉しくてたまらないというように、会心の笑みを浮かべるティカを見て、セーファスは慈母のようにほほえんだ。
「うんうん、ティカはそのままでいてくれよな」
「うん?」
「うんうん、楽しんでこいよな」
 奇妙なほほえみでセーファスはいった。ティカは不得要領に頷きながら、そういえば、と思いつきを口にした。
「皆は競売会にくるの?」
「ああ、いくよ。荷運びや警備を手伝いに。他の船員も呼ばれてるみたいだぜ」
「そっか!」
 ティカは嬉しそうにいったあとで、別の疑問を口にした。
「ヘルジャッジ号のお宝は、高く売れるかな?」
「当然。クライ・エメラルドは、今回の目玉商品の一つだぜ」
 アラディンは自信たっぷりにいった。
「そうなの? 誰か買ってくれるかな?」
「買うに決まっているさ。エメラルドは古くから権力者に愛されてきた石だしな」
 マクシムの言葉に、ティカは深く頷いた。
「うちと張るお宝は、アダム・バッスクール公爵くらいかもな。ここだけの話、すごいお宝が登場するらしいぜ」
 アラディンが内緒話をするように身を屈めると、兄弟たちは顔を寄せ合った。彼はもったいつけた間を置いて、
「聞いて驚け……精霊界ハーレイスフィアの人魚が競売にかけられるらしい」
 周囲に聞こえぬよう小声で囁いた。
「にんっ、もが!」
 頓狂な声をあげるティカの口を、アラディンがすかさず手でふさいだ。
「しっ! ……そう、人魚。精霊界の伝説の精霊さ」
「本当に?」
 ティカは声を落として訊き返した。
「ああ……知り合いの運び屋から直接聞いたんだ。重厚な木箱に入ったそれを、荷積みする際にちらっと見たんだと。やたら重いと思ったら、水槽には海水がたっぷり入っていて、尾ひれをもつ人魚がいたらしい」
「え……人魚を売るの?」
 顔をしかめるティカの頭を、ブラッドレイはぽんぽんと叩いた。
「人間は欲深いから、悪辣な商売が跋扈ばっこするのさ。人魚と聞いて、是が非でも欲しがる金持ちが、わんさかいるだろうな」
 深刻な顔つきになるティカの肩を、オリバーは元気づけるように叩いた。
「真に受けるなよ。いつもの酔っ払いの冗談さ」
 ブラッドレイはオリバーを小突いた。
「お前最近、生意気だぞ」
「うるせー、耳に触るな! ……って、そろそろ時間じゃん。送っていくよ、ティカ」
「アイ……」
 ティカが席を立つと、他の兄弟も席を立った。
「あれ、皆もいくの?」
 ティカは不思議そうにいった。兄弟たちは肩をすくめてみせる。カルタ・コラッロの件で懲りたのか、全員でティカを送っていくつもりらしい。
「ありがとう」
 少々照れ臭かったが、ティカは嬉しかった。
「酔い覚ましに、ちょうどいいしな」
 皆を代表するかのように、マクシムがにやりと笑っていった。
 店をでると、心地いい風が吹いていた。
 ティカたちは夜の匂いを吸いこみながら、淡い月の光と影に目を慣らした。海沿いからきた雲が、月の光をうけて銀白色に輝いている。
 ホテルにいく間も笑いは途絶えず、陽気に会話をしながらのんびり歩いた。
 やがてプラナタスの並木道の奥に、大きな菩提樹から覗くホテルの看板が見えると、オリバーが感心したようにいった。
「流石キャプテン、王都でも一番のホテルだぜ。きっと部屋も凄いんだろうな」
 ティカもこれほど大きな建物に入るのは初めてのことで、玄関前に着くと気圧されてしまった。扉の前に立つ従業員が恭しくお辞儀をするので、思わず後ずさり、兄弟から笑われた。
「何びびってるんだよ。今夜はここに泊まるんだろ?」
 セーファスに背中をおされ、ティカは恐る恐る扉に近づいた。なかへ入る前に振り向くと、
「またな、ティカ!」
 オリバーが笑顔でいった。
「出港する時は見送りにいくぜ。またな!」
 ブラッドレイや他の兄弟も、別れの挨拶を口にして手をあげてみせた。
「皆、今夜はありがとう、楽しかった! またね!」
 ティカも大きく手を振り返し、意を決してなかへ入った。
 広々とした玄関広間は、眩く、贅を凝らした別世界だ。内装は瀟洒で、宿泊している客までもが洗練されている。
 受付でしどろもどろに鍵を受け取ったティカは、逃げるようにしてエレベータに乗りこんだ。