メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -
12章:ブルーホール - 9 -
彼は貪欲で飢えていた。
とても冷酷なのだと、一目見てティカは悟った。アリーの言う通りだ。昏い漆黒の眼に、慈悲は宿っていない。彼こそは、容赦ない海の殺戮者 だ。
「ティカッ」
椰子 の木より遥かに太い腕が、ティカに向かって伸ばされる。無数の吸盤のついた恐ろしい、死の誘いに海がざわついた。
“止せっ”
岩壁や海底に張り付く貝達は怒り、小さな蝦達も抗議を喚いた。
淡い赤色の蟹達は、群舞のように壁から飛び上がり、深海イカの視界を塞がんとする。しかし、ものともせずに腕は伸ばされる!
心臓が恐ろしいほど動悸して、破裂してしまいそうだ。あらゆる声を耳にしながら、ティカの心に最も響いたのは、ヴィヴィアンの発する光と言葉であった。
“あの子を守れ”
死の腕に引きずり込まれるティカに向かって、金色の光に覆われたヴィヴィアンが真っ直ぐ飛び込んでくる。
彼は、いつでも迷わずにティカを追い駆けてくれる。
「ティカッ!」
古い古い、精霊界 に眠るエーテルの力を以てして、彼は深海イカの屈強な腕を引き千切った。
焦燥と恐怖のさなか、ティカは妙に冷静な心の片隅に思う――彼は本当に、何者なのだろう?
軟体の肉片を散らして、深海イカは悲鳴を上げる。腕に締めたティカを手放した。すかさずに、気泡と共に銃弾が水を貫く。サディールの援護射撃だ。
「ヴィーッ」
もがき、腕を掻いて、ティカは必死にヴィヴィアンに手を伸ばした。彼はその手を掴み、力強く引き上げる。
重たい深海が、二度、三度とうねった。
刹那、大きな歯鯨が三頭、弾丸のように深海を直進して、巨大な深海イカに敢然 と噛みついた!
なんという光景だろう。我が眼を疑う。
深海の王者対決だッ!!
不倶戴天 の天敵同士――針の如し丸い吸盤が、滑らかな鯨の肌に傷をつければ、今度は鯨が強力な顎で、絡みつく椰子のような腕に歯を立てる!
両者、驚くほど敏捷 な動きで渦巻く海流を引き起こし、深海に雷鳴を轟かせた。壮絶な攻防を繰り広げ、肉片を散らし、赤い血を流す。
深海の闘いの凄まじいことよ。とても近付けぬ!
三十メートルを優に超える巨体同士の戦闘に巻き込まれぬよう、ティカ達は壁の亀裂に身を潜め、固唾を呑んで戦況を見守った。
長い戦いの後に、引いたのは深海イカだ。
軍配は鯨に上がり、深海イカは巨大な水流を巻き上げ、暗闇へと消え去った。
海流が凪ぎ、ティカがそっと顔を覗かせると、とりわけ大きな歯鯨の、思慮深い眼差しと眼が合った。
彼の巨岩のような頭には、古いのから新しいのまで、幾つも傷痕がついていた。往年の戦士の証だ。
“ちぃせぇの……ティカ? ここは危険な軟体の怪物の棲家だ。危ねぇぞ”
「アイ……」
間近に見ると、ど迫力だ。今さっきの壮絶な死闘を見た後では、おいそれと近付けない。ティカがおどおどしていると、彼は小さく笑った。
“怖がらなくて、えぇよ。アルルシオは友達なんだ。俺は、カフリヤ……”
「アルルシオの」
ティカはほっと肩から力を抜いた。
『言葉が判るの?』
隣でヴィヴィアンは驚いたように、眼を瞠っている。ティカはメットの奥で頷いてみせた。
「彼はカフリヤ、友達の友達です」
“この海域には、仲間の滋養にきたんだ。向こうで休んでるから、困ったら呼ぶとええよ……”
「ありがとう!」
親切なカフリヤ達は、深海の奥へ消えてゆく。
彼等は、敵との戦いで傷ついた身体を、海底の亀裂から立ち昇る蒸気の泡で癒しにきたらしい。
海を伝い、遠い遠いアルルシオの声を聞いた。ティカを案じる声だ。優しい友達は、ティカの窮状を救うべく、歯鯨の友達に知らせてくれたのだ。
間一髪、ティカは彼等の音響探知能力の優秀さに救われたらしい。
「ありがとう、アルルシオ……」
