メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -
14章:帰郷 - 5 -
時は八時間ほど遡 る。
波止場で解散したあと、ヴィヴィアンとシルヴィー、そしてユヴェールの三人はパージ・トゥラン城へ向かった。
車窓をのぞけば、遠くからでも木々や建物の合間から、白壁の尖塔が見てとれる。
内港からほど近い場所にある王宮は、白亜に輝く壮麗な宮殿である。ガロの権威の象徴でもあるが、ヴィヴィアンにとっては、子供時代を過ごした我が家でもある。
正門に入ると、目の前に広がる庭園の光景に、懐かしい子供時代の記憶が脳裡をよぎった。
(ここは変わらないな)
海軍寄宿学校へ入ったあとは、怒涛の展開で無限海へ飛びだしたが、育った場所を忘れたことは一度もない。
感慨深い思いに浸っていると、車は玄関前に到着した。外から恭しく扉が開かれる。眩しい陽射しを手で遮りながら、ヴィヴィアンは車を降りた。
礼装姿の兵士が左右に列をなして、無限海の英雄たちを出迎えた。彼等の中心にいる二人の兄を見て、ヴィヴィアンは表情を綻ばせた。
「久しぶりだな、リヴ!」
長兄のアルトゥルが朗らかにいった。
「お帰り、リヴ」
続いて次兄のエリアーシュが優しくいった。
二人ともすらりと長身で、見目麗しいこの国の王子である。皇太子のアルトゥルは濃い金髪に明るい碧眼の持ち主で、国王譲りの明朗快活で寛容な性格をしている。一方の宰相補佐を務めるエリアーシュは、艶のある長いアッシュブロンドに、王妃譲りの印象的な灰紫の瞳をしている。柔和な物腰に繊細な外貌をしているが、冷静且 つ思慮深い、光彩陸離たる為政者である。
「久しぶり、兄さんたち。元気そうだね」
気さくに挨拶をするヴィヴィアンを、二人の兄は目を細めて見つめた。その暖かな視線から、彼等が、破天荒で天稟 の海賊である弟を愛していることがうかがえた。
挨拶を交わしている間にも、正門には続々と車が入ってくる。ヴィヴィアンは荷台の扉を開けると、さあどうぞというような身振りで、兄王子たちを傍へ呼んだ。
二人の王子はなかを覗きこんで唖然となり、次に笑顔になった。
「リヴ、今度も豊作だな! おかげで国庫が潤うぞ」
アルトゥルは上機嫌でいった。
「感謝しますよ。よくこれだけ集められましたね」
エリアーシュは、ユヴェールから受け取った一覧書に目を走らせ、感心せずにはいられなかった。貴重な貿易の品々、金銀の総額は、今期におけるどの私掠船 よりも高額なものだった。
「あっちは金銀、それからあっちは骨董だよ。この荷台には、美味しいウィスキーもあるから、ぜひ飲んでみて」
アルトゥルの瞳が輝いた。彼は大変なウィスキー愛好家なのである。忽 ち興味津々といった様子になり、顎に手をやり、外来産の酒瓶を吟味し始めた。
ヴィヴィアンが兄王子たちに受け入れられている光景を、シルヴィーとユヴェールは感慨深く見守っていた。船上では、時に滅茶苦茶な要求を連発する船長だが、彼は正真正銘、この大国の第三王子なのである。
宝のお披露目を終えると、アルトゥルは自分の書斎にヴィヴィアンたちを招きいれた。
紫檀 の机には、幾つもの海図が広げられている。シルヴィーは、手にしていた細長い筒をアルトゥルに渡した。
「これをどうぞ。私の作成したロアノス領海の海図です」
「ありがたい!」
アルトゥルは顔を輝かせた。ロアノス海軍の長である彼にとって、シルヴィーの作成した海図というのは、金塊にも匹敵する価値があるのだった。
