メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -

4章:夢の終わりと、始まりし恋の詩 - 4 -

 穏やかな木漏れ日の下。
 私室の庭園で、オフィーリアは空を仰いでいた。
 魔法を解いても、アシュレイは変わらなかった。けれど、オフィーリアの方は、彼の示す愛情に向き合えず、あの日から、彼の瞳を見て話せない。
 心が落ち着くまで待つ、そうアシュレイはいってくれた。
 気持ちを急かしたりせず、強引に距離を詰めようともせず、労わりに満ちた誠実な態度を示してくれている。
 彼は、真に清廉な人だった。
 心無い言動を悔いて、真摯に謝罪をした。
 容赦ない罵倒の飛来を覚悟していたオフィーリアは、その姿に戸惑い、激しく狼狽えて……
 彼に傷つけられたことは事実だが、オフィーリアもまた、心無い言動で彼を傷つけてしまった。
 偏見を持っていたのは、オフィーリアも同じだ。魔法が解ければ、全てが終わると決めつけていた。
 差し伸べられる手を取ることに、躊躇してしまう。
 その手を取った時、どうなるのか。
 神々しい精霊王の傍に、侍るのか? あいの子のオフィーリアが……?
 己の容姿が厭わしい。卑屈さが疎ましい……
 結局、去ることも、歩み寄ることもできず、こうして空ばかり仰いでいる。
 どうにもならぬ膠着が続き――
 塞ぎ込んだオフィーリアの元を、アンジェラが訪ねた。精霊王の来訪を拒むわけにもいかず、オフィーリアは戸惑いながら部屋に招き入れた。
 沈んだ表情のオフィーリアを見て、アンジェラは苦笑を零した。

「こじれてしまったわね。もっと、うまくいくと思っていたのだけど」

「……」

「そう警戒しないで。口出ししにきたわけじゃないわ。少し、昔話をしにきたの」

「……昔話?」

 アンジェラは寝椅子に腰掛けると、隣に座るようオフィーリアを手招いた。

「そうよ。どうして魔法を生んだのか、知って欲しいの」

 来し方を懐かしむように、アンジェラは眼を細めた。遥かな瞳をして、ゆっくり口を開いた。

「あの黎明の時代、同胞達は精霊界ハーレイスフィアと地上を行き来していたわ。のどかな田園地方の薔薇園で、私はシルヴァリーに出会ったの。若かりし日のロアノス建国王よ」

「人間、ですか?」

 青い瞳に悪戯めいた光を灯して、アンジェラは微笑んだ。

「そうよ。私はシルヴァリーに出会い、恋に落ちたの」

「……」

「彼が生まれるずっと前から、ガロは陸続きの帝国の支配を受けていた。帝国は強大な軍事国家で、属国のロアノスに重い兵役を課していた。シルヴァリーは、徴兵制度の廃止と独立を求めて立ち上がったのよ。進取の気に溢れた、不羈ふきの人だったわ」

「……だから、惹かれたのですか?」

「最初は、物怖じしない人間が物珍しかっただけなの。私を誰か知っていて、口説こうとするんですもの。アシュレイはいい顔をしなかったけれど、嬉しかったわ」

 アンジェラはその時の様子を思い出したのか、少女のように笑った。

「それで……帝国も一度はロアノスの独立を認めたのだけれど、私の存在を知り、掌を返したわ」

 視線で問い掛けると、アンジェラは更に続けた。

「私がガロを贔屓していると、妬んだのよ。諫めても耳を貸さずに、ついに戦争を始めてしまった。たくさん血が流れたわ。武器を持たぬ民すらも、騎兵隊は蹂躙した。人のたくみは留まるところを知らず、巨大な鋼は大地にわだちを引き、海を穢し、大気を灰と硝煙で濁らせた。このままでは、地上が崩壊してしまうと思ったわ」

 人間が空想上の暗黒史として記している、真実の話だ。全てを見てきた精霊王は、ふと遠い目をした。

「精霊は自然の生んだ霊気そのものよ。大地を穢せば、わざわいが降りかるように、向けられる思念を跳ね返す鏡なのよ。利用しようとすれば、相応の報いが返る……人間はなかなか判ってくれないけれど」

 文明と産業の爆発――大革命
 かくして人工の魔力エーテルが生まれる。機械の生み出す、全く新しいエネルギーは、製造の過程で自然を穢した。世界は猖獗しょうけつに蝕まれ、壊れてゆく……故に。