感謝の気持ちを込めて、深海に囁く。様子を窺っているヴィヴィアンを振り返り、今さっき調べていた壁を指差した。
「キャプテン、彼等が見ていてくれる。今のうちに」
『そうしよう。さっきは、ティカに助けられたな』
壁面に沿って昇る前に、ヴィヴィアンはティカに笑みかけた。
予期せず褒められ、ティカは満面の笑みを浮かべた。彼に認められることが、何よりも嬉しい。
潜水の代償か、深海を泳ぎながら、ティカは抗いがたい眠気に襲われた。朦朧と垂れてくる瞼を、さっきから必死にこじ開けている。
微睡み、水中遊泳し始めるティカを見かねて、ヴィヴィアンは命綱を手繰り寄せ、近くの岩に引っかけた。
ふよふよ海月 のように漂うティカは、もはや何の役にも立っていない。優秀なサディールが手際よく採掘しているので、まぁ問題はなかった。
『……誰か、寝てないか?』
小さな寝息を拾い、音響機の奥からシルヴィーは訝しげに尋ねた。ティカは気付いていない。ヴィヴィアンとサディールは呆れつつ、忍び笑いを漏らした。
+
間もなく、潜水制限時間に達する。
無事にエメラルドの採掘を終えたヴィヴィアン達は、陽に照らされた海面を目指して浮上を始めた。
殆ど夢の中のいるティカの身体は、ヴィヴィアンが引っ張ってくれる。
ようやくヘルジャッジ号へ戻ってくると、ティカは安堵のあまり、潜水服を着たまま倒れそうになった。
兄弟達が手際よく脱ぐのを手伝ってくれる。身軽になったものの、手足のなんと重いことか。
疲労困憊。半睡状態で呆然自失していると、疲れているはずのヴィヴィアンはティカを横抱きにして船長室 へ運んでくれた。
「ヴィ……もう寝てもいい……?」
まともに喋れているか、自信がない。ヴィヴィアンはティカの頭を撫でると、額にキスを落とした。
「シャワーだけでも浴びよう」
「……」
面倒臭さを隠せずに無言になると、ヴィヴィアンは穏やかに微笑んだ。
「入れてあげるから」
不承不承に頷き、どうにか服を脱いで浴室へ入った。面倒だと思っていたが、熱い湯は疲れ切った身体を優しく癒してくれる。
殆ど半睡状態のティカを、ヴィヴィアンは優しく丁寧に洗い、湯船にも入れてくれた。
朦朧とした意識が戻った時には、凪いだ海のように心地いいベッドの上であった。
「お休み、ティカ……」
優しいキスが瞼の上に降る。
返事をする気力はなかった。今夜はもう、苦もなく眠りを貪らせてほしい。
重い瞼を閉じると、忽 ち深海へ潜水するように、深い眠りへと誘われていった……
とても冷酷なのだと、一目見てティカは悟った。アリーの言う通りだ。昏い漆黒の眼に、慈悲は宿っていない。彼こそは、容赦ない海の
「ティカッ」
“止せっ”
岩壁や海底に張り付く貝達は怒り、小さな蝦達も抗議を喚いた。
淡い赤色の蟹達は、群舞のように壁から飛び上がり、深海イカの視界を塞がんとする。しかし、ものともせずに腕は伸ばされる!
心臓が恐ろしいほど動悸して、破裂してしまいそうだ。あらゆる声を耳にしながら、ティカの心に最も響いたのは、ヴィヴィアンの発する光と言葉であった。
“あの子を守れ”
死の腕に引きずり込まれるティカに向かって、金色の光に覆われたヴィヴィアンが真っ直ぐ飛び込んでくる。
彼は、いつでも迷わずにティカを追い駆けてくれる。
「ティカッ!」
古い古い、
焦燥と恐怖のさなか、ティカは妙に冷静な心の片隅に思う――彼は本当に、何者なのだろう?
軟体の肉片を散らして、深海イカは悲鳴を上げる。腕に締めたティカを手放した。すかさずに、気泡と共に銃弾が水を貫く。サディールの援護射撃だ。
「ヴィーッ」
もがき、腕を掻いて、ティカは必死にヴィヴィアンに手を伸ばした。彼はその手を掴み、力強く引き上げる。
重たい深海が、二度、三度とうねった。
刹那、大きな歯鯨が三頭、弾丸のように深海を直進して、巨大な深海イカに
なんという光景だろう。我が眼を疑う。
深海の王者対決だッ!!
両者、驚くほど
深海の闘いの凄まじいことよ。とても近付けぬ!