「以前との大きな変更点は、星明りの島の正確な位置が書き足されたことです。それからブルーホールの地形についても、細かく数字をとったので書き足してあります」
アルトゥルとエリアーシュは海図をとくと眺め、賛嘆の声を漏らした。シルヴィーが新たに作成した、ロアノス領域からダリヤ領域に至る広範囲な海図は、非常に精巧につくられていた。
「よくこれだけ緻密な海図を引けましたね」
傍で見ていたユヴェールが感心するようにいうと、シルヴィーは嬉しそうな様子になった。
「航海の合間に、古くなった図面を引き直したんだ。一年の航海で、東海には大分詳しくなったぞ」
彼は水路測量や海図の作成が大好きで、強力な台風、熱帯低気圧、無限幻海の海を分かつ超常現象――様々な危険に巻きこまれた時も、仕事を楽しんでいた。
「シルヴィー。貴方は、私の知る限り最高の一等航海士ですよ」
顔をあげたエリアーシュは、心のこもった声で最大限の賛辞を贈った。クールな航海士は思わず笑顔になり、
「ありがとうございます、エリアーシュ殿下」
恭しく会釈をした。
「ありがとう。海図はあとでじっくり眺めさせてもらおう」
そういうと、アルトゥルはにこやかな笑みを消し、厳しい眼差しをヴィヴィアンに向けた。
「晩餐の前にしておきたい話がある」
そういって彼は、テーブルの上に別のロアノス領海から西域に及ぶ海図を広げた。
「海賊の取り締まりについて聞いているか? 近く、各国が集結して、大規模な一斉粛清が行われようとしている」
アルトゥルの言葉に、ヴィヴィアンは肩をすくめてみせた。
「今に始まった話でもないでしょ。海賊と海軍の鼬ごっこは、毎日どこかの海で起きているんだから」
「いや、今回は例外だ。今までとは規模が違う。ビスメイルが極秘裏に各国に呼びかけ、資金をスナプラ島に運び入れようとしている」
その話は聞いていたので、ヴィヴィアンは大して驚かなかった。
「噂なら聞いているよ。海底電信を拾える船なら、皆、掴んでいるんじゃないかな」
「その噂は意図的に流されている可能性が高い」
ヴィヴィアンは首を横に振って微笑した。
「海賊たちを金塊でおびき寄せて、粛清するって? 有象無象の悪魔をおびき寄せて、返り討ちにあわないといいけれどね」
「真面目に聞いてくれ」
「いやぁ、だって輝ける黄金大航海時代だよ? どの国も海賊業で富を得ているんだから、綺麗ごとを謳っていても、本音では取り締まりたくないはずだよね」
いいえ、とエリアーシュが口を挟んだ。彼は声の調子を落として、こう続けた。
「無限海の勢力が書き換わるとなれば、話は別ですよ。これは極秘ですが、ビスメイルが生物兵器を開発しているという情報を掴んでいます」
予想外な言葉にヴィヴィアンは目を瞬いた。シルヴィーを見れば、彼も困惑した表情を浮かべている。
沈黙する面々を見回し、アルトゥルは言葉を発した。
「ビスメイルに加担しているのは、オーディルニティという隠密組織だ。知っているか?」
ヴィヴィアンは訝しげな表情になり、腕を組んだ。
「オーディルニティって、五百年前に教会に粛清された黒魔術集団だよね? 全員処刑されたんじゃなかった?」
「全員ではなかったということだ。生き残った者たちが危険な思想のもとに再び集 い、秘密の組織を結成した。そうして命の錬金術により殺戮生物兵器を生みだし、ビスメイルに供給している」
「胡散臭いなぁ。何その陰謀論」
「これは最重要機密だが、三年前から部下をオーディルニティに送りこんでいてな。組織には鉄の戒律があり、探るのは容易ではないが、七日前に情報が入った。それが“無限海の夜明け”作戦だ」
「つまり、海賊の粛清ってこと?」
アルトゥルは頷いた。
