メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -
4章:夢の終わりと、始まりし恋の詩 - 5 -
アンジェラの訪問を受けて、数日。
閉じた扉に手を添えて、オフィーリは息を吐いた。
この扉を開けて、誰にも見咎められずに逃げ出してしまいたい。その一方で、今すぐアシュレイに会いにいきたいとも願っている。
輝くような美貌を、天上の微笑を、もうどれくらい見ていないだろう? 扉を開けば、恋い慕う者に会いにゆける。
その幸せを、アンジェラはもう、得られないのだ……
ほんの少し勇気を出せば、アシュレイに会いにいける。扉を開いて、きっと一言名前を呼ぶだけでいい。
それだけで……
何度も扉の前に立ち、ノブに手をかけて……額を扉に押し当てた。
「私は醜い……」
今ほど、己の容姿を呪ったことはない。
せめて、この容姿がもう少しマシであったら、扉を開く勇気を出せたのだろうか。
扉に額を押し当てたまま煩悶 していると、廊下を歩く静かな靴音が聞えてきた。
息を詰めたままじっとしていると、足音は扉前でぴたりと止まった。どうしたことか、扉を鳴らそうとしない。
扉一枚、隔てた向こうにアシュレイがいる! 彼もまた、躊躇っているのだ……
(勇気を出さなきゃ)
しかし、ノブにのばした指先は、そこで時を止めた。
開けて、どうするのだろう? 何をいえばいいのだろう?
素直に心を明かすことが、これほど勇気を要するとは知らなかった。つれない態度を取るオフィーリアを前に、彼は今まで、どんな気持ちで言葉をかけてくれていたのだろう?
そうしてしばらく経った後に、扉を鳴らさずに、引き返していく――気付けば、扉を開けていた。
「あの」
振り向いたアシュレイは、驚いた表情を浮かべた。すぐに表情を溶かして、花が綻ぶようにほほえんだ。
「こんにちは、オフィーリア」
「ご機嫌麗しく……」
宝石のような瞳を見て、オフィーリアは続ける言葉を見失った。溢れる想いがあるのに、どう伝えればいいのか判らない。
そのまま時が止まり、ふと顔を横に向けるアシュレイを見て、胸を締めつけられた。いってしまうのかと、慌てて数歩を詰める。
「お待ちを……」
中途半端に手を伸ばすオフィーリアを見て、アシュレイは様子を窺うように手を伸ばし、指先にそっと触れた。暖かな何かが、指先から伝わってくる。
「ここを、出ていきたいですか?」
「え……」
「私の想いは、貴方を苦しめることしかできないのか……ずっと迷っていました」
悲壮な顔で首を振るオフィーリアを見て、アシュレイは寂しそうな顔をした。
「けれど、こうしてお姿を一目見てしまうと、困らせると知っていても、引き留めてしまう」
「私は……」
「貴方はそのままでいい。苦痛を強いないと、約束します。傍にいることを……密かに想っていることだけは、許してくださいませんか?」
はい、と応えたい。
喉の奥まで言葉がせり上がる一言を、どうしても吐き出せず、オフィーリアは顔を歪めた。
「本当なら、我が君が私を振り向くことはなかった。理 を捻じ曲げてしまったと思うと……苦しい」
「魔法は、貴方が思うような悪しきものではありませんよ。私にかけられた不治の呪いを、解いてくださったのですから」
「呪い……」
「そうです。私は今でも人間が憎い。あれほど大地や海を穢しても、彼等は記憶を風化させていく。でも、私は決して忘れることができない。それが彼等から未来を奪っているのだとしても、今までどうしようもできなかったのです」
「……」
「この悪循環は、意志の力では断ち切れないほど、私の中に根を下ろしていました。救い上げてくれたのは、貴方だ。オフィーリア」
「違います……」
力なく首を振るオフィーリアの肩を、アシュレイは両手で掴んだ。
「凍りついていた私の心を、貴方は解かしてくれた。愛しい方。貴方が傍にいてくれるのなら、いつの日か、灰海の扉も開ける気がするのです」
優しく髪を撫でられながら、自分を包み込む胸に、オフィーリアは頬を押し当てた。
「恐いのです。本当はまだ魔法が解けていなくて、ほほえみの後に、冷たい眼差しを向けられたとしたら、私はきっと、今度こそ死んでしまう」