三十メートルを優に超える巨体同士の戦闘に巻き込まれぬよう、ティカ達は壁の亀裂に身を潜め、固唾を呑んで戦況を見守った。
長い戦いの後に、引いたのは深海イカだ。
軍配は鯨に上がり、深海イカは巨大な水流を巻き上げ、暗闇へと消え去った。
海流が凪ぎ、ティカがそっと顔を覗かせると、とりわけ大きな歯鯨の、思慮深い眼差しと眼が合った。
彼の巨岩のような頭には、古いのから新しいのまで、幾つも傷痕がついていた。往年の戦士の証だ。
“ちぃせぇの……ティカ? ここは危険な軟体の怪物の棲家だ。危ねぇぞ”
「アイ……」
間近に見ると、ど迫力だ。今さっきの壮絶な死闘を見た後では、おいそれと近付けない。ティカがおどおどしていると、彼は小さく笑った。
“怖がらなくて、えぇよ。アルルシオは友達なんだ。俺は、カフリヤ……”
「アルルシオの」
ティカはほっと肩から力を抜いた。
『言葉が判るの?』
隣でヴィヴィアンは驚いたように、眼を瞠っている。ティカはメットの奥で頷いてみせた。
「彼はカフリヤ、友達の友達です」
“この海域には、仲間の滋養にきたんだ。向こうで休んでるから、困ったら呼ぶとええよ……”
「ありがとう!」
親切なカフリヤ達は、深海の奥へ消えてゆく。
彼等は、敵との戦いで傷ついた身体を、海底の亀裂から立ち昇る蒸気の泡で癒しにきたらしい。
海を伝い、遠い遠いアルルシオの声を聞いた。ティカを案じる声だ。優しい友達は、ティカの窮状を救うべく、歯鯨の友達に知らせてくれたのだ。
間一髪、ティカは彼等の音響探知能力の優秀さに救われたらしい。
「ありがとう、アルルシオ……」
感謝の気持ちを込めて、深海に囁く。様子を窺っているヴィヴィアンを振り返り、今さっき調べていた壁を指差した。
「キャプテン、彼等が見ていてくれる。今のうちに」
『そうしよう。さっきは、ティカに助けられたな』
壁面に沿って昇る前に、ヴィヴィアンはティカに笑みかけた。
予期せず褒められ、ティカは満面の笑みを浮かべた。彼に認められることが、何よりも嬉しい。
潜水の代償か、深海を泳ぎながら、ティカは抗いがたい眠気に襲われた。朦朧と垂れてくる瞼を、さっきから必死にこじ開けている。
微睡み、水中遊泳し始めるティカを見かねて、ヴィヴィアンは命綱を手繰り寄せ、近くの岩に引っかけた。
ふよふよ
『……誰か、寝てないか?』
小さな寝息を拾い、音響機の奥からシルヴィーは訝しげに尋ねた。ティカは気付いていない。ヴィヴィアンとサディールは呆れつつ、忍び笑いを漏らした。
+
間もなく、潜水制限時間に達する。
無事にエメラルドの採掘を終えたヴィヴィアン達は、陽に照らされた海面を目指して浮上を始めた。
殆ど夢の中のいるティカの身体は、ヴィヴィアンが引っ張ってくれる。
ようやくヘルジャッジ号へ戻ってくると、ティカは安堵のあまり、潜水服を着たまま倒れそうになった。
兄弟達が手際よく脱ぐのを手伝ってくれる。身軽になったものの、手足のなんと重いことか。
疲労困憊。半睡状態で呆然自失していると、疲れているはずのヴィヴィアンはティカを横抱きにして
「ヴィ……もう寝てもいい……?」
まともに喋れているか、自信がない。ヴィヴィアンはティカの頭を撫でると、額にキスを落とした。
「シャワーだけでも浴びよう」
「……」
面倒臭さを隠せずに無言になると、ヴィヴィアンは穏やかに微笑んだ。
「入れてあげるから」
不承不承に頷き、どうにか服を脱いで浴室へ入った。面倒だと思っていたが、熱い湯は疲れ切った身体を優しく癒してくれる。
殆ど半睡状態のティカを、ヴィヴィアンは優しく丁寧に洗い、湯船にも入れてくれた。
朦朧とした意識が戻った時には、凪いだ海のように心地いいベッドの上であった。
「お休み、ティカ……」
優しいキスが瞼の上に降る。
返事をする気力はなかった。今夜はもう、苦もなく眠りを貪らせてほしい。
重い瞼を閉じると、