「陛下はなんておっしゃっているの? ビスメイルへの対抗策は?」
ヴィヴィアンが訊ねると、アルトゥルは確認するようにエリアーシュと視線を交わした。
「陛下の命令で、七日前にスナプラ島に巡視艦を送ったところだ。年が明けたら開戦するかもしれない。その時は、私も指揮を執ることになるだろう」
「物騒だなぁ……休暇が明けたら、西海にいこうと思っていたんだけど」
「十分に気をつけてくれ。余所の海域でビスメイルに捕まったら、私も容易には助けてやれないからな」
アルトゥルは真剣な表情で念を押すようにいったが、ヴィヴィアンは不敵に笑った。
「そう簡単にやられはしないよ。情報をありがとう、調べてみる」
アルトゥルは、釘をさしたい気持ちをこらえて、黙って頷くにとどめた。
「……なぁ、リヴ。お前に指揮を頼んでもいいだろうか?」
ヴィヴィアンは困った顔になり、シルヴィーとユヴェールと目線を交わした。再びアルトゥルに視線を戻すと、真面目な顔でこういった。
「約束はできないよ。時期が合えば協力はしてもいいけど、艦隊の指揮は御免だ。俺たちは、航海も海戦も自由気儘にやらせてもらう」
弟の性格を熟知しているアルトゥルは、苦笑を浮かべた。
「そういうと思った。まぁ、答えはすぐでなくてもいい。休暇の間に、考えておいてくれ」
「……了解」
ヴィヴィアンは気のない返事で答えた。
会話に区切りがつき、部屋に沈黙が落ちる。彼は黄昏れゆく空を見て席を立った。
「さて、そろそろ晩餐の時間だ。海上の冒険譚を聞かせてくれ」
晩餐にはガロ国王と王妃もやってきた。兄王子も席につき、豪勢な顔ぶれが並んだが、ヴィヴィアンにしてみれば家族の食卓である。
今夜は格式張ったものではなく、限られた友人しか招かれていない。小規模な晩餐ながら、王宮料理人は腕によりをかけて、パージの旬の季節料理をふるまった。
人々は料理に舌鼓を打ちながら、ヴィヴィアンが面白おかしく聞かせる航海の波乱万丈に夢中になった。
ヘルジャッジ号の一年にも渡る航海ともなれば、話題に尽きることはない。胸をときめかせる冒険譚に、彼らは何度も驚嘆と笑い声をあげた。
晩餐のあと、国王や王妃自らヴィヴィアンたちに宿泊を勧めたが、彼等は丁重に断った。兄たちは残念そうにしながらも、正面玄関まで見送りにやってきた。
「リヴ、アプリティカにいっても警備を怠るなよ。競売会は各国の注目を集めている。色々な人間が出入りすることを忘れるな」
アルトゥルの言葉に、ヴィヴィアンは苦笑を浮かべた。城へきてから、何度目の忠告になるだろう? 彼の心配性は相変わらずだ。
「判っているよ、アル。俺はどこへいっても、人気者だからね」
「競売会が始まるまで、パージにいたらいいのに」
エリアーシュは残念そうにいった。ヴィヴィアンはすまなそうに微笑し、
「それも考えたんだけど、やっぱり船のことが気になるし、向こうで調べたいこともあるから、予定通りアプリティカにいくよ」
「そうかい?」
エリアーシュは残念そうにしつつ、ヴィヴィアンの意志を尊重して頷いた。エリアーシュもアルトゥルも、末の弟が王子という肩書では収まりきらぬ大航海時代の寵児であることを、今ではよく理解していた。
「ありがとう、エリー。競売会が終ってひと段落したら、折を見て遊びにくるよ」
「ぜひそうして。いつでも歓迎するよ、今度はティカ君もつれてくるといい」
晩餐の席で、ヴィヴィアンがたっぷり話して聞かせたので、彼らはティカを身近な存在として認識し、会って話してみたいという思いを掻き立てられていた。
暖かい笑みを浮かべる兄たちに、ヴィヴィアンも親愛のこもった笑みを返した。