胸に秘めていた弱さを告げると、アシュレイは苦痛に表情を歪めた。
「あの日の、愚かな私を八つ裂きにしてやりたい。貴方を傷つけたことを、心から悔いています」
震える手で、アシュレイの上着を掴んだ。潤んだ青の瞳から、涙が雫となって零れ落ちる。
「一人は怖い。もう、傷つきたくない……ッ」
涙に濡れた瞳は、信じたいと叫んでいる。葛藤に揺れる瞳を、アシュレイは強い視線で見つめた。
「貴方を傷つけたことを、償わせてください。全身全霊を懸けて、貴方だけを愛すると誓います。どうか、傍に在ることを許してください」
頬に手を添えて、上向かせる。
魔法が解けても、アシュレイの眼差しは少しも変わらなかった。煌めく瞳は、真実の愛を物語る。
心が熱い。オフィーリアは震える手に力を込めて、自らアシュレイの手を包み込んだ。
「わ、私も……」
涙に濡れた小声を拾って、アシュレイの瞳は期待に輝き出す。
恋する者の眼差し――アシュレイの眼差しは、オフィーリアに自信を与え、美しくしてくれる。
信じてみよう。
心を望むのなら、先ず自分が心を差し出さねばならない。勇気を出して、心を明かそう。
「お慕いしております。私こそ、どうかお傍にいさせてください……っ」
小声で告げた途端に、アシュレイにきつく抱きしめられた。確かな抱擁は、想いの深さを伝えてくれる。
「あぁ……やっと、いってくれましたね!」
美貌の精霊王は、心の底から嬉しそうに笑った。
閉じた瞼に、優しい唇が触れる。うっすら眼を開けると、柔らかな眼差しに包まれた。
満ちる青。
玻璃の瞳に、恋をしているオフィーリアが映っている。
不安は依然としてあるし、己の容姿を嫌悪する卑屈さもある。それでも、幸せだと思えた。
魔法とは関係なく、彼の甘い眼差しは、オフィーリアだけに注がれているのだから……
+
オフィーリアは、きっと少しだけ強くなった。
外套で顔を隠すことをやめて、着飾るようになったのだ。古代精霊 のように、気品ある、裾の長い衣装を纏う。
小波のように広がる裾を翻して、新たな薔薇の女王の戴冠を見ようと、露台へ姿を見せた。
薔薇の女王に固執していたアガレットは、意外にもすっきりした顔立ちでいた。
精霊王の隣に寄り添うオフィーリアを見て、複雑そうな表情を浮かべているが、畏怖や嫌悪はないように見える。
「綺麗だよ、フィー」
ロザリアは変わらぬ笑顔で、賞賛の言葉をくれる。オフィーリアも素直に礼をいうと、輝くような薔薇の女王の頬に、キスを贈った。
「全く、私の一番の恋敵はロザリアですね」
面白くなさそうに呟くと、アシュレイは攫うようにオフィーリアの腰に腕を回した。そのささやかな嫉妬が嬉しくて、オフィーリアも微笑する。
その様子に瞳を注いでいたアガレットは、意識を戻すようにロザリアを見た。
「次は、貴方が女王になる番よ」
緋色の罪は、仕方なさそうに呟いた。新たな薔薇の女王をひと睨みしてから、頬にキスを贈る。
集まった精霊達の前で、ロザリアは大きく手を振った。金髪を燦然 と輝かせ、極上の赤い瞳を煌めかせて。
薔薇は夢、浪漫、美しく、気高く、気品があり、愛らしく。優雅な香りを纏う、あらゆる花の女王。
自信に満ちた若い薔薇の女王は、歓呼によって迎えられた。
沸き起こる大歓声の群れに、アスティーの姿を見つけた。満面の笑みを浮かべて、手を振っている。
思いがけず友達の姿を見つけて、オフィーリアも笑みを浮かべて手を振ると、アシュレイに肩を抱き寄せられた。
「どうしました?」
「え?」
「何かを見つけたように、瞳を輝かせたから」
ほら、あそこに……いいかけて、やめた。類まれな美貌の精霊王は、魔法が解けても嫉妬深いと知ったから。応える代わりに笑みかけると、アシュレイも瞳を和ませた。
「いい日ね」
そんな二人の様子を見て、アンジェラは表情を綻ばせた。
深い知性を宿した碧眼が、どこか悪戯っぽく笑っている。その隣で、アシュレイもほほえんでいる。
双子の精霊王からそれぞれ手を差し伸べられ、オフィーリアは遠慮がちに手を伸ばした。
握り合った手を、高く掲げる。
歓声は、一際大きなものへと変化した。
...happily ever after?
