メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

11章:メル・サタナ - 4 -

 船長室キャプテンズデッキへ戻ると、ヴィヴィアンは疲れたようにため息をついた。

「身を護る切り札とはいえ、使いどころは、本当に気をつけてくれよ。あの魔法は、厄介な人間ほど深みに嵌まる気がするんだ」

「厄介な?」

 問い返すと、ヴィヴィアンは苦々しげに首肯した。

「魔法が消えた後も記憶は残る。心に渇きを抱える人間ほど、麻薬に手を染めるように深みに嵌るのさ。ジョー・スパーナがいい例だ」

 苦い記憶が蘇り、ティカは思わず顔をしかめた。二度に渡る遭遇は、碌なものではなかった。

「魔法に……ティカに繋がれた、あの男ときたら。倒錯した愛情がこじれて、妄執よりも崇拝に近い。そのうち、古代神器とは関係なしに、ティカを攫いにきそうだよね」

「……ヴィーも?」

 魔法は、ヴィヴィアンにも影響を及ぼしているのだろうか。少々不安げに尋ねると、彼は自信たっぷりに微笑んだ。

「いいや。甘美であったと認めるけれど、俺は根っからの快楽主義者だからね。渇きとは無縁なのさ」

「ヴィーは……」

「ん?」

 不安な気持ちを、どう言葉にすればいいのか判らない。言葉を失くしていると、ヴィヴィアンは手を伸ばしてティカの頬を撫でた。

「……ティカに最初に惹かれたのは、王都を出た後の、嵐の夜だよ。涙に濡れた瞳が綺麗で、見惚れたんだ」

 思わず眼を瞠った。あの嵐の夜のことは、ティカもよく覚えている……かなり前の話だ。

「一途な眼差しを羨ましいとも、そんな眼差しで見られたらどんなだろうって……想像したんだよな」

 意外な告白だ。
 これまで数えきれないほど、人から想いを寄せられてきたろうに。疑念が顔に出ていたのか、ヴィヴィアンは微苦笑を浮かべた。

「俺を崇める人間は山ほどいるけど、そのどれともティカは違う。思えば波止場で初めて瞳を覗き込んだ時から、始まっていたのかもしれないな」

「……何が?」

「ティカに落ちていく過程」

 照れ臭げにティカが視線を逸らすと、ヴィヴィアンは甘く微笑した。

「あの魔法はすごかったけど、とうに効果は切れてる。今の俺に、魔法は無関係だよ。傍でティカを見ているうちに、自然と惹かれていったんだ」

「……っ」

 優しくも真摯な言葉は、ティカを高揚させ、また不安にもさせた。

「どうして、そんなに不安そうなの? 自信を持っていいんだよ、俺の可愛い小さな恋人」

「でも、僕はヴィーと違って、賢くないし、綺麗でもないし、おまけに女の子じゃない……ん」

 後ろ向きな気持ちを拭えず、思いつくがまま言葉を並べ立てると、唇を塞がれた。すぐに離れていくが、顔のすぐ近くでヴィヴィアンは口を開いた。

「ティカは可愛いよ。天真爛漫で、素直で、笑顔にも泣き顔にもそそられる」

「嘘だ」

「こら。俺が好きだって言ってるんだから、それが事実だ。否定するんじゃない」

「……」

「返事は?」

「アイ」

「よし」

 彼は万事解決というように、綺麗な笑みを浮かべた。今度はティカが苦笑いを浮かべる番だ。
 やはり、こんなにも綺麗で、あらゆる才能に恵まれた人が、魔法も関係なしに、何をどうしてティカを好きになってくれたのか、いまいちよく判らない。

「また、暗い顔をしてる」

「え?」

「そんなに不安なら、俺にも唱えてみせてよ」

「え?」

「メル・サタナ」

 顔を強張らせるティカを見て、ヴィヴィアンは微苦笑を浮かべた。

「どうして、そんなに不安そうなの? いいから、かけてごらん」

「でも……」

「俺は変わらないよ。変わらぬ愛を証明してみせる」

「……」

「さあ、かけて」

 不安は拭えない。ティカの不安そうな顔は相変わらずであったが、さあさあ、と急かされ、戸惑いながらも口を開く――

「リヴィルージュ、メル・サタナ……」

 懐かしくすら感じる、彼の本当の名を口に乗せた。
 どうか、変わらないでいて。永遠にも感じる沈黙の中、祈りながら美貌を仰ぐ。

 ああ……それなのに、丁香花リラのような微笑みが消える。美しい青金石色ラピスラズリの瞳から、愛が失われてゆく――