メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -
12章:ブルーホール - 8 -
光も届かぬ暗闇の中。
切り立った海底渓谷の奥を灯光器の光条が掠めた際、不気味な影を見た気がした。気のせいだろうか……
それとも、まさか、深海の水棲海獣 ?
ゆっくりと振り向き、ティカは恐る恐る光芒を当てた。
それは、大きな塊で、じっと息をひそめるように身動き一つしない。もしかしたら、鯨類の仲間だろうか……
正体を見極めんとティカは眼を細めたが、その巨影からは、海洋生物の発する声が聞こえなかった。物言わぬ、冷たい巨大な――彗星のように閃いた。
「船だ!」
『どうした、ティカ?』
突然の大声に、ヴィヴィアンもサディールも驚いたように傍へ寄ってきた。ティカは携帯光芒を手に取り、大きな影に光を当てた。
『岩場に引っかかって、沈まなかったのか』
完全に浸水した船は左舷に傾き、朽ち果てていた。船腹は鉄錆と苔で緑色に覆われており、過ぎ去りし時間の長さを物語っている。
『どうした、大丈夫か?』
船橋からシルヴィーが心配げに尋ねた。
『問題ない。難破船を見つけた』
帆柱 は全て折れ、横静索 も断ち切られている。ロープはもつれた髪のような有様だ。
驚くことに、操舵輪に手を掛ける船乗りの躯が、甲板に立っている!
落ち窪んだ眼光で、死してなお、航行不能な船を操っているというのか……
もはや藻屑の一部と化した、白骨化した躯の合間を、うねる深海魚が滑ってゆき、ティカの背筋はぞ……っと冷えた。
「どれくらい、昔なんだろう……」
『古い船型だから、一〇〇年くらい経っているかもしれないね』
「そんなに!? 彼は、どこを目指していたのだろう?」
よく見れば、甲板には他にも白骨化した躯が幾つか転がっていた。苔むし、海洋生物達の住処となった、船乗りの成れの果て……
『酸素が勿体ない。作業に集中しよう』
心を奪われて、船の状態をつぶさに観察していると、ヴィヴィアンの声に現実に引き戻された。
「アイ」
思いを断ち切るように、ティカは視線を戻した。最後に見た時、船尾に穿 たれた真鍮の板には“サンチェス号”と書かれていた。
サンチェス号の船乗り達が、アンフルラージュの御許に召されますように――
憐れな船の末路に心を奪われたティカであったが、その後も切り立った岩壁の合間や、暗黒洋 のような渓谷の奥に、幾つもの驚くべき残骸を見た。
朽ちた大砲や砲弾。
錆びた刃に、鎖や錨……数多の鋼の欠片達。
陶器の欠片や、貝達の住処と化した謎の木片。縄の片鱗。
それらの多くは、人間の争いの名残りであった。
この海域で、或いは遠く海流に運ばれてきた、戦争の残滓だ。
海底に沈みゆく船の藻屑を見やり、身の内に潜む矛盾を噛みしめた。
尊いものを愛でながら、同族で滅ぼし合う生き物――アルルシオの人間に対する見方は、そのままティカにも言えることだ。
どうして、魔法はティカを選んだのだろう……
愛するヴィヴィアンもまた、時に同族同士で血を流す海賊だ。それでもティカは、彼の傍に在りたい。彼の隣こそが、ティカにとっての楽園 だから。
埒もない思いに囚われていると、不意に海がざわついた。
熱水噴出孔の近くの絶壁に集まる、貝達が声を揃えて囁いた。
“くるよ……恐ろしい軟体の……くるよ”
「深海イカだ!」
『何?』
採掘作業に没頭していたヴィヴィアンとサディールは、手を止めると、ティカの元までやってきた。
『ヴィー、すごい早さで、他にも複数体きている。その場を離れろ!』
音声機の奥から、シルヴィーの鋭い声が聞こえた。
忽ち、静かな深海の海流が、不気味にうねる。
冷たい殺意が轟いた。
聞きしに勝る、深海イカの巨躯。その大きさたるや、視界に収まりきらぬ体長であった。
油断なく、ヴィヴィアンはティカを壁の切れ目に押し込むと、水中銃を手にサディールと向かってゆく。
しかし、相手は深海の殺戮者 。昏穴を恐怖に統べる巨躯に、鋼が効くものか!