閉じた扉に手を添えて、オフィーリは息を吐いた。
この扉を開けて、誰にも見咎められずに逃げ出してしまいたい。その一方で、今すぐアシュレイに会いにいきたいとも願っている。
輝くような美貌を、天上の微笑を、もうどれくらい見ていないだろう? 扉を開けば、恋い慕う者に会いにゆける。
その幸せを、アンジェラはもう、得られないのだ……
ほんの少し勇気を出せば、アシュレイに会いにいける。扉を開いて、きっと一言名前を呼ぶだけでいい。
それだけで……
何度も扉の前に立ち、ノブに手をかけて……額を扉に押し当てた。
「私は醜い……」
今ほど、己の容姿を呪ったことはない。
せめて、この容姿がもう少しマシであったら、扉を開く勇気を出せたのだろうか。
扉に額を押し当てたまま
息を詰めたままじっとしていると、足音は扉前でぴたりと止まった。どうしたことか、扉を鳴らそうとしない。
扉一枚、隔てた向こうにアシュレイがいる! 彼もまた、躊躇っているのだ……
(勇気を出さなきゃ)
しかし、ノブにのばした指先は、そこで時を止めた。
開けて、どうするのだろう? 何をいえばいいのだろう?
素直に心を明かすことが、これほど勇気を要するとは知らなかった。つれない態度を取るオフィーリアを前に、彼は今まで、どんな気持ちで言葉をかけてくれていたのだろう?
そうしてしばらく経った後に、扉を鳴らさずに、引き返していく――気付けば、扉を開けていた。
「あの」
振り向いたアシュレイは、驚いた表情を浮かべた。すぐに表情を溶かして、花が綻ぶようにほほえんだ。
「こんにちは、オフィーリア」
「ご機嫌麗しく……」
宝石のような瞳を見て、オフィーリアは続ける言葉を見失った。溢れる想いがあるのに、どう伝えればいいのか判らない。
そのまま時が止まり、ふと顔を横に向けるアシュレイを見て、胸を締めつけられた。いってしまうのかと、慌てて数歩を詰める。
「お待ちを……」
中途半端に手を伸ばすオフィーリアを見て、アシュレイは様子を窺うように手を伸ばし、指先にそっと触れた。暖かな何かが、指先から伝わってくる。
「ここを、出ていきたいですか?」
「え……」
「私の想いは、貴方を苦しめることしかできないのか……ずっと迷っていました」
悲壮な顔で首を振るオフィーリアを見て、アシュレイは寂しそうな顔をした。
「けれど、こうしてお姿を一目見てしまうと、困らせると知っていても、引き留めてしまう」
「私は……」
「貴方はそのままでいい。苦痛を強いないと、約束します。傍にいることを……密かに想っていることだけは、許してくださいませんか?」
はい、と応えたい。
喉の奥まで言葉がせり上がる一言を、どうしても吐き出せず、オフィーリアは顔を歪めた。
「本当なら、我が君が私を振り向くことはなかった。
「魔法は、貴方が思うような悪しきものではありませんよ。私にかけられた不治の呪いを、解いてくださったのですから」
「呪い……」
「そうです。私は今でも人間が憎い。あれほど大地や海を穢しても、彼等は記憶を風化させていく。でも、私は決して忘れることができない。それが彼等から未来を奪っているのだとしても、今までどうしようもできなかったのです」
「……」
「この悪循環は、意志の力では断ち切れないほど、私の中に根を下ろしていました。救い上げてくれたのは、貴方だ。オフィーリア」
「違います……」
力なく首を振るオフィーリアの肩を、アシュレイは両手で掴んだ。
「凍りついていた私の心を、貴方は解かしてくれた。愛しい方。貴方が傍にいてくれるのなら、いつの日か、灰海の扉も開ける気がするのです」
優しく髪を撫でられながら、自分を包み込む胸に、オフィーリアは頬を押し当てた。
「恐いのです。本当はまだ魔法が解けていなくて、ほほえみの後に、冷たい眼差しを向けられたとしたら、私はきっと、今度こそ死んでしまう」
胸に秘めていた弱さを告げると、アシュレイは苦痛に表情を歪めた。
