メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

11章:メル・サタナ - 1 -

 翌朝。カリンは甲板にティカが姿を見せるなり、傍へ駆け寄ってきた。

「ティカ!」

「お早うございます」

 彼の瞳は、ティカを映して喜びに煌めく。予想はしていたが、この事態にティカは呻きそうになった。他の兄弟達までもが、なぜか傍へやってくる。

「おいティカ。ロゲートの野郎はどうして、うわ言のようにお前の名を呼んでるんだ?」

「え?」

「あいつ、惚れた女の名前を呼ぶみてぇにティカの名前を一晩中、呼んでたぜ」

 沈黙するティカに構わず、兄弟達は朝から楽しそうに笑い飛ばした。

「いかれてやがるッ!」

「うちのキャプテンと言い、ティカには得体の知れない魔性の力でもあるのか?」

 全員の視線がティカに突き刺さり、一拍の後、天まで届く爆笑へと変わった。

「ぎゃはははっ、魔性?」
「ティカに魔性?」
「酔狂は、うちのキャプテン一人で十分だぜッ」
「違いねぇ!」

 言いたい放題の兄弟達を、ティカは不服そうに見上げた。

「笑わないでよー」

 兄弟達は爆笑は治めたものの、可笑しそうに瞳を輝かせてティカを見下ろしている。

「悪かったよ。だけど、本当にロゲートの野郎はどうしたんだ?」

「恐怖のあまり、錯乱したんじゃねぇのか? なんでティカに走るのか理解不能だけどよ……」

「あの野郎、“アトラスの福音が教えたもう、ティカこそが我が運命”……うんたらかんたら、不気味ったらないぜ。あの調子じゃ、そのうち本当に秘蹟を授かるかもな」

「一体、なんの宗教だ?」

 複雑そうにティカが顔をしかめると、兄弟は慰めるように肩を叩いた。

「安心しろよ。あの野郎は独房の中だ。出てこれねぇからよ」

「でも……」

「海上追放、運がよけりゃ港に放逐。二度と会うこともないさ」

 兄弟は呑気に笑っているが、ティカは蹲り、呻きたい心境であった。
 独房にいるから安心、そう思っていたが、彼の異変に兄弟達は既に気付いている。この調子では、ヴィヴィアンの耳に入るのも時間の問題かもしれない。

(あぁ――怒られる……)

 この事態。時間を巻き戻せるのなら、もう一度やり直したい。魔法に頼らず、どうにかあの場を切り抜けたい……
 夜には船長室キャプテンズデッキへ戻らねばならない。明晰なヴィヴィアンの前で、果たして平然と振る舞えるだろうか?
 毎回、毎回、ややこしいったらない。魔法で難を逃れても、そのせいで今度は別の難がやってくるのだから!
 いっそ、かけた魔法を解くことができればいいのに。
 甲板作業も休憩の合間も、ティカは一日中、そればかりに頭を悩ませ、上の空であった。
 度々様子を見にやってくるカリンからは、できる限り隠れた。
 彼がティカを探して船室デッキを訪ねる度に、マクシムの背中に隠れるティカを見て、オリバー達は事情を知らずとも協力してくれた。

「ティカなら甲板に行ったよ」

 今も、船室を尋ねたカリンに平然とオリバーは嘘をつく。班員も適当に調子を合わせ、カリンは首を捻りながら部屋を出ていった。甲板にいけば、今度は別の兄弟が船室にいると応えるだろう。
 罪悪感を覚えるが、ティカには彼の前で如才なく振る舞える自信がない。今日だけは、無視する態度をどうか許して欲しい。

「アイツ、今日はどうしたんだ?」

 何度目かにカリンが船室を訪ねた後、ブラッドレイは不思議そうに首を捻った。他の班員も不思議そうにティカを見やる。
 珍しく難しい表情を浮かべて煩悶はんもんするティカは、その視線に気付いていない。

「……ティカもどうした? お前でも悩むことなんてあんの?」

 鬱々と思いふけっていると、ブラッドレイに頭を掴まれ、左右に揺さぶられた。遠慮の欠片もないその手を、ティカは煩げに振り払う。

「やめてよ、今真剣に考えているんだから」

「何を?」

「キャプテンに、どうすればバレずに済むかなって……」

「何やらかしたんだ? つーか、ティカに隠し事は無理だろ」

 彼の発言は失礼極まりない。他の班員達までもが、それぞれ首肯する。

「ティカが謝れば、普通に許してくれるんじゃないの?」

 三角の耳をぴんと立てて、オリバーは不思議そうに尋ねた。

「そうだよ。よしよしされて終わるだろ」

「よしよしって……」

 いい加減な助言にティカが呆れたように呟くと、助言した本人、セーファスはにやりと笑ってみせた。

「恋人なんだろ? 抱き着いてキスして上目遣いに、“許して?”……って首傾けりゃ、一瞬で解決するだろ」

「無理だよ!」

 図星を言い当てられた上に、気恥ずかしい指南を受けて、ティカは関係を否定もせずに狼狽えた。

「ティカにしかできない、必殺技なんだぞ」

 にやりとセーファスが笑うと、ブラッドレイも人の悪い笑みを浮かべた。同い年の二人は、航海誓願を立てているバディ同士で、雰囲気も性格も似ている。
 二人揃うと、悪だくみに拍車がかかって、しばしば手に負えなくなることがある。

「そんなことするくらいなら、謝るよ……」

「まぁ、それが無難だろうな」

 悄然とティカが肩を落とすと、彼等はからかうのを止めて、それぞれ宥めるように頭を撫でた。
 無造作に撫でる手を振り払う気力も湧かず、ティカはされるがまま、思考に耽った。
 魔法を使う度に伴う、この苦労はどうにかならないものか……魔法をかけることができるのなら、解くこともできればいいのに――

「メル・サタナ……」

 彗星のように、唐突に閃いた。

「え?」

 傍で聞いていたオリバーが不思議そうな顔でティカを見ている。反応できないまま、ティカは呆然自失と眼を見開いた。
 なぜ今まで、思いつかなかったのか。
 あるではないか……!
 解呪。“メル・アン・エディール”――貴方は私のもの――と対をなす魔法、“メル・サタナ”――貴方を解放する――
 魔法にかけた相手の名前――カリンとロゲートの名を乗せて、メル・サタナ、と呟けば、魔法はたちどころに霧散するはずだ。
 万事解決ではないか……!
 陰鬱は晴れて、心に一条の光が射しこむ。
 早速、二人に解呪をかけようと、勢いよく船室を飛び出したティカは、扉の外に立つ兄弟、否、ヴィヴィアンとぶつかった。
 彼は、冷たく鋭い眼光をティカの顔に突き刺す。希望の光は一瞬で潰えた。己の尽きのなさときたら……ティカは我が身を呪いたくなった。

「ティカ、ちょっときて」

「うぅ……っ」

 彼のもたらす冷気に、だらけきっていた班員達に緊張が走る。
 帆柱マストのように背を伸ばす彼等には目もくれず、ヴィヴィアンは絶望するティカの腕を引いて、問答無用で連れ出した。