メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

12章:ブルーホール - 1 -

 ルノワ海賊団との闘いから七日。
 ヘルジャッジ号はブルーホールの傍で錨泊していた。眼前に広がる眺望ちょうぼうはとても美しい。
 エメラルド・グリーンの穏やかな海。珊瑚礁に砕ける白い波、椰子の葉が風にそよぎ、浅瀬に素敵な影を落としている。
 丸太で組まれた島民の暮らすバンガローは、自然と一体化していて、完璧に調和している。この島もまた、一つの楽園ユートピアだ。
 島を見渡せば、緑生い茂る椰子の林が、四方八方に放射している。合間に桃や梨、林檎といった、快い芳香を放つ果樹が移植されている。
 満潮が続き、椰子の木が植林された、肥沃ひよくな岸部は活気に満ちていた。
 この島では、漁や港の繁盛は季節や時間ではなく、ともかく三つ子の月の満ち欠けと共にある。
 大潮おおしおともなれば、あらゆる船が錨鎖びょうさを巻き取り、沖合に帆を張って出てゆく。
 港に軒を連ねる酒場は、仕事帰りの彼等を労おうと、あるいは銭を巻き上げようと意気揚々と店に灯りをともすのだ。
 ヘルジャッジ号は、ブルーホールを右舷にやりすごし、少し離れたところで錨泊した。真上から錨を下ろしたら、途方もない深淵に吸い込まれてしまうからだ。
 円環に形成された珊瑚礁は、直径六〇〇メートルの礁湖――ブルーホールを取り囲んでいる。
 仄かなエメラルドグリーンと群青色の、美しいブルーホールは、水深一〇〇〇〇メートルとも予測され、未だ誰も底を見た者はいない。
 切り立った海底渓谷は、いくつかの裂け目から外洋と通じており、満潮時でなければ、どんな小船でも珊瑚に座礁してしまう恐れがある。その上、地下トンネルに吸水ポンプのように吸いこまれる可能性もある。
 ヘルジャッジ号の優秀な航海士達は、念入りに測定作業を繰り返した。
 特に時間をかけたのは、海底地形を知る為の音響測深だ。船橋ブリッジからシルヴィーが指示を出し、ブルーホールの真上で小舟に乗った船員が金属器を海水に潜らせる。
 海面から海底に音をぶつけて、跳ね返ってくる時間を計測しているらしい。
 計測七日目、ティカは計測の様子が気になり、航海士達の暇そうな時間を狙って船橋を訪ねた。

「どうした? ティカ」

 航海士達と談笑していたシルヴィーは、ティカに気付くと、笑顔のまま声をかけた。

「こんにちは」

 歓迎の空気に背中を押され、ティカは中へ足を踏み入れた。相変わらず、ティカには一生かけても扱え無さそうな、複雑な計器に囲まれている。
 空気の乾燥を示す湿度計、天候の変化を予測する気圧計、水圧を計る圧力計、嵐の到来を告げる暴風雨予報機ストーム・グラス……
 深度一〇〇〇〇メートルのブルーホールの潜水に備えて、シルヴィー達は更に水温測定器や、ティカが初めてお目にかかる音響測深器で数字を取っている。
 傍により、シルヴィーの手元を覗き込むと、難解な数字の羅列がずらりと並んでいた。

「音響測深の数字をまとめているんだ」

 興味を示すティカに、彼は端的に説明してくれた。

「音でどうやって、海底の地形が判るんですか?」

「大まかに言えば、跳ね返りの時間に海水中の音速をかけて、その半分が海底までの水深……という原理を利用している。これを少しずつ場所を変えて、五十か所で数字を取った。おのずと地形が見えてくる」

 水温や地形等の調査に、既に七日をかけている。安全な潜航に欠かせない作業らしいが、地道で根気のいる作業だ。

「海面の凹凸から、海底の凹凸を読み取る間接的なエーテル測量もあるけど、音響測深の精度には及ばない」

「ふぅん……?」

 不得要領に頷くティカに、シルヴィーは数字を元に作成した、点で結ばれた海底地図を広げてみせた。

「点の数だけ、実際に測ったってことですよね。大変だなぁ……」

「ロアノス海洋局では、音響測深の数字を自動で取る方法が開発されている。点を線にできれば、より正確な海底地図を引けるんだがな」

「へぇ」

 自動で取るとは、どうやるのだろう? 首を傾けるティカを見て、シルヴィーは学徒を愛でるように微笑んだ。

「まぁ、ブルーホールの潜航はごく狭い範囲だから、今回はこれで十分だ」

 そろそろ理解の限界で、ティカは曖昧に頷いた。シルヴィーは無言になったティカを見下ろして微苦笑を浮かべた。

「安心しろ、測量もそろそろ終わりだ。後は補正の見直しだけだよ」

「補正?」

「海水中の音速は、水温や塩分濃度によって違うから、数字は海域ごとの補正が必要だ。船の揺れで誤差も生じてるしな」

 数字の羅列を眺めて、ティカは早くも頭痛がし始めたが、一日眺めているであろうシルヴィーは、何となく楽しそうに見える。

「退屈か? 海上休暇もいまのうちだぞ。甲板で遊んでこい」

 撥ねた黒髪を撫でられ、ティカは素直に微笑んだ。