「そうさせてもらうよ。元気でね、二人とも」
二人の兄はしばし玄関に留まり、車が門をでていくまで見送った。
車が往来にでると、ヴィヴィアンはシルヴィーたちに訊ねた。
「アルの話をどう思った?」
シルヴィーは腕を組み、長い溜息をついた。
「海賊の粛清に関してなら、無視はできないな。調べてみるべきだろう。ちょうど陸の上にいることだし」
彼は少し疲れた声でいった。入港準備のために、陽が昇るより早く起きて仕事をしていたので、無理もない。
「ビスメイルが本腰を入れて仕掛けてきたのか……だとしたら、数千規模の海賊が粛清される可能性もあるね」
「情報は集める。だが、先ずは競売会に集中しよう。苦労して宝を手に入れても、資金に変えるまでは油断できないぞ」
ヴィヴィアンは賛同の拍手を送った。
「シルヴィーのいう通りだ。ユヴェール、アプリティカの顧客リストを手に入れられる?」
「やってみましょう」
ユヴェールは頷いた。
「パージで仕事が片付いたら、俺たちもアプリティカへいく」
シルヴィーの言葉に、ヴィヴィアンは笑顔になった。
「ああ、待っているよ」
間もなくホテルの前に着くと、三人とも下りた。同じホテルに宿泊しているのである。エレベーターで最上階にあがり、それぞれの部屋へ入っていこうとした時、ユヴェールの部屋から、いつもの青い制服を纏ったプリシラとジゼルが現れた。
「お帰りなさい、いかがでしたか?」
プリシラは穏やかな声でいった。彼女が手にしている鞄を見て、ヴィヴィアンはぴんときた。ティカの件で、幸福館への遣いを頼んでおいたのである。
「ただいま。万事順調だよ、色々と有益な情報を聞けた。そっちはどうだった?」
「こちらも順調です。ティカさんの受け取り手続き書に、院長の署名をいただいてきました」
プリシラは鞄を開けると、クリップで留められた数枚の書類をとりだし、ヴィヴィアンに渡した。
「ありがとう、どんな様子だった?」
「資金援助の申し入れを、とても喜んでいましたよ。ティカさんの話も始終和やかに終わりました。サーシャさんのお墓はこちらにあるそうです」
プリシラの肩に手を回して、ジゼルは悪戯っぽく笑った。
「園長は強欲ばばぁですよ。小切手の金額を見た途端に、目の色を変えたんですから」
ユヴェールはジゼルをたしなめるように見つめた。
「言葉が悪いですよ、ジゼル。せっかくの魅力が台無しですからね」
「ごめんなさい、ボス。深夜残業をしないで休んでくれたら、すぐにいい子になります」
やりとりを見ていたシルヴィーはにやりと笑い、ヴィヴィアンもくすっと笑った。二人とも、ユヴェールが遅くまで仕事をするのをやめないことも、ジゼルが汚い言葉遣いをやめないことも知っていた。
ヴィヴィアンは受け取った紙面を手で叩き、彼女たちに笑みかけた。
「手間をかけたね。仕事が早くて助かるよ」
プリシラはほほえんだ。
「アイ、キャプテン。お役に立てたなら光栄です」
「ありがとう。ティカと一緒にいってみるよ」
「ティカ、きっと喜ぶね」
ジゼルが笑っていうと、プリシラもユヴェールも優しい微笑を浮かべて頷いた。
「これで書面上でも、ティカは正式にヘルジャッジ号の一員だな。おめでとうと伝えておいてくれ」
シルヴィーの言葉にヴィヴィアンが頷くと、ユヴェールも私からもお願いします、と添えた。それから、プリシラとジゼルと共に同じ部屋に入った。
「……あいつら、船を降りても同じ部屋に泊まるのか」
シルヴィーは呟くようにいった。ヴィヴィアンは肩をすくめて、
「一人ずつフロアを貸切る贅沢もできるけど、もはや染みついた習慣なんだろうね」
