メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -
12章:ブルーホール - 3 -
探し人は、船長室 にはいなかった。
「ん?」
今さっき通り過ぎた応接間の扉に、何やら見慣れぬものを見た気がして、ティカは後ろ向きに歩みを巻き戻した。
「んん……?」
黒檀 の象嵌 細工が施された応接室の扉に、走り書きのような字面で“深海戦術作戦本部”という貼り紙がある。何のことだろう?
不思議に思い見つめていると、後ろからやってきたシルヴィーが容赦なく紙を剥がした。
「馬鹿馬鹿しい」
彼はどうでもよさ気に言い捨てると、扉を開けつつ、ティカの肩を押した。
一緒に中へ入ると、詰め物をした革製の長椅子に寛ぐヴィヴィアンと眼が合った。ティカを見て、おや? と青い瞳を愉しげに細める。
「ようこそ、作戦本部へ」
「変なものを貼るな」
「深海三〇〇〇メートル、未知への挑戦だよ。しっかり作戦を立てないと」
「作戦は歓迎するが、扉を汚すな」
真鍮の象嵌が施された紫檀 の書斎机の上に、シルヴィーは何枚かの海底地図を広げてみせた。
金縁装飾の施された天井に埋め込まれた、磨 り硝子の淡い光が、地図をほんのりと茜色に染める。
飴色の、優美な曲線の家具に寛いでいた船員達、ユヴェールやアマディウス、サディール達は覗き込むように視線を落とした。
「測量結果が出そろった。潜水地点はここからだ、視界と水温も安定している」
「最高水深六五〇〇メートル対応だけど、目的は水深三〇〇〇~三五〇〇メートルにある。この辺りの地層にエメラルドの鉱石が含まれている可能性が高い」
「一〇〇〇〇メートル深海に潜るわけじゃないんですね」
ほっとして、ティカは思わず口を挟んだ。
「そこまでの水深に挑むには、莫大な資金、相当な準備と装備を要するよ。潜水技術の発明にあと一〇〇年はかかるかもね」
「一度の潜水は五時間までだよ。往復に二時間かかる、予備に一時間当てて、深海の実質作業は二時間を目安にして」
「判った」
「着用時にもう一度説明するけど、いざとなったら重りを切り捨てれば、倍速で浮上できる。潜水服の中は大気圧と同じに保たれているから、心配いらない」
「了解」
縷々 と説明していたアマディウスは、全員が頷くのを見て、海泡石 のパイプを咥え直した。
「朔望潮 は五日後だ。その日の昼に挑もう」
「朔望潮?」
聞きなれぬシルヴィーの言葉に、不思議そうにティカは尋ねた。
「潮差の最も大きい大潮 のことだ。月が翳 れば、間もなく大潮がやってくる。その日を狙って潜水するんだ」
いよいよ、潜水するのだ。ティカは眼を輝かせた。その様子を見て、ヴィヴィアンも微笑む。
「この辺りの海域は干潮差一五メートルもあるんだ。朔望潮では面白い現象が見られるよ」
「面白い現象って?」
「つまり、新月によって海水全体がかなりの高さまで押し上げられるのさ。港や岸部の傍にいれば判りやすいんだけどね」
「へぇ……」
感心するティカの横で、アマディウスは会話に口を挟んだ。
「大陸産のエメラルドなら、無理して採らなくてもいい。狙いはなんといっても、メテオライト級、太古の鉱石だからね」
説明しながら、上品な青銅製の脚に支えられた金属製の火鉢で、煙草に火をつけている。船上のどこに居ようと、愛煙家たる彼の習癖は変わらない。
「エメラルドが採れたら、売るんですか?」
尋ねると、全員が頷いた。シルヴィーは補足するように口を開く。
「十月にはアプリティカで大きな競売がある。出品の一つにするつもりだ。他にも卸す目星はあるしな」
「僕も一つコレクションさせてもらうよ」
愛煙家の快楽に浸りながら、アマディウスは器用に輪の煙を吐き出すと共に、付け加えた。
「ところで、ティカはどうしたの?」
思い突いたようにヴィヴィアンに問われ、ティカは宝の地図の存在を思い出した。手渡すと、彼は視線を落とすなり微笑んだ。
「ティカが描いたの?」
「違います。海から瓶が流れてきて、中に入っていたんです」
「どこだと思う?」
気のない顔でヴィヴィアンはシルヴィーに地図を見せた。
「シャノワ灯台って書いてあるじゃないか。西洋の貿易航路にある小島だよ」
淀みない回答に、ティカは眼を輝かせた。
「知っているんですか?」
「大抵の海図には記されている地名だよ。西洋から、はるばる東の大洋まで流れてきたんだな」
その言葉は、ティカの心を高揚させた。この地図は、遥かな旅路の果てに、ティカの元へ辿り着いたのだ。
宝物を手にしたように、顔をほころばせるティカを見て、ヴィヴィアンも微笑ましげにティカの黒髪を撫でた。
その日――
私物は無きに等しいティカの衣装箱に、古びた瓶と地図が加わった。いつの日か、地図に記された灯台を訪ねて行けるといい。
晩餐には、ドゥーガルの仕留めた珍味が振る舞われ、いつになく豪勢な食卓となった。
料理人達は面白がって、普段はしない気取った真似――釣鐘型の蓋 をかぶせた皿――で振る舞ったのだ。
全ての料理にはたっぷりのリンが含まれ、見た目にも味覚にも、なるほど海の幸である。
