メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -
4章:夢の終わりと、始まりし恋の詩 - 1 -
薔薇際も残り僅か。
世界樹宮を見渡せば、いつの間にか、ロザリアの薔薇を身に着ける精霊が増えた。
女王など興味ないといっていたロザリアだが、アガレットとの競争に闘志を燃やし、今では積極的に来訪者に薔薇を渡している。
アガレットとロザリアの一騎討ちに、皆が注目していた。どちらが選ばれるのかと、世界樹宮で話題に上らない日はない。
盛り上がる世界樹宮の最奥で、オフィーリアだけは憂鬱な顔でいた。
情熱的な一夜の後、希望を打ち砕く決定的な朝を迎えてから、オフィーリアは心を閉ざしていた。
誰にも会わずに、私室で一人、貝のように閉じこもっている。
面会を拒むオフィーリアを、性的に征服したことへの怒りだとアシュレイは誤解をしている。
日に何度も送られる、花や衣装、想いを綴った手紙を視界の端に見やり、オフィーリアは沈痛なため息をついた。
魔法を解かねば……何度もそう思い、首を振るを繰り返す。
いわなければ、ばれやしない。魔法を解かなくてもいい、そうアシュレイはいっていた。
ならば、このままでもいいではないか――いいや、駄目だ。このままでいいはずがない。
良心が悲鳴を上げる度に、理性と感情は熾烈な攻防を繰り返した。
甘やかな夢から醒めることが、恐い。
冷淡な瞳で見られることが、恐い。
ロザリアと引き裂かれ、今度こそ一人きりで生きていかねばならぬことが、恐い。
記憶の中で、アシュレイが微笑んでいる……
神々しい笑みを見て、後ろめたく思いつつ……心の深いところでは喜びも感じていた。全身で愛される幸せ。
瞳を開いた時、涙が鱗の散った頬を滑り落ちた。
初めてのことではない。夢から醒める度にこうだ。
いっそ、永遠の眠りにつけたらいいのに……夜明けを見る度に絶望している。
やがて西陽が射しこみ、部屋は茜色に染め上げられた。空の裳裾は藍色が滲み、対岸の闇夜に並んだ月が浮かぶ。
地上では見られない幻想的な空を見上げて、どうしようもないほど、深い虚しさに襲われた。
あと何度、繰り返すのだろう。この虚しさを、あと何度味合わねばならいのだろう?
(もう疲れた……)
夢から醒めて、この身が亡びたとしても。今とて、屍のように息をしているだけだ。
寝ても覚めても、気持ちにゆとりがなく、息苦しい。
魔法が解けても同じこと……
絶望を想像することにも、偽りの愛にしがみつく誘惑に抗うことにも、疲れてしまった。
魔法を、断ち切ろう――
静かに立ち上ると、オフィーリアは久しぶりに部屋を出た。寡黙な召使が、心配そうにこちらを見ている。
ここしばらくの態度を目礼で詫びると、彼女は深く額づいた。
数歩も歩かぬうちに、隣にロザリアが並んだ。何もいわず、ただ、オフィーリアの手を握りしめる。
「……解呪が判ったのよ」
ぽつりと呟くと、ロザリアは澄んだ紅玉の瞳でオフィーリアの顔を覗き込んだ。
「大丈夫だからね」
宝石のような紅玉の瞳に、力強い光を灯してオフィーリアを見た。握りしめる手に、力をこめる。
「……うん」
視界が潤みかけ、オフィーリアは慌てて瞳を瞬いた。
薔薇際の会場に辿りつくと、すぐにアガレットはこちらを見た。大勢の信奉者を袖にして、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「オフィーリア! 会いたかったわ」
美貌を喜びに輝かせて、アガレットは嬉しそうに笑った。ロザリアが唸るのも気に留めず、オフィーリアに手を差し伸べる。
「アガレット」
名を呼んだだけで、この上なく嬉しそうにアガレットはほほえんだ。気位の高い薔薇の精霊とは思えぬ、無邪気な笑みだ。
「魔法を解く方法を、思い出しました」
「え?」
「フェリクスに会ったら、貴方のいう通りだったと伝えてください」
硬い表情で、オフィーリアは素っ気なくいった。アガレットが反応する前に、言葉を続ける。
「アガレット、メル・サタナ」
小声であったが、解呪は確かに働いた。
