メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -

4章:夢の終わりと、始まりし恋の詩 - 3 -

 時間が巻き戻ってゆく――

 苦い思いが再燃する。
 魔法で寵を得たから、彼に対して委縮してしまうのだと思っていた。
 確かにそれもあった。だがそれ以上に、最初に傷つけられた恐怖が強烈だったのだ。
 傍で大切にされて、恐縮しながらも想われる喜びを感じていた。けれど、魔法が解けた後のことを常に考えていた。
 どんなに甘く愛されていても……
 泡沫の夢なのだと、思い悩んだ日々。
 もう悩むことはないのだといわれても、素直に受け入れられない。謝罪の言葉をかけられても、塞がらない傷から、今も血が流れている。

「どうすれば、私を見てくださいますか?」

 魔法が解けても尚、真摯に愛を乞う尊い姿。
 魔法があってもなくても、彼が眩しい存在であることに変わりはない。その聖者たる姿を見て、唐突に悟った。

(私は、なんて醜いのだろう)

 姿だけではなく、心までも濁ってしまった。相手を信じられない癖に、無性の愛を強請る。
 君主たる精霊王に、あろうことかやつ当たりめいた感情を抱き、矛盾に満ちた態度を期待して、心の安寧を得ようとしていた!

「二度と、お会いしたくありません」

 この方は美し過ぎる。醜い顔を両手に沈めると、オフィーリアは泣くまいと歯を食いしばった。

「……私から、遠ざかろうとするな」

 怒気を孕んだ声を絞り出すと、アシュレイはゆっくり立ち上った。青い炎のような燐光を迸らせ、責めるようにオフィーリアを見る。

「それだけは、許さない」

「出会った時のことを、今も忘れられないのです! 刃のような言葉、冷たい視線、我が君に蔑まれ、私は喘ぎ、苦しみ、忠誠を失くしたのですッ」

 慟哭を受け留め、アシュレイは苦しげな表情を浮かべた。

「忠誠が欲しいのではありません! 貴方の心が……信じてもらえるまで、何度でも伝えましょう」

「そうじゃない……ッ」

「傍にいたいのです」

「お願いです、ロザリアと共に廃城へ帰してください。どうか、そっとしておいて!」

「無理です。手放せるわけがない」

「嫌、嫌です! 離してッ」

 強い力で抱き寄せられ、オフィーリアは必死にもがいた。心からの拒絶を感じ取り、アシュレイの箍は外れた。きつく腰を引き寄せると、おとがいに指をかける。
 唇を寄せられそうになり、オフィーリアは両手でアシュレイの唇を塞いだ。
 勁烈けいれつな眼差しに射抜かれる。悋気を帯びて、青い光彩を放つ双眸は、恐ろしくもあり、美しくもあった。

「ロゼッ! 助けて……ッ!」

 心から信頼する精霊の名を叫ぶと、手を剥がされ、唇を塞がれた。怒りをぶつけるように、荒々しく貪られる。

「あ、ふ……んっ」

 顔を背けようとしても、頬を固定されて逃げられない。少しでも顔を離そうとすると、叱るように上唇を食まれた。

「やめ、ン――」

 拒絶を封じ込めるように、舌を吸われ、口内を荒される。征服するような口づけに、オフィーリアの抵抗は次第に弱まった。
 ようやく唇が離れた時、オフィーリアだけでなくアシュレイも息が上がっていた。

「貴方は、私の振る舞いに傷ついたと詰るが、貴方だって、私を傷つけている。想いの欠片すら受け取ろうとせず、甘い唇で拒絶を吐いて、私から逃げ出そうとする!」

「……っ」

「魔法に囚われているのは、オフィーリア、貴方の方だ! 私の冷徹な理性を揺るがし、愛を吹き込んだのは貴方なのに、頑なに瞳を背けて受け入れようとしない」

「愛なんかじゃないッ」

「悠久に生きていても、変わっていくことはできる。禍根から眼を背けるのではなく、共に変わっていけませんか?」

「できませんッ!」

「なぜ!?」

 肩を揺さぶられ、オフィーリアは涙を散らしながら抵抗した。

「離して……ッ」

「許せないと思うのなら、私に刃を突き立てればいい! 貴方が傷ついた分だけ、私も血を流す。二度と傷つけないと、アンフルラージュに誓う。だから、傍にいてください。遠ざかろうとせずに!」

「どうして、執着するのです? 私を嫌悪したのに。蔑んだくせにッ」

「我が身ながら、滅ぼしてしまいたいほど愚かでした。浅はかな振る舞いを取り消せはしませんが、愛を請う今の私を、少しずつでいいから見てくださいませんか?」

 真摯な告白を、オフィーリアは醒めた瞳で嗤った。

「……愛? 私のことを、何も知らないくせに」

 冷ややかな言葉を吐くオフィーリアを、射殺しそうな瞳でアシュレイは睨みつけた。

「誰よりも知っている! 瞬きも忘れるほど、貴方だけを見続けたのだから」

「何を……」

 戸惑ったように瞳を揺らすオフィーリアを、アシュレイは真っ直ぐに見つめた。

「貴方といえば、妬けるほどロザリアが好きで、その一途な視線が欲しくて、私がどれだけ心を砕いても――」

「おやめください」

 どん、と胸を叩く拳を包み込むように握りしめられた。振り払おうとしても、強い力で引き留める。

「……少しも靡いてくださらない。思慮深く、我慢強くて、欠片も贅沢を好まない。受け取ってくださった贈り物といえば、草花と薔薇際の衣装だけ。だけど、そんなところも――」

「やめて」

「オフィーリア。知って欲しいのです」

「聞きたくありません」

「私が、どんな風に貴方を見てきたか。貴方はなかなか笑顔を見せてくださらないけれど、泉でくつろぐ時には、穏やかに微笑んでくださる。私を幸せにしてくださる。あどけない寝顔も」

「もういい! もう、もういわないで」

 信じたい気持ちと、信じられない気持ちがせめぎ合う。答えが出せずに、苦しい。硬く瞳をとじて、オフィーリアは掌の中に顔を沈めた。

「オフィーリアの見てきた私は、嘘偽りなく、貴方に恋をしていました。きっかけは魔法であっても、私の振る舞い、言動に嘘は一つもありません」

「……」

「……少しずつでいい。私を見て欲しいと、お願いしているのです。どうか、遠ざかろうとしないで。愛しい人」

 素直に頷きたい気持ちと、全てに眼を背けて走り去りたい気持ちが、葛藤している。
 相反する気持ちに決着がつかず、苦しい。逃げる方が楽に決まっている。今までなら、そうしてきた。
 自分でも、もうどうしたらいいのか判らない……涙を流してでも、その場に踏み留まったのは、オフィーリアにできる精一杯であった。