メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

13章:十五歳の恋人 - 1 -

 黎明の空に陽が昇る。
 どんな時でも、朝は必ず訪れ、闇は消える。
 なんと素晴らしい眺望ちょうぼうか。
 巨大な金属盤を錨鎖で引き上げたように、大洋から昇りくる陽の大きさよ。水平線を染め上げ、かくたる光耀こうようがヘルジャッジ号を明るく照らす。
 奇跡の光景の中、ヘルジャッジ号では海上の葬儀が行われようとしていた。
 同胞たちの躯は、可能な限り清められ、いかだに乗せられている。
 死者に捧ぐ、花輪も墓石も香華こうげもない。
 海上に浮かぶ名も無き墓標を、ゆるやかな航行で進むヘルジャッジ号は、右舷に捉えていた。
 乗組員達は作業の手を休めて、言葉もなく筏を見つめている。
 同じ班員、特に航海誓願を交わしたバディの片割れは、涙を流しながら膝をついた。
 気丈に見据えるカリンも、その横顔には哀しみの陰翳を深く落としている。
 サディールは聖具である弓を持ち出して、筏に火を放った。どうか安らかに……各々が静かに口ずさむ。
 浄化の炎は、やがて彼等を焼き尽くすであろう。灰燼かいじんは波に運ばれてゆくのだ。
 そうすれば、海を見守るアトラスのたなごころが、各々の帰りたい場所へ――故郷へ、恋人や家族の元へ、あるいは楽園ユートピアへ運んでくれる。

「海のアトラスよ、善良なる魂を、永の航海へ導きたまえ」

 誰かが、海に囁くように聖句を捧げた。

「なぁ兄弟、俺達の終油の秘蹟ひせきは、海の上と決まってんだ。先にいって、一杯やりながら待っていてくれよ」

「大人しくしてりゃ、アトラス様がお導きくださる。暴れたりするんじゃねぇぞ」

 誰かが、乱暴ながらも悼む言葉を口ずさむ。
 この時ばかりは、いつも賑やかな船上には厳かな空気が流れ、笑う者は一人もいなかった。
 船縁からティカも、哀しい気持ちで燃ゆる筏を眺めていた。肩を抱き寄せるヴィヴィアンに寄り添いながら、涙を流す兄弟を見て心を痛めている。
 彼等の慟哭の深きことよ。
 海の絆で結ばれた兄弟を分かつものはただ一つ――永遠の死だけ。
 たゆたうような航行は、次第に燃ゆる墓標を小さいものにする。哀しみに留まらぬよう、錨は降ろさない。
 誰かが、死者を送る調べを奏で始めた。
 天高く響くヴァイオリオンの音、緩やかに寄り添うドラムと古い弦楽器の音。哀調の音色の合間に、すすり泣きも聞こえる。
 風に軋む索具や滑車の音が、もの哀しく耳に届いた。天空を群れ飛ぶかもめ達までもが“さようなら”を連呼する。
 黙す魂。横たわる水夫を悼むように、小波は弔鐘ちょうしょうを響かせた。

「もう、会えないんだね……」

 海の鎮魂歌レクエイム、唱和に耳を傾けながらティカは呟いた。

「悼むのなら、記憶に留めておいてやりな。誰かが覚えている限り、その者は生き続けるのだから」

 頭上から降る穏やかな声に、ティカは無言で頷いた。忘れない、彼等のことをいつまでも……
 思い出は、どれだけ時が経っても色せぬ、偲ぶ宝物だ。
 ふと在りし日の、サーシャの面影が胸をよぎった。
 彼女の葬儀には、立ち合うことができなかった。いつの日か王都へ戻ったら、その時こそ彼女を訪ねよう。
 聞いて欲しいことが、山とある。
 航海の様々を、ヘルジャッジ号が実はカーヴァンクル号であったことを、信じられないような冒険譚を……ヴィヴィアンに恋をしたことも。
 優しいそよ風が、ティカの頬や髪を撫でてゆく。

“ティカ……”

 紺碧の彼方に、優しい少女の声を聞いた気がした。
 偉大な海の賢者、アルルシオの言葉が耳朶に蘇る。
 同胞同士で滅ぼし合う生き物。尊い海を穢す、罪深きもの――人間。
 けれど、同胞の死に胸を痛め、愛する者を偲ぶのもまた、同じ人間なのだ。

 +

 雲一つない星月夜ほしづくよ
 オリバーと夜直に就いていると、彼は不意に切り出した。

「ティカ、航海誓願を立てよう」

「え?」

「三度の航海経験をすると、誓言資格が与えられるんだ。ティカはアプリティカに無事に辿り着けば、条件を満たせる」

「うん」

「アプリティカに着いたら、航海誓願を立てよう」

「いいよ」

「俺達は海で結ばれた兄弟。バディになるんだ」

 晴れた日の海のように、澄んだオリバーの瞳に映りながら、ティカも凛と頷き返した。
 すっかり慣れた仕草で、ティカは掌を親友に向ける。オリバーも同様に掌を向けると、乾いた音を鳴らして打ち付けた。いつもと違い、手は離れていかず、互いにしっかりと握りしめる。

「約束」

「うん、約束」

 船乗りとしての高揚感を覚えながら、ティカは晴れやかに笑った。

「戦闘許可も下りたんだろ?」

「うん!」

「ようやく、一緒に戦えるな」

「うんッ!!」

「俺達なら、どんな海だって越えていけるさ」

 誇らしげにオリバーは笑う。ティカも頬を紅潮させて胸を反らすと、親友は何かに気付いたように目を僅かに瞠った。

「……ティカ、背ぇ伸びた?」

「え、本当?」

 思わず前のめりの姿勢で詰め寄ると、彼は掌をティカの頭の上に置いた後、その手を水平移動させて、自分の顔の方へ寄せた。

「うん、やっぱり伸びたよ。俺も伸びたんだけど、そこまで差が開いてない」

「やったー」

「筋肉も付いてきたし、ちょっと逞しくなったんじゃないか?」

「やったーッ」

 ティカは拳をつくり、それを天にかざして吠えた。
 無限海の波濤はとうを越えてゆく厳しい航海は、自然とティカの胆力を強くし、身体を鍛えたのだ。
 手足にはしなやかな筋肉がつき、腹筋も船乗りらしく、うっすら割れている。
 ヘルジャッジ号に乗せてくれと喚いた、小さくて痩せっぽちの少年は、飛び立とうとする若鳥の如く、成長のさなかにあった。