深海イカの恐ろしい視線が、ヴィヴィアンに突き刺さる――
「駄目だ、ヴィーッ!」
たまらず、ティカは影から踊り出た。騒々しく水を掻くと、ぞっとするほど黒々とした、巨大な眼がティカを捉えた。
切り立った海底渓谷の奥を灯光器の光条が掠めた際、不気味な影を見た気がした。気のせいだろうか……
それとも、まさか、深海の
ゆっくりと振り向き、ティカは恐る恐る光芒を当てた。
それは、大きな塊で、じっと息をひそめるように身動き一つしない。もしかしたら、鯨類の仲間だろうか……
正体を見極めんとティカは眼を細めたが、その巨影からは、海洋生物の発する声が聞こえなかった。物言わぬ、冷たい巨大な――彗星のように閃いた。
「船だ!」
『どうした、ティカ?』
突然の大声に、ヴィヴィアンもサディールも驚いたように傍へ寄ってきた。ティカは携帯光芒を手に取り、大きな影に光を当てた。
『岩場に引っかかって、沈まなかったのか』
完全に浸水した船は左舷に傾き、朽ち果てていた。船腹は鉄錆と苔で緑色に覆われており、過ぎ去りし時間の長さを物語っている。
『どうした、大丈夫か?』
船橋からシルヴィーが心配げに尋ねた。
『問題ない。難破船を見つけた』
驚くことに、操舵輪に手を掛ける船乗りの躯が、甲板に立っている!
落ち窪んだ眼光で、死してなお、航行不能な船を操っているというのか……
もはや藻屑の一部と化した、白骨化した躯の合間を、うねる深海魚が滑ってゆき、ティカの背筋はぞ……っと冷えた。
「どれくらい、昔なんだろう……」
『古い船型だから、一〇〇年くらい経っているかもしれないね』
「そんなに!? 彼は、どこを目指していたのだろう?」
よく見れば、甲板には他にも白骨化した躯が幾つか転がっていた。苔むし、海洋生物達の住処となった、船乗りの成れの果て……
『酸素が勿体ない。作業に集中しよう』
心を奪われて、船の状態をつぶさに観察していると、ヴィヴィアンの声に現実に引き戻された。
「アイ」
思いを断ち切るように、ティカは視線を戻した。最後に見た時、船尾に
サンチェス号の船乗り達が、アンフルラージュの御許に召されますように――
憐れな船の末路に心を奪われたティカであったが、その後も切り立った岩壁の合間や、
朽ちた大砲や砲弾。
錆びた刃に、鎖や錨……数多の鋼の欠片達。
陶器の欠片や、貝達の住処と化した謎の木片。縄の片鱗。
それらの多くは、人間の争いの名残りであった。
この海域で、或いは遠く海流に運ばれてきた、戦争の残滓だ。
海底に沈みゆく船の藻屑を見やり、身の内に潜む矛盾を噛みしめた。
尊いものを愛でながら、同族で滅ぼし合う生き物――アルルシオの人間に対する見方は、そのままティカにも言えることだ。
どうして、魔法はティカを選んだのだろう……
愛するヴィヴィアンもまた、時に同族同士で血を流す海賊だ。それでもティカは、彼の傍に在りたい。彼の隣こそが、ティカにとっての
埒もない思いに囚われていると、不意に海がざわついた。
熱水噴出孔の近くの絶壁に集まる、貝達が声を揃えて囁いた。
“くるよ……恐ろしい軟体の……くるよ”
「深海イカだ!」
『何?』
採掘作業に没頭していたヴィヴィアンとサディールは、手を止めると、ティカの元までやってきた。
『ヴィー、すごい早さで、他にも複数体きている。その場を離れろ!』
音声機の奥から、シルヴィーの鋭い声が聞こえた。
忽ち、静かな深海の海流が、不気味にうねる。
冷たい殺意が轟いた。
聞きしに勝る、深海イカの巨躯。その大きさたるや、視界に収まりきらぬ体長であった。
油断なく、ヴィヴィアンはティカを壁の切れ目に押し込むと、水中銃を手にサディールと向かってゆく。
しかし、相手は深海の
深海イカの恐ろしい視線が、ヴィヴィアンに突き刺さる――
「駄目だ、ヴィーッ!」
たまらず、ティカは影から踊り出た。騒々しく水を掻くと、ぞっとするほど黒々とした、巨大な眼がティカを捉えた。