「同郷の絆か。どこへいっても一心同体だな……さて、俺も寝るとしよう。今日は疲れた」
長い一日を終えて、シルヴィーは欠伸をかみ殺した。
「ありがとう、よく休んでくれ」
「ああ、また明日」
部屋にシルヴィーが消えたあと、ヴィヴィアンもティカの待つ部屋に向かって歩き始めた。
波止場で解散したあと、ヴィヴィアンとシルヴィー、そしてユヴェールの三人はパージ・トゥラン城へ向かった。
車窓をのぞけば、遠くからでも木々や建物の合間から、白壁の尖塔が見てとれる。
内港からほど近い場所にある王宮は、白亜に輝く壮麗な宮殿である。ガロの権威の象徴でもあるが、ヴィヴィアンにとっては、子供時代を過ごした我が家でもある。
正門に入ると、目の前に広がる庭園の光景に、懐かしい子供時代の記憶が脳裡をよぎった。
(ここは変わらないな)
海軍寄宿学校へ入ったあとは、怒涛の展開で無限海へ飛びだしたが、育った場所を忘れたことは一度もない。
感慨深い思いに浸っていると、車は玄関前に到着した。外から恭しく扉が開かれる。眩しい陽射しを手で遮りながら、ヴィヴィアンは車を降りた。
礼装姿の兵士が左右に列をなして、無限海の英雄たちを出迎えた。彼等の中心にいる二人の兄を見て、ヴィヴィアンは表情を綻ばせた。
「久しぶりだな、リヴ!」
長兄のアルトゥルが朗らかにいった。
「お帰り、リヴ」
続いて次兄のエリアーシュが優しくいった。
二人ともすらりと長身で、見目麗しいこの国の王子である。皇太子のアルトゥルは濃い金髪に明るい碧眼の持ち主で、国王譲りの明朗快活で寛容な性格をしている。一方の宰相補佐を務めるエリアーシュは、艶のある長いアッシュブロンドに、王妃譲りの印象的な灰紫の瞳をしている。柔和な物腰に繊細な外貌をしているが、冷静
「久しぶり、兄さんたち。元気そうだね」
気さくに挨拶をするヴィヴィアンを、二人の兄は目を細めて見つめた。その暖かな視線から、彼等が、破天荒で
挨拶を交わしている間にも、正門には続々と車が入ってくる。ヴィヴィアンは荷台の扉を開けると、さあどうぞというような身振りで、兄王子たちを傍へ呼んだ。
二人の王子はなかを覗きこんで唖然となり、次に笑顔になった。
「リヴ、今度も豊作だな! おかげで国庫が潤うぞ」
アルトゥルは上機嫌でいった。
「感謝しますよ。よくこれだけ集められましたね」
エリアーシュは、ユヴェールから受け取った一覧書に目を走らせ、感心せずにはいられなかった。貴重な貿易の品々、金銀の総額は、今期におけるどの
「あっちは金銀、それからあっちは骨董だよ。この荷台には、美味しいウィスキーもあるから、ぜひ飲んでみて」
アルトゥルの瞳が輝いた。彼は大変なウィスキー愛好家なのである。
ヴィヴィアンが兄王子たちに受け入れられている光景を、シルヴィーとユヴェールは感慨深く見守っていた。船上では、時に滅茶苦茶な要求を連発する船長だが、彼は正真正銘、この大国の第三王子なのである。
宝のお披露目を終えると、アルトゥルは自分の書斎にヴィヴィアンたちを招きいれた。
「これをどうぞ。私の作成したロアノス領海の海図です」
「ありがたい!」
アルトゥルは顔を輝かせた。ロアノス海軍の長である彼にとって、シルヴィーの作成した海図というのは、金塊にも匹敵する価値があるのだった。
「以前との大きな変更点は、星明りの島の正確な位置が書き足されたことです。それからブルーホールの地形についても、細かく数字をとったので書き足してあります」
アルトゥルとエリアーシュは海図をとくと眺め、賛嘆の声を漏らした。シルヴィーが新たに作成した、ロアノス領域からダリヤ領域に至る広範囲な海図は、非常に精巧につくられていた。