古い霊気が散って、金色の燐光が霧散する。アガレットはみるみるうちに、表情を消して、戸惑いの浮かぶ瞳でオフィーリアを見た。
「……どう? 魔法は解けた?」
フードを脱いで、真正面から見つめた。慄いたように、アガレットは後じさる。
「……ッ」
青褪めた顔には、隠しようのない畏怖が浮かんでいた。
「気味が悪い? 恐いでしょう? 呪われたくなければ、二度と私に近付かないで」
そのまま振り向きもせずに、踵を返す。ロザリアはアガレットをひと睨みすると、すぐにオフィーリアの後ろを追い駆けた。
「……ロゼは、一緒にいてくれる?」
「もちろん」
「世界樹宮を、追い出されてしまうかもしれないけど、いい?」
「フィーと一緒なら、どこだっていいよ」
迷いのない即答に、オフィーリアは口端を緩めた。裏表のない言葉に勇気をもらい、顔を上げて前を向いた。
「魔法を解くわね」
決意を秘めて、フードを脱いだまま回廊を進んだ。
おぞましい姿。素顔を晒して歩くオフィーリアを、小さな妖精 達は恐れるように遠巻きに見ている。
あいの子に対する、正しい反応だ。
全てを終わらせる前に、最後に世界樹を見にいった。美しい大樹を瞼の奥に焼きつける。間近に仰ぐことは、二度と許されないだろうから。
両手を広げて、燦 たる光を全身に浴びた。生ける全ての者に平等に降り注ぐ優しい光は、オフィーリアをも照らしてくれる。
「オフィーリア」
振り向けば、アシュレイが立っていた。
「我が君……」
「さぁ、どうぞ。魔法を解いてください」
小さく眼を瞠るオフィーリアを見て、彼は微笑んだ。
「あの日から、瞳も合わせてくださらない。痛みを堪えるような顔を見ていれば、嫌でも気付きます」
一瞬、早くもアガレットから聞いたのかと思ったが、そうではなかった。絶句するオフィーリアを、アシュレイは静かな瞳で見た。
「避けられている間も、貴方のことばかり考えていました。解呪を手に入れたのでしょう?」
「……はい」
項垂れるオフィーリアの、ロザリアに握られていない方の手を、アシュレイは両手で包み込んだ。
ゆるゆると顔を上げると、慈しみの浮いた瞳に見下ろされた。
「オフィーリア。怖がる必要はありませんよ。さぁ、私にもかけてください」
「では……これで、お終いですね」
寂しげに笑うオフィーリアを見て、アシュレイは青い双眸に確信めいた光を灯した。
「ここから、始まるのです。魔法を解いた暁には、貴方の心の聖域を、どうか明かしてくださいね」
「……瞳を閉じてください」
はぐらかされたと思ったのか、彼は真摯な眼差しでオフィーリアを見つめた。
「どうか、閉じてくださいませ」
繰り返すと、観念したようにアシュレイはゆっくりと眼を閉じた。
そのまま、閉じていてくださいね……小さく囁くと、オフィーリアは懺悔するように、両手を胸の前で組んだ。
「私はきっと、最初から知っていたのです。あまりにも心地よくて、眼を背けていただけなのかもしれません」
瞳を開こうとするアシュレイを見上げて、オフィーリアは首を左右に振った。
「いけません。閉じていて……」
宝石のような青い瞳は、銀色の睫毛に隠れた。神々しい美貌に瞳を注ぎ、オフィーリアは歯を食いしばった。
今になって、数多の記憶が胸を過る。
こちらを見る、甘い眼差し……
離れたところから、名を呼ぶ声。
近くで囁くように、名を呼ぶ声。
ふとした仕草。青髪をすく指。抱きしめてくれる腕。音楽に合わせて、手を取り合った夜。
光の衣が揺れる空を、並んで仰いだ夜。
悠久の精霊界を治める、尊い人。
綺羅星のように眩い、美しい人。
時には、甘えるように微笑み、ロザリアに嫉妬の視線を送る、かわいい人。
些細なことで、嬉しそうに微笑む人。
陽を避けるオフィーリアに、黄昏をくれた人。
非情な言葉で、この胸を引き裂いた人。
けれど、全てを受け入れ、愛してくれた人。
醜いこの身体に触れ、貪るように抱いた、初めての人。
遠ざけないで欲しい、と涙を流した人……
記憶の中で、何度もほほえみが再生される。
空が落ちたとしても。この身に天罰が下ったとしても。深く愛されて、幸せだった。幸せでした。
この時が。一瞬が、永遠に変わればいいのにッ!
