メル・アン・エディール - 無限海の海賊 -

10章:ナプトラ諸島沖合海戦 - 9 -

 深海へ沈められた男、ロゲートは生還した。
 海へと投げられたさいは、彼を生かすことに決めたのだ。ヴィヴィアンはそう解釈し、弱りきった男に治療を受けさせてから、独房へ入れた。ブルーホールがひと段落した後、男を解放することを船員の前で宣言する。
 この決定に、ティカは密かに安堵したが、反駁はんばくする者もいた。
 とはいえ、船上で船長キャプテン命令は、神の一言にも等しい。ましてや勝手な殺しは法度に触れる。
 禍根はあれど、兄弟達は渋々ながら船長命令を受け入れた。
 夜直の帰り――
 昇降階段の奥から、数人の言い争う声が聞こえた。
 上甲板へ向かおうとしていたティカは、穏やかならぬ不気味な空気に引かれて、階段を下りた。
 揉めているのは、第三甲板の奥――ロゲートを捕らえた独房だ。

「ぶっ殺してやるッ! アイツは俺のバディだったんだ!!」

 後ろから羽交い絞めにされ、顔を真っ赤にして叫んでいるのは、日頃は温厚な甲板部員のカリンだ。
 激昂する姿に唖然としていると、立ち尽くすティカに気付いた兄弟が、くるな、というように手で制した。

「ど、どうしたの?」

「どうもこうもねぇよ。仲間の仇に、何で飯や寝床を与えなきゃなんねぇのかって、カリンがぶち切れてんのさ」

「でも、キャプテンは彼を放すって……」

「判ってるよ。船長命令には従うしかねぇ。ただ、全員が納得してるわけじゃないってことさ」

 数人がかりで押さえつけられているカリンは、焦茶色の瞳に憤怒の光りを浮かべて、射殺しそうな目つきで独房を睨んでいる。

「構うものか。規律に背いても、殺してやりたい……復讐してやるッ!!」

 たぎるような憎悪を込めて、暗い独房に向かって吐き捨てる。
 このままでは、流血沙汰になりかねない。ティカは止める手を振り切って、カリンの前に躍り出た。

「カリン!」

 彼は、ここを離れた方がいい。腕を掴んで引っ張ると、ティカを見て、意表を突かれたように眼を瞠った。剣呑な表情をいくらか和らげ、怒り以外の感情を瞳に浮かべる。

「ティカ……」

「ここにいちゃいけない」

 僅かに冷静さが戻ったのか、カリンは肩から力を抜いた。悔しそうな表情を浮かべ、もう一度独房に視線を戻した。

「生きて帰れると思うなよ……」

 ぞっとするほど昏い眼をして、怨嗟えんさを吐き捨てる。
 日頃の穏やかな様子からは、およそ想像のつかない、鬼の形相だ。復讐に取り憑かれている今は、どんな言葉も彼を慰めやしないだろう……
 第二甲板へ上がって、カリンの班員に彼を任せた後、ティカは再び独房へ足を向けた。

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 ひと騒動片付いて、兄弟達は独房の前から失せたようだ。周囲に人はいない。
 独房の奥、わだかまった闇の中から、ぶつぶつと、暗く低い声が聞こえてきた。

「ここにいたら殺される……っ!」

 焦燥に駆られた独白を拾い、ティカは眼を丸くした。嵌め殺しの小窓を覗き込むと、肩を震わせている男の背中が見えた。

「キャプテンは、生還したら放すと言っていました」

 そっと声をかけると、男は勢いよく振り向いた。ティカを認めるや、大きく眼を見開く。

「信じられるか! 俺を雁字搦めにして、海の底へ沈めたんだぞッ!?」

「でも……」

「アイツは悪魔だ。人の皮を被った悪魔だよ」

「違う!」

 不満げにティカは叫んだが、男は反応しない。ぶつぶつと上擦った声で呟いている。

「……難破、港の銃撃、デボラ島の嵐、アンデル海の湾に押し寄せた流氷、一角鯨を追い駆けて船に穴を開けたこともあった、武器の密輸、船を襲った疫病――生き延びてみせた。そのどれも、俺をこうまで追い詰めやしなかった」

 妄執に囚われた幽鬼のような眼差しで、男はティカを見やった。焦点を結ばぬ視線に、不気味な光が灯る。

「ティカと言ったな。お前は、あの男のなんなんだ? やけに大切にされていたな……」

「僕は、ただの水夫です」

「いいや、ただの水夫に、あんなに眼をかけるものか。明らかに特別視していた」

 柵に近寄る男に気圧され、ティカが後じさろうとする前に、鉄柵の中から腕が伸ばされた。戒められた手で、器用に襟を引っ張られる。

「痛っ」

「お前、俺をここから逃がせるか?」

「僕にはできません。でも、ヴィーは放すって……」

「どういう意味か聞いたか? 置き去りや、海から突き落とすって意味なんじゃないのか?」

「そんなこと……」

「ここにたら、俺は間違いなく殺される」

 男は青白い顔で、押し出すように低い声で呟いた。

「殺られる前に、殺るしかねぇ……」

「何する気?」

 おののき仰け反るティカの襟を掴みながら、男は縄に戒められた両手首を顎でしゃくってみせた。

「こいつを解け。俺をここから出すんだ」

「できません」

「やるんだよッ! どうなってもいいってのかッ!?」

 男はティカの襟を掴んで、鉄柵に頬があたるくらい引き寄せた。身の毛もよだつ、濁った息が頬に降りかかる。

「やめてっ!」

 堪らず悲鳴を上げると、慌てたように駆け寄る足音が聞こえた。

「……ティカ? どうしたッ!?」

 最悪なことに、カリンだ。しかも、カトラスを抜刀している。まさか、最初からる気できたのだろうか?
 状況を見てとるや、カリンは一瞬の躊躇もなく、駆け寄ってきた。
 不味い。このままでは誰かが死ぬ――船上の殺しは法度だ。ティカは咄嗟に、彼の名を叫んだ。

「カリンッ、メル・アン・エディール!」

 続けて、襟を掴む男にもかける。

「ロゲート、メル・アン・エディール!」