注目の珍味は、独特の後味があり意見は二つに割れた。“天上の美味”或いは“海上の微味”――同じ響きでも、意味はまるで違う。
ちなみにティカは純粋に美味を感じた。少々甘味が強いが、すぐに慣れた。元々甘い味が好きなのだ。
一方で、親友のオリバーは能面のような顔で咀嚼していた。“微味”であったらしい……
「ん?」
今さっき通り過ぎた応接間の扉に、何やら見慣れぬものを見た気がして、ティカは後ろ向きに歩みを巻き戻した。
「んん……?」
不思議に思い見つめていると、後ろからやってきたシルヴィーが容赦なく紙を剥がした。
「馬鹿馬鹿しい」
彼はどうでもよさ気に言い捨てると、扉を開けつつ、ティカの肩を押した。
一緒に中へ入ると、詰め物をした革製の長椅子に寛ぐヴィヴィアンと眼が合った。ティカを見て、おや? と青い瞳を愉しげに細める。
「ようこそ、作戦本部へ」
「変なものを貼るな」
「深海三〇〇〇メートル、未知への挑戦だよ。しっかり作戦を立てないと」
「作戦は歓迎するが、扉を汚すな」
真鍮の象嵌が施された
金縁装飾の施された天井に埋め込まれた、
飴色の、優美な曲線の家具に寛いでいた船員達、ユヴェールやアマディウス、サディール達は覗き込むように視線を落とした。
「測量結果が出そろった。潜水地点はここからだ、視界と水温も安定している」
「最高水深六五〇〇メートル対応だけど、目的は水深三〇〇〇~三五〇〇メートルにある。この辺りの地層にエメラルドの鉱石が含まれている可能性が高い」
「一〇〇〇〇メートル深海に潜るわけじゃないんですね」
ほっとして、ティカは思わず口を挟んだ。
「そこまでの水深に挑むには、莫大な資金、相当な準備と装備を要するよ。潜水技術の発明にあと一〇〇年はかかるかもね」
「一度の潜水は五時間までだよ。往復に二時間かかる、予備に一時間当てて、深海の実質作業は二時間を目安にして」
「判った」
「着用時にもう一度説明するけど、いざとなったら重りを切り捨てれば、倍速で浮上できる。潜水服の中は大気圧と同じに保たれているから、心配いらない」
「了解」
「
「朔望潮?」
聞きなれぬシルヴィーの言葉に、不思議そうにティカは尋ねた。
「潮差の最も大きい
いよいよ、潜水するのだ。ティカは眼を輝かせた。その様子を見て、ヴィヴィアンも微笑む。
「この辺りの海域は干潮差一五メートルもあるんだ。朔望潮では面白い現象が見られるよ」
「面白い現象って?」
「つまり、新月によって海水全体がかなりの高さまで押し上げられるのさ。港や岸部の傍にいれば判りやすいんだけどね」
「へぇ……」
感心するティカの横で、アマディウスは会話に口を挟んだ。
「大陸産のエメラルドなら、無理して採らなくてもいい。狙いはなんといっても、メテオライト級、太古の鉱石だからね」
説明しながら、上品な青銅製の脚に支えられた金属製の火鉢で、煙草に火をつけている。船上のどこに居ようと、愛煙家たる彼の習癖は変わらない。
「エメラルドが採れたら、売るんですか?」
尋ねると、全員が頷いた。シルヴィーは補足するように口を開く。
「十月にはアプリティカで大きな競売がある。出品の一つにするつもりだ。他にも卸す目星はあるしな」
「僕も一つコレクションさせてもらうよ」
愛煙家の快楽に浸りながら、アマディウスは器用に輪の煙を吐き出すと共に、付け加えた。
「ところで、ティカはどうしたの?」
思い突いたようにヴィヴィアンに問われ、ティカは宝の地図の存在を思い出した。手渡すと、彼は視線を落とすなり微笑んだ。
「ティカが描いたの?」
「違います。海から瓶が流れてきて、中に入っていたんです」
「どこだと思う?」
気のない顔でヴィヴィアンはシルヴィーに地図を見せた。
「シャノワ灯台って書いてあるじゃないか。西洋の貿易航路にある小島だよ」
淀みない回答に、ティカは眼を輝かせた。
「知っているんですか?」
「大抵の海図には記されている地名だよ。西洋から、はるばる東の大洋まで流れてきたんだな」
その言葉は、ティカの心を高揚させた。この地図は、遥かな旅路の果てに、ティカの元へ辿り着いたのだ。
宝物を手にしたように、顔をほころばせるティカを見て、ヴィヴィアンも微笑ましげにティカの黒髪を撫でた。
その日――
私物は無きに等しいティカの衣装箱に、古びた瓶と地図が加わった。いつの日か、地図に記された灯台を訪ねて行けるといい。
晩餐には、ドゥーガルの仕留めた珍味が振る舞われ、いつになく豪勢な食卓となった。
料理人達は面白がって、普段はしない気取った真似――釣鐘型の
全ての料理にはたっぷりのリンが含まれ、見た目にも味覚にも、なるほど海の幸である。
注目の珍味は、独特の後味があり意見は二つに割れた。“天上の美味”或いは“海上の微味”――同じ響きでも、意味はまるで違う。
ちなみにティカは純粋に美味を感じた。少々甘味が強いが、すぐに慣れた。元々甘い味が好きなのだ。
一方で、親友のオリバーは能面のような顔で咀嚼していた。“微味”であったらしい……