「よくこれだけ緻密な海図を引けましたね」
傍で見ていたユヴェールが感心するようにいうと、シルヴィーは嬉しそうな様子になった。
「航海の合間に、古くなった図面を引き直したんだ。一年の航海で、東海には大分詳しくなったぞ」
彼は水路測量や海図の作成が大好きで、強力な台風、熱帯低気圧、無限幻海の海を分かつ超常現象――様々な危険に巻きこまれた時も、仕事を楽しんでいた。
「シルヴィー。貴方は、私の知る限り最高の一等航海士ですよ」
顔をあげたエリアーシュは、心のこもった声で最大限の賛辞を贈った。クールな航海士は思わず笑顔になり、
「ありがとうございます、エリアーシュ殿下」
恭しく会釈をした。
「ありがとう。海図はあとでじっくり眺めさせてもらおう」
そういうと、アルトゥルはにこやかな笑みを消し、厳しい眼差しをヴィヴィアンに向けた。
「晩餐の前にしておきたい話がある」
そういって彼は、テーブルの上に別のロアノス領海から西域に及ぶ海図を広げた。
「海賊の取り締まりについて聞いているか? 近く、各国が集結して、大規模な一斉粛清が行われようとしている」
アルトゥルの言葉に、ヴィヴィアンは肩をすくめてみせた。
「今に始まった話でもないでしょ。海賊と海軍の鼬ごっこは、毎日どこかの海で起きているんだから」
「いや、今回は例外だ。今までとは規模が違う。ビスメイルが極秘裏に各国に呼びかけ、資金をスナプラ島に運び入れようとしている」
その話は聞いていたので、ヴィヴィアンは大して驚かなかった。
「噂なら聞いているよ。海底電信を拾える船なら、皆、掴んでいるんじゃないかな」
「その噂は意図的に流されている可能性が高い」
ヴィヴィアンは首を横に振って微笑した。
「海賊たちを金塊でおびき寄せて、粛清するって? 有象無象の悪魔をおびき寄せて、返り討ちにあわないといいけれどね」
「真面目に聞いてくれ」
「いやぁ、だって輝ける黄金大航海時代だよ? どの国も海賊業で富を得ているんだから、綺麗ごとを謳っていても、本音では取り締まりたくないはずだよね」
いいえ、とエリアーシュが口を挟んだ。彼は声の調子を落として、こう続けた。
「無限海の勢力が書き換わるとなれば、話は別ですよ。これは極秘ですが、ビスメイルが生物兵器を開発しているという情報を掴んでいます」
予想外な言葉にヴィヴィアンは目を瞬いた。シルヴィーを見れば、彼も困惑した表情を浮かべている。
沈黙する面々を見回し、アルトゥルは言葉を発した。
「ビスメイルに加担しているのは、オーディルニティという隠密組織だ。知っているか?」
ヴィヴィアンは訝しげな表情になり、腕を組んだ。
「オーディルニティって、五百年前に教会に粛清された黒魔術集団だよね? 全員処刑されたんじゃなかった?」
「全員ではなかったということだ。生き残った者たちが危険な思想のもとに再び
「胡散臭いなぁ。何その陰謀論」
「これは最重要機密だが、三年前から部下をオーディルニティに送りこんでいてな。組織には鉄の戒律があり、探るのは容易ではないが、七日前に情報が入った。それが“無限海の夜明け”作戦だ」
「つまり、海賊の粛清ってこと?」
アルトゥルは頷いた。
「陛下はなんておっしゃっているの? ビスメイルへの対抗策は?」
ヴィヴィアンが訊ねると、アルトゥルは確認するようにエリアーシュと視線を交わした。
「陛下の命令で、七日前にスナプラ島に巡視艦を送ったところだ。年が明けたら開戦するかもしれない。その時は、私も指揮を執ることになるだろう」
