メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

10章:ナプトラ諸島沖合海戦 - 10 -

 二人が呆けている間に、ティカは男の手から逃れた。体勢を整えて二人を見やる。

「お願い、僕の言うことを聞いて」

 切羽詰まった口調で告げると、二人は呆然自失しながらも、どうにか頷いた。

「ロゲート。あなたは死なない。いいですか?」

「あ、あぁ……判った、いや、判りました。俺の天使……っ!」

 思わず、ティカはよろめいた。
 さっきまで怒鳴り散らしていたロゲートは、意中の美女に讒言と愛を請うかのように、両手を組み合わせ、一途な眼差しをティカに向けている。茶色い瞳に、暗さは欠片も浮いていない。純粋な何かを映して、星のように煌めいている。
 陰惨な空気は消し飛び、喜劇じみた空気が辺りに流れた。相変わらずの魔法の威力である。

「カリン、彼に無体をしては駄目です。キャプテンは放すと言っていました」

 彼もまた、呆けたようにティカを凝視している。

「いや……だが……わ、判った……」

 じっと下から見つめていると、観念したようにカリンは頷いた。
 豹変した二人を見て、ティカは急に胃が重たくなった。やってしまった……魔法をかけたと知れば、ヴィヴィアンは怒るだろうか?

「二人共、いつも通りにお願しますね! 僕のことは、お願いだから、気にしないでっ」

 一息に言い切ると、ティカは背中を向けて脱兎の如く逃げた。

「待ってくれ、俺の天使……っ!!」

 独房から叫ぶ、ロゲートの引き留める声は無視した。
 しかし、自由に動けるカリンは後ろを追い駆けてくる。第二甲板へ上がると、班員仲間のドゥーガルとぶつかりそうになった。

「おっと、ティカ?」

「ごめん、ドゥーガルッ! それじゃ、また!」

「おぉ?」

 不思議そうにしているドゥーガルの傍をすり抜けて、更に昇降階段を上がる。追い駆けてくるカリンを、ティカは困ったように振り返った。

「カリン、こないで。僕はもう、上甲板に行くから」

「あ、明日も会えるよな? いや、そりゃそうか……」

 会えるに決まっている。海の上で、船以外のどこにも行き場所などないのだから。彼も相当混乱しているのだろう。
 後ろめたさを誤魔化すように、ティカはにっこり微笑んだ。

「もちろん、会えますよ! じゃっ!!」

 ようやく船長室キャプテンズデッキに戻ると、机で書類に眼を通していたヴィヴィアンは顔を上げて微笑んだ。

「お帰り。遅かったね」

「た、ただいま……」

「どうしたの?」

「えっ」

 まさか、もうバレたのだろうか。焦るティカを見て、ヴィヴィアンは不思議そうに首を傾ける。

「何かあった?」

 音速で首を左右に振ると、探るような眼差しを向けたものの、追及はせずに、お風呂に入っておいで、とヴィヴィアンは言った。
 助かったとばかりに浴室に飛び込むや、ティカは熱い湯を浴びた。
 魔法を使ったと知れば、恐らく……いや、確実にヴィヴィアンは怒るだろう。素直に謝ってしまった方がいいだろうか?
 しかし、叱責を思うと身がすくむ。魔法は一日経てば切れる……
 幸いにして、ロゲートは独房から出てこれないし、明日一日、カリンを避けることができれば、夜直を終える頃には魔法が切れる。
 単純なティカにしては、珍しく打算めいた思考が働いた。
 隠し通そう。疾しい心に蓋をして、ティカは浴室から出ると、早々にベッドに潜り込んだ。

「ティカ?」

「僕、もう寝ます」

 うつぶせになり、顔を枕に埋める。早々にふて寝を決め込むティカの姿は、いささか不自然であった。いつもはもう少し遅くまで起きているのだ。

「……何かあった?」

 いつもと違うティカの様子に、ヴィヴィアンは書類を片付け、ティカの傍へやってきた。ベッドに腰かけ、ティカの黒髪を撫でる。

「眠いだけです」

「疲れた?」

 顔を柔らかなクッションに埋めたまま頷くと、頭のてっぺんに優しいキスが落ちた。

「お休み。俺はもう少し起きてるよ」

「アイ」

 気遣ってくれる彼に申し訳なく思いながら、ティカはわざとらしい生欠伸をこしらえた。
 彼はすぐに離れていかず、ベッドに腰かけたまま、ティカの黒髪を優しく梳いた。
 心地いい指に、自然と眠りを誘われる。撫でられるうちに、緩やかな眠気が訪れ、やがてティカの意識は遠のいた。