膨れ上がる想いに蓋をして、血を流す心から眼を背け、金剛のような未練を断ち切るように、オフィーリアは覚悟の引き金をひいた。
「アシュレイ、メル・サタナ」
短くも、絶大な威力を持つ解呪が、大気に浸透する。
強力な言霊は、金色の粒子――古の霊気を呼び起こし、アシュレイの輪郭を覆った。全身を包みこみ、瞬く間に魔法の鎖を粉々に砕いた。
世界樹宮を見渡せば、いつの間にか、ロザリアの薔薇を身に着ける精霊が増えた。
女王など興味ないといっていたロザリアだが、アガレットとの競争に闘志を燃やし、今では積極的に来訪者に薔薇を渡している。
アガレットとロザリアの一騎討ちに、皆が注目していた。どちらが選ばれるのかと、世界樹宮で話題に上らない日はない。
盛り上がる世界樹宮の最奥で、オフィーリアだけは憂鬱な顔でいた。
情熱的な一夜の後、希望を打ち砕く決定的な朝を迎えてから、オフィーリアは心を閉ざしていた。
誰にも会わずに、私室で一人、貝のように閉じこもっている。
面会を拒むオフィーリアを、性的に征服したことへの怒りだとアシュレイは誤解をしている。
日に何度も送られる、花や衣装、想いを綴った手紙を視界の端に見やり、オフィーリアは沈痛なため息をついた。
魔法を解かねば……何度もそう思い、首を振るを繰り返す。
いわなければ、ばれやしない。魔法を解かなくてもいい、そうアシュレイはいっていた。
ならば、このままでもいいではないか――いいや、駄目だ。このままでいいはずがない。
良心が悲鳴を上げる度に、理性と感情は熾烈な攻防を繰り返した。
甘やかな夢から醒めることが、恐い。
冷淡な瞳で見られることが、恐い。
ロザリアと引き裂かれ、今度こそ一人きりで生きていかねばならぬことが、恐い。
記憶の中で、アシュレイが微笑んでいる……
神々しい笑みを見て、後ろめたく思いつつ……心の深いところでは喜びも感じていた。全身で愛される幸せ。
瞳を開いた時、涙が鱗の散った頬を滑り落ちた。
初めてのことではない。夢から醒める度にこうだ。
いっそ、永遠の眠りにつけたらいいのに……夜明けを見る度に絶望している。
やがて西陽が射しこみ、部屋は茜色に染め上げられた。空の裳裾は藍色が滲み、対岸の闇夜に並んだ月が浮かぶ。
地上では見られない幻想的な空を見上げて、どうしようもないほど、深い虚しさに襲われた。
あと何度、繰り返すのだろう。この虚しさを、あと何度味合わねばならいのだろう?