「物騒だなぁ……休暇が明けたら、西海にいこうと思っていたんだけど」
「十分に気をつけてくれ。余所の海域でビスメイルに捕まったら、私も容易には助けてやれないからな」
アルトゥルは真剣な表情で念を押すようにいったが、ヴィヴィアンは不敵に笑った。
「そう簡単にやられはしないよ。情報をありがとう、調べてみる」
アルトゥルは、釘をさしたい気持ちをこらえて、黙って頷くにとどめた。
「……なぁ、リヴ。お前に指揮を頼んでもいいだろうか?」
ヴィヴィアンは困った顔になり、シルヴィーとユヴェールと目線を交わした。再びアルトゥルに視線を戻すと、真面目な顔でこういった。
「約束はできないよ。時期が合えば協力はしてもいいけど、艦隊の指揮は御免だ。俺たちは、航海も海戦も自由気儘にやらせてもらう」
弟の性格を熟知しているアルトゥルは、苦笑を浮かべた。
「そういうと思った。まぁ、答えはすぐでなくてもいい。休暇の間に、考えておいてくれ」
「……了解」
ヴィヴィアンは気のない返事で答えた。
会話に区切りがつき、部屋に沈黙が落ちる。彼は黄昏れゆく空を見て席を立った。
「さて、そろそろ晩餐の時間だ。海上の冒険譚を聞かせてくれ」
晩餐にはガロ国王と王妃もやってきた。兄王子も席につき、豪勢な顔ぶれが並んだが、ヴィヴィアンにしてみれば家族の食卓である。
今夜は格式張ったものではなく、限られた友人しか招かれていない。小規模な晩餐ながら、王宮料理人は腕によりをかけて、パージの旬の季節料理をふるまった。
人々は料理に舌鼓を打ちながら、ヴィヴィアンが面白おかしく聞かせる航海の波乱万丈に夢中になった。
ヘルジャッジ号の一年にも渡る航海ともなれば、話題に尽きることはない。胸をときめかせる冒険譚に、彼らは何度も驚嘆と笑い声をあげた。
晩餐のあと、国王や王妃自らヴィヴィアンたちに宿泊を勧めたが、彼等は丁重に断った。兄たちは残念そうにしながらも、正面玄関まで見送りにやってきた。
「リヴ、アプリティカにいっても警備を怠るなよ。競売会は各国の注目を集めている。色々な人間が出入りすることを忘れるな」
アルトゥルの言葉に、ヴィヴィアンは苦笑を浮かべた。城へきてから、何度目の忠告になるだろう? 彼の心配性は相変わらずだ。
「判っているよ、アル。俺はどこへいっても、人気者だからね」
「競売会が始まるまで、パージにいたらいいのに」
エリアーシュは残念そうにいった。ヴィヴィアンはすまなそうに微笑し、
「それも考えたんだけど、やっぱり船のことが気になるし、向こうで調べたいこともあるから、予定通りアプリティカにいくよ」
「そうかい?」
エリアーシュは残念そうにしつつ、ヴィヴィアンの意志を尊重して頷いた。エリアーシュもアルトゥルも、末の弟が王子という肩書では収まりきらぬ大航海時代の寵児であることを、今ではよく理解していた。
「ありがとう、エリー。競売会が終ってひと段落したら、折を見て遊びにくるよ」
「ぜひそうして。いつでも歓迎するよ、今度はティカ君もつれてくるといい」
晩餐の席で、ヴィヴィアンがたっぷり話して聞かせたので、彼らはティカを身近な存在として認識し、会って話してみたいという思いを掻き立てられていた。
暖かい笑みを浮かべる兄たちに、ヴィヴィアンも親愛のこもった笑みを返した。
「そうさせてもらうよ。元気でね、二人とも」
二人の兄はしばし玄関に留まり、車が門をでていくまで見送った。
車が往来にでると、ヴィヴィアンはシルヴィーたちに訊ねた。
「アルの話をどう思った?」
シルヴィーは腕を組み、長い溜息をついた。
