メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

12章:ブルーホール - 10 -

 潜水から二日。
 ヘルジャッジ号はブルーホール沖合に錨泊びょうはくしたまま、甲板の小舟を一艘、この数日で少々薄汚れた男に与えようとしていた。
 訳も判らず、甲板に連れてこられた男――キャプテン・ロゲートは、処刑台に立つような顔でやってきたが、靄の立ち込める水平線の彼方を見て、眼を瞠った。

「あれは……」

 掠れた声で呟く男を見て、ヴィヴィアンはにやりと笑ってみせた。

「良かったじゃないか。部下が助けにきたらしい。キャプテンとしては、なかなか見所があるかもね」

 靄に隠れるおぼろな船影は、先日ヘルジャッジ号に敗れ、水平線へ消えた潜水艦だ。
 やがて、立ち込めていた朝靄が晴れると、その威容は鮮明になった。見通しの良い水平線の彼方に、海面まで浮上している潜水艦が見える。

「あいつら……」

 少々薄汚れた焦茶の髪の奥から、ロゲートは灰眼を潤ませて船影を眺めた。
 信じられぬものを見るような、呆然自失とした男の姿を、ティカは帆桁ヤードの上から見下ろしていた。
 甲板には上がってくるなと、ヴィヴィアンに言われているのだ。要は甲板に足がついていなければいいのだ……都合良く解釈したティカは、釈放の様子がどうしても気になり、先ほどからこうして帆桁に掴まり、こっそり様子を眺めている。

「アンタの無事を知らせる信号を、海中に向けて送っていたんだ。受信装置が壊れていなくて、命拾いしたな」

 皮肉げな光を灯した蒼氷色アイス・ブルーの瞳で、シルヴィーが淡々と告げると、ロゲートは眼を瞠った。

「……助けてくれるのか?」

「天に拾われた命だから、今回は見逃してあげる」

 気安い口調でヴィヴィアンは応じたが、甲板に立つ兄弟達は殺気立っている。敵意にたぎった眼を向けるカリンも然り。
 突き刺すような甲板の空気を感じながら、ロゲートは恩義を感じているように、深く頭を下げた。

「……すまねぇ」

「言っておくけど、次はないよ。海賊旗ジョリー・ロジャーを掲げてうちに挑むなら、その時は塵一つ残さず殲滅するから」

 優雅な笑みを浮かべながら、氷のような眼差しは欠片も笑っていない。脅しでもはったりでもなく、ヴィヴィアンは本気であった。

「アンタには、借りができちまった。返すまでは、次なんてねぇよ」

 男はぶっきらぼうに言い捨てると、何かを探すように視線を彷徨わせた。間もなく、帆桁に掴まるティカを見つけると、物言いたげな視線を向ける。
 甲板から咎めるような眼差しを向けるヴィヴィアンと眼が合い、ティカは慌てて顔を隠した。

「さっさと降りてくれる?」

 視線を断ち切るように、ヴィヴィアンが声をかけると、男は迷いながらも視線を戻した。

「ああ……」

 小舟にロゲートが乗ると、そのまま海面に下ろそうと、水夫が滑車を操る。
 突然、ヘルジャッジ号の進行方向、穏やかな海面に、騒々しい飛沫が上がった。穏やかならぬ敵の砲撃だ。

「おいおい、復讐にきたのかよ。死んじゃいないのに」

 舷側から様子を眺めていたロザリオは、呆れたように呟いた。たちまちロゲートは、顔に焦燥を浮かべる。
 舷側から両手を振って、慌てて叫ぶ。この様子には、ちらほら甲板から笑い声が上がった。

「やれやれ……もう一度、無事だって教えてやれ」

 面倒そうにシルヴィーは呟き、信号の合図を助手に指示する。
 向こうの船も甲板にロゲートの姿を見つけて、ようやく信じたようだ。望遠鏡で覗けば、キャプテンの無事を知り、甲板が賑わっている様子が窺える。
 喧嘩っ早く、荒っぽい男ではあるが、幸いにして、部下には慕われているらしい。
 ようやく男を乗せた小舟は、滑車で海面へと下ろされた。
 彼はかいを手に取り、沖合に向けて自ら漕ぎ始める。状況を見てとるや、彼の部下達も、慌てて小舟を向かわせている。
 彼等は、やがて海上で再会を果たした。
 艦は沖合に向けて水上を航行してゆく。先日の戦闘で、潜水に支障をきたしているのかもしれない。
 遠のく船影を、複雑な表情で見送る兄弟もいる。カリンも、ただ黙って拳を握りしめている。
 戦闘に倒れ伏した兄弟の葬儀は、明日行われる予定であった。