メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

11章:メル・サタナ - 3 -

 独房へ行く前に、ヴィヴィアンは応接間にカリンを呼んだ。
 用向きを知らされていない彼は不思議そうにやってきたが、ティカを見て、表情を綻ばせた。

「カリン、メル・サタナ!」

 彼が口を開くより前に、ティカは解呪を唱えた。焦がれるような視線を向けていたカリンは、瞬く間に正気に返った。

「ティカ……?」

 呆けたように眼を見開き、訳が判らない、というように首を捻る。
 彼の心には、愛する家族の存在がある。穏やかな焦茶色の瞳に、偽りの愛情はもう浮かんでいない。正しく心が機能している証拠だ。ティカは、ほっと息を吐いた。

「カリン、ロゲートに手を出すな。あの男は、このまま島に置いていく」

 正気に返る様子を眺めていたヴィヴィアンは、おもむろに口を開いた。
 諫めるような口調に、カリンは一瞬だけ辛そうな顔をした。反駁はんばくはせず、硬い表情のままに頷いてみせる。
 焦茶の瞳に、哀しみはあっても、暗い妄執の光はない。魔法にかけられている間に、激昂も落ち着いたのかもしれない。
 部屋を出ていこうとするカリンの肩を、ヴィヴィアンは慰めるように叩いた。彼はゆっくり頭を下げてから、扉を閉めた。

「どうやら、その魔法も本物のようだ」

 成果を認めて、ヴィヴィアンは頷いた。ティカも安堵に胸を撫で下ろした。
 次は、ロゲートの番だ。解呪の威力は証明されたので、ヴィヴィアンとティカは、今度こそロゲートの独房へ向かった。

「あぁ……俺の天使。全てを差し出しても惜しくはないのに、囚われの身では、何も捧げられない!」

 男はティカを見るなり、扉に穿たれた鉄柵の小窓に張り付いた。芝居じみた台詞と共に、いかにも嘆かわしそうに首を振る。

「相変わらずの威力だな……」

 男の豹変ぶりを見て、ヴィヴィアンは呆れ半分、感心したように呟いた。男は忌々しげにヴィヴィアンを睨み上げたかと思えば、険を解いてティカを見た。

「俺はこう見えて、そこいらの貴族にも負けぬ財を有している。ルーヴ金貨の山でも、大粒のサファイアでも、何でも好きなものを贈ってやれるぞ」

 かける言葉が見つからず、ティカはただ首を横に振った。ロゲートは得心したように頷いてみせる。

「そうだよな……可憐なティカには、香り立つ薔薇の方が似合う。だが、ここにいては……」

「ロゲート、昨日も言ったけれど、貴方は生きて帰れますよ」

「……俺ほど、わびしく、寂しい人生などあるまい。幾度も命を危険にさらし、海賊として名を上げ始めてなお、無味無臭の虚しく渇いた日々……ティカは蒼ざめた愛を、温めてくれた」

 鬱めいた独白は妄執めいた匂いがあり、ある男を連想させた。凍える冷貌を思い浮かべ、ティカは思わず顔を歪めた。

「愛する悦び――これに勝る感動なんてない。ティカの為なら、この命すら惜しくはない」

「今だけです。僕が魔法を解けば、すぐに忘れます。そして、僕達は敵同士ってことを思い出すんだ」

「敵だなんて!」

「でも、一つだけ覚えていてください。キャプテンは約束を違えたりしません。キャプテンが貴方を無事に放すと言ったからには、そうするんだ」

「ティカが言うのなら」

「信じますか?」

「アトラスに誓って」

 その宣言を聞いて、ティカは深呼吸をした。

「絶対に、忘れないで……ロゲート、メル・サタナ」

 魔法にかける時と同じで、辺りに超常の変化は起きない。
 しかし、ロゲートは、夢から醒めたようにティカを見て奇妙な表情を浮かべた。
 羞恥心が半分、憤懣ふんまんが半分といったところか。
 この魔法の真骨頂は、魔法にかけた直後よりも、解けた後にあると言えるかもしれない。
 魔法が解けた後も記憶は残る。そこが問題なのだ。中には無自覚を暴かれ、内省を余儀なくされる者もいる。
 心の隅に眠る愛を強制的に灯され……忘れられず、渇望に囚われたジョー・スパーナのように。
 一方で、傷を癒す糧に変えた者もいる。シルヴィーのように。
 奔放な性分であれば、落差は少ない。ヴィヴィアンのように。
 元々、愛する恋人や家族がいる者は、やはり解けた後は平常に戻る。カリンのように。
 この男からは……鬱性の昏さを感じる。
 彼にとって、もっとも馴染のある感情は、虚栄心や猜疑心。魔法により、あらゆる鎖から解き放たれ、愛を見出した束の間の安らぎは、どれほど甘美であったことか、想像に余りある。
 本人も戸惑っているのであろう。ティカに視線を合わせては逸らし、また戻すを繰り返している。
 多少の罪悪感を覚えながら、その様子を見ていると、ヴィヴィアンに肩を抱き寄せられた。

「行くよ」

「アイ……」

 踵を返す瞬間、ロゲートの顔を見た。彼はどこか寂しげな顔をしていた。
 感傷めいた憐情が芽生える。ヴィヴィアンはそんな心の機微を見抜いたように、ティカの肩をきつく抱き寄せた。

「ヴィー?」

「あの男は、ティカを忘れないだろうね」

「……」

「やれやれ……やっかいな魔法だ」

「ごめんなさい」

 沈んだ声で謝罪すると、肩を抱く腕から力が抜けた。優しい抱擁へと変わる。

「もういいよ……二度と会うこともないだろうから」

 意図を計りかねて隣を仰ぐと、彼はどこか憮然とした表情でティカを見下ろした。

「約束は守るさ。ブルーホ-ルの潜水を終えたら、小舟を与えて開放する。肥沃ひよくな島がすぐ近くにあるんだから、後は勝手にすればいい」

 穏やかな提案を聞いて、ティカはぎこちなく微笑んだ。ロゲートは敵だけれど、血を流さずに済むのなら、それに越したことはない。