「海賊の粛清に関してなら、無視はできないな。調べてみるべきだろう。ちょうど陸の上にいることだし」
彼は少し疲れた声でいった。入港準備のために、陽が昇るより早く起きて仕事をしていたので、無理もない。
「ビスメイルが本腰を入れて仕掛けてきたのか……だとしたら、数千規模の海賊が粛清される可能性もあるね」
「情報は集める。だが、先ずは競売会に集中しよう。苦労して宝を手に入れても、資金に変えるまでは油断できないぞ」
ヴィヴィアンは賛同の拍手を送った。
「シルヴィーのいう通りだ。ユヴェール、アプリティカの顧客リストを手に入れられる?」
「やってみましょう」
ユヴェールは頷いた。
「パージで仕事が片付いたら、俺たちもアプリティカへいく」
シルヴィーの言葉に、ヴィヴィアンは笑顔になった。
「ああ、待っているよ」
間もなくホテルの前に着くと、三人とも下りた。同じホテルに宿泊しているのである。エレベーターで最上階にあがり、それぞれの部屋へ入っていこうとした時、ユヴェールの部屋から、いつもの青い制服を纏ったプリシラとジゼルが現れた。
「お帰りなさい、いかがでしたか?」
プリシラは穏やかな声でいった。彼女が手にしている鞄を見て、ヴィヴィアンはぴんときた。ティカの件で、幸福館への遣いを頼んでおいたのである。
「ただいま。万事順調だよ、色々と有益な情報を聞けた。そっちはどうだった?」
「こちらも順調です。ティカさんの受け取り手続き書に、院長の署名をいただいてきました」
プリシラは鞄を開けると、クリップで留められた数枚の書類をとりだし、ヴィヴィアンに渡した。
「ありがとう、どんな様子だった?」
「資金援助の申し入れを、とても喜んでいましたよ。ティカさんの話も始終和やかに終わりました。サーシャさんのお墓はこちらにあるそうです」
プリシラの肩に手を回して、ジゼルは悪戯っぽく笑った。
「園長は強欲ばばぁですよ。小切手の金額を見た途端に、目の色を変えたんですから」
ユヴェールはジゼルをたしなめるように見つめた。
「言葉が悪いですよ、ジゼル。せっかくの魅力が台無しですからね」
「ごめんなさい、ボス。深夜残業をしないで休んでくれたら、すぐにいい子になります」
やりとりを見ていたシルヴィーはにやりと笑い、ヴィヴィアンもくすっと笑った。二人とも、ユヴェールが遅くまで仕事をするのをやめないことも、ジゼルが汚い言葉遣いをやめないことも知っていた。
ヴィヴィアンは受け取った紙面を手で叩き、彼女たちに笑みかけた。
「手間をかけたね。仕事が早くて助かるよ」
プリシラはほほえんだ。
「アイ、キャプテン。お役に立てたなら光栄です」
「ありがとう。ティカと一緒にいってみるよ」
「ティカ、きっと喜ぶね」
ジゼルが笑っていうと、プリシラもユヴェールも優しい微笑を浮かべて頷いた。
「これで書面上でも、ティカは正式にヘルジャッジ号の一員だな。おめでとうと伝えておいてくれ」
シルヴィーの言葉にヴィヴィアンが頷くと、ユヴェールも私からもお願いします、と添えた。それから、プリシラとジゼルと共に同じ部屋に入った。
「……あいつら、船を降りても同じ部屋に泊まるのか」
シルヴィーは呟くようにいった。ヴィヴィアンは肩をすくめて、
「一人ずつフロアを貸切る贅沢もできるけど、もはや染みついた習慣なんだろうね」
「同郷の絆か。どこへいっても一心同体だな……さて、俺も寝るとしよう。今日は疲れた」
長い一日を終えて、シルヴィーは欠伸をかみ殺した。
「ありがとう、よく休んでくれ」
「ああ、また明日」
部屋にシルヴィーが消えたあと、ヴィヴィアンもティカの待つ部屋に向かって歩き始めた。