「あの日の、愚かな私を八つ裂きにしてやりたい。貴方を傷つけたことを、心から悔いています」
震える手で、アシュレイの上着を掴んだ。潤んだ青の瞳から、涙が雫となって零れ落ちる。
「一人は怖い。もう、傷つきたくない……ッ」
涙に濡れた瞳は、信じたいと叫んでいる。葛藤に揺れる瞳を、アシュレイは強い視線で見つめた。
「貴方を傷つけたことを、償わせてください。全身全霊を懸けて、貴方だけを愛すると誓います。どうか、傍に在ることを許してください」
頬に手を添えて、上向かせる。
魔法が解けても、アシュレイの眼差しは少しも変わらなかった。煌めく瞳は、真実の愛を物語る。
心が熱い。オフィーリアは震える手に力を込めて、自らアシュレイの手を包み込んだ。
「わ、私も……」
涙に濡れた小声を拾って、アシュレイの瞳は期待に輝き出す。
恋する者の眼差し――アシュレイの眼差しは、オフィーリアに自信を与え、美しくしてくれる。
信じてみよう。
心を望むのなら、先ず自分が心を差し出さねばならない。勇気を出して、心を明かそう。
「お慕いしております。私こそ、どうかお傍にいさせてください……っ」
小声で告げた途端に、アシュレイにきつく抱きしめられた。確かな抱擁は、想いの深さを伝えてくれる。
「あぁ……やっと、いってくれましたね!」
美貌の精霊王は、心の底から嬉しそうに笑った。
閉じた瞼に、優しい唇が触れる。うっすら眼を開けると、柔らかな眼差しに包まれた。
満ちる青。
玻璃の瞳に、恋をしているオフィーリアが映っている。
不安は依然としてあるし、己の容姿を嫌悪する卑屈さもある。それでも、幸せだと思えた。
魔法とは関係なく、彼の甘い眼差しは、オフィーリアだけに注がれているのだから……
+
オフィーリアは、きっと少しだけ強くなった。
外套で顔を隠すことをやめて、着飾るようになったのだ。
小波のように広がる裾を翻して、新たな薔薇の女王の戴冠を見ようと、露台へ姿を見せた。
薔薇の女王に固執していたアガレットは、意外にもすっきりした顔立ちでいた。
精霊王の隣に寄り添うオフィーリアを見て、複雑そうな表情を浮かべているが、畏怖や嫌悪はないように見える。
「綺麗だよ、フィー」
ロザリアは変わらぬ笑顔で、賞賛の言葉をくれる。オフィーリアも素直に礼をいうと、輝くような薔薇の女王の頬に、キスを贈った。
「全く、私の一番の恋敵はロザリアですね」
面白くなさそうに呟くと、アシュレイは攫うようにオフィーリアの腰に腕を回した。そのささやかな嫉妬が嬉しくて、オフィーリアも微笑する。
その様子に瞳を注いでいたアガレットは、意識を戻すようにロザリアを見た。
「次は、貴方が女王になる番よ」
緋色の罪は、仕方なさそうに呟いた。新たな薔薇の女王をひと睨みしてから、頬にキスを贈る。
集まった精霊達の前で、ロザリアは大きく手を振った。金髪を
薔薇は夢、浪漫、美しく、気高く、気品があり、愛らしく。優雅な香りを纏う、あらゆる花の女王。
自信に満ちた若い薔薇の女王は、歓呼によって迎えられた。
沸き起こる大歓声の群れに、アスティーの姿を見つけた。満面の笑みを浮かべて、手を振っている。
思いがけず友達の姿を見つけて、オフィーリアも笑みを浮かべて手を振ると、アシュレイに肩を抱き寄せられた。
「どうしました?」
「え?」
「何かを見つけたように、瞳を輝かせたから」
ほら、あそこに……いいかけて、やめた。類まれな美貌の精霊王は、魔法が解けても嫉妬深いと知ったから。応える代わりに笑みかけると、アシュレイも瞳を和ませた。
「いい日ね」
そんな二人の様子を見て、アンジェラは表情を綻ばせた。
深い知性を宿した碧眼が、どこか悪戯っぽく笑っている。その隣で、アシュレイもほほえんでいる。
双子の精霊王からそれぞれ手を差し伸べられ、オフィーリアは遠慮がちに手を伸ばした。
握り合った手を、高く掲げる。
歓声は、一際大きなものへと変化した。
...happily ever after?