「……海と空を分けたのですか?」

「そうよ。道半ばでシルヴァリーが倒れた時、世界を別つことを決めたの。判り合える日がくることを祈って、無限に続く海と空に分断した」

 同族同士で滅ぼし合うことを止められぬというのであれば、切り離すほかない。美しい陸続きの地上ハロビアンよ。
 勃興し、全盛を極め、崩壊に至る前に――
 無限に続く空に、ソロモン帝国を。
 無限に続く海に、ガロ公国を。
 世界は分断されて、幾夜も嵐が襲った。病んだ世界を吹きさらったのだ。
 やがて、城塞は朽ちゆき、鋼を錆びつかせ、縒り合う蔓が巻きついた。栄華を極めた技術や装飾は消え果て、代わりに蔦や野生の葡萄の苗床となった。
 罪は時の流れと共に、自然に帰化する。緑の萌え出づる熱い大地へと再生する。人間は知る由もない、遠い記憶だ。

「判り合える日は、くるのでしょうか……」

 大地を抉った禍根の相手を、受け入れることなんてできるのだろうか?
 自然の帰化の後には必ず、文明が芽吹く。人は勃興を繰り返し、何度でも魔力の生成に辿りつくのだ。
 不遇に見舞われた己の生と重ねて、オフィーリアは悲観的に呟いた。その心を知ってか、諦めてしまったらそれまでだわ、とアンジェラは継いだ。

「だから、種を撒いたのよ。互いの世界に橋が架かるように、希望の芽となるように、それぞれの世界に魔法を落としたの」

「魔法……」

「一つは地上の海に、一つは地上の空に、そして、最後の一つは精霊界に……そう、オフィーリアが手にした魔法よ」

 眼を見開くオフィーリアを見つめて、アンジェラは慈雨を与えるように微笑んだ。

「大仕事だったのよ。地上を空と海に分けて、くたくたで、倒れてしまいそうだったけど、力を振り絞って魔法を生んだの」

「どうして……」

「とても幸せだったから……あの頃のように、精霊が行き来する光景を、また見たいの。それに、彼が愛した国ですもの」

「どうしても、判り合えないこともあるのではないでしょうか? 離れていることが、最良なことも……」

 思わず反論が口を突いた。自信なさげに俯くと、アンジェラは慈しむように青い髪を撫でた。

「アシュレイも、ずっとそういっていたのよ。人間嫌いで、見向きもせずに背を向けて。だけど、オフィーリアが新しい風を呼び込んでくれたわ」

「え?」

「貴方のおかげで、アシュレイにも春が訪れたのよ。彼は今、恋をしている」

「それは、魔法のせいです」

「誰にでも使える魔法ではないのよ」

「……?」

「無償の愛と同じだけ悲しみを知り、清らかな涙を流せる者。優しさの他に、怒りと恐れを知る者。そして、霊気の伝播が良く、身体に馴染む者。偶然を運命に変えて、魔法に辿り着ける者。容易なことではないわ。貴方は得るべくして、その力を得たのよ」

 たおやかな繊手で、オフィーリアの青白い手を力強く握りしめた。

「奪うだけではなく、与える魔法でもあるのよ。心のおりを溶かして、心に涼風を吹き込んでくれる。貴方が、心の痛みを知っているからこそ、できるのよ」

「……」

「人間と精霊の間に生まれて、辛い思いをしたわね。さぞ恨んだことでしょう」

 髪を撫でられ、オフィーリアは視界が潤んだ。慌てて瞬くと、アンジェラは額に優しいキスを贈った。

「それでも心を曇らせなかった。偉いわ。だから、ロザリアも惹かれたのよ……魔法も貴方を選んだの」

「私は相応しくありません。自分のことばかり……貧しい心に成り下がってしまいました」

「そんなことないわ。自信を持っていいのよ、オフィーリア。そのままの貴方を、アシュレイは愛したのだから」

 ついに泣き出したオフィーリアを、アンジェラは優しく抱き寄せた。
 魔法には、もう一つ秘密がある。
 悲しみを乗り越えて、誰かを深く愛し、愛されたら……真実の愛を知った時に、世界のは開くのだ。
 無限の可能性を秘めた魔法。
 ロマンティックな魔法に仕上げたのは、アンジェラが夢を司る女神でもあるからだろうか。
 追憶の彼方で、愛しい人が微笑んでいる。
 いつかきっと、空と海、或いは精霊界までにも、橋を架けることができる。いにしえの夢が叶う時こそ、この恋は成就するのかもしれない。

(ねぇ? シルヴァリー……)

 少しも色せぬ恋心を抱いて、世界に奇跡が起きますように……アンジェラは、胸の内でひっそりと囁いた。