(もう疲れた……)
夢から醒めて、この身が亡びたとしても。今とて、屍のように息をしているだけだ。
寝ても覚めても、気持ちにゆとりがなく、息苦しい。
魔法が解けても同じこと……
絶望を想像することにも、偽りの愛にしがみつく誘惑に抗うことにも、疲れてしまった。
魔法を、断ち切ろう――
静かに立ち上ると、オフィーリアは久しぶりに部屋を出た。寡黙な召使が、心配そうにこちらを見ている。
ここしばらくの態度を目礼で詫びると、彼女は深く額づいた。
数歩も歩かぬうちに、隣にロザリアが並んだ。何もいわず、ただ、オフィーリアの手を握りしめる。
「……解呪が判ったのよ」
ぽつりと呟くと、ロザリアは澄んだ紅玉の瞳でオフィーリアの顔を覗き込んだ。
「大丈夫だからね」
宝石のような紅玉の瞳に、力強い光を灯してオフィーリアを見た。握りしめる手に、力をこめる。
「……うん」
視界が潤みかけ、オフィーリアは慌てて瞳を瞬いた。
薔薇際の会場に辿りつくと、すぐにアガレットはこちらを見た。大勢の信奉者を袖にして、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「オフィーリア! 会いたかったわ」
美貌を喜びに輝かせて、アガレットは嬉しそうに笑った。ロザリアが唸るのも気に留めず、オフィーリアに手を差し伸べる。
「アガレット」
名を呼んだだけで、この上なく嬉しそうにアガレットはほほえんだ。気位の高い薔薇の精霊とは思えぬ、無邪気な笑みだ。
「魔法を解く方法を、思い出しました」
「え?」
「フェリクスに会ったら、貴方のいう通りだったと伝えてください」
硬い表情で、オフィーリアは素っ気なくいった。アガレットが反応する前に、言葉を続ける。
「アガレット、メル・サタナ」
小声であったが、解呪は確かに働いた。
古い霊気が散って、金色の燐光が霧散する。アガレットはみるみるうちに、表情を消して、戸惑いの浮かぶ瞳でオフィーリアを見た。
「……どう? 魔法は解けた?」
フードを脱いで、真正面から見つめた。慄いたように、アガレットは後じさる。
「……ッ」
青褪めた顔には、隠しようのない畏怖が浮かんでいた。
「気味が悪い? 恐いでしょう? 呪われたくなければ、二度と私に近付かないで」
そのまま振り向きもせずに、踵を返す。ロザリアはアガレットをひと睨みすると、すぐにオフィーリアの後ろを追い駆けた。
「……ロゼは、一緒にいてくれる?」
「もちろん」
「世界樹宮を、追い出されてしまうかもしれないけど、いい?」
「フィーと一緒なら、どこだっていいよ」
迷いのない即答に、オフィーリアは口端を緩めた。裏表のない言葉に勇気をもらい、顔を上げて前を向いた。
「魔法を解くわね」
決意を秘めて、フードを脱いだまま回廊を進んだ。
おぞましい姿。素顔を晒して歩くオフィーリアを、小さな
あいの子に対する、正しい反応だ。
全てを終わらせる前に、最後に世界樹を見にいった。美しい大樹を瞼の奥に焼きつける。間近に仰ぐことは、二度と許されないだろうから。
両手を広げて、
「オフィーリア」
振り向けば、アシュレイが立っていた。
「我が君……」
「さぁ、どうぞ。魔法を解いてください」
小さく眼を瞠るオフィーリアを見て、彼は微笑んだ。
「あの日から、瞳も合わせてくださらない。痛みを堪えるような顔を見ていれば、嫌でも気付きます」
一瞬、早くもアガレットから聞いたのかと思ったが、そうではなかった。絶句するオフィーリアを、アシュレイは静かな瞳で見た。
「避けられている間も、貴方のことばかり考えていました。解呪を手に入れたのでしょう?」
「……はい」
項垂れるオフィーリアの、ロザリアに握られていない方の手を、アシュレイは両手で包み込んだ。
ゆるゆると顔を上げると、慈しみの浮いた瞳に見下ろされた。
「オフィーリア。怖がる必要はありませんよ。さぁ、私にもかけてください」
「では……これで、お終いですね」
寂しげに笑うオフィーリアを見て、アシュレイは青い双眸に確信めいた光を灯した。
「ここから、始まるのです。魔法を解いた暁には、貴方の心の聖域を、どうか明かしてくださいね」
「……瞳を閉じてください」
はぐらかされたと思ったのか、彼は真摯な眼差しでオフィーリアを見つめた。
「どうか、閉じてくださいませ」
繰り返すと、観念したようにアシュレイはゆっくりと眼を閉じた。
そのまま、閉じていてくださいね……小さく囁くと、オフィーリアは懺悔するように、両手を胸の前で組んだ。
「私はきっと、最初から知っていたのです。あまりにも心地よくて、眼を背けていただけなのかもしれません」
瞳を開こうとするアシュレイを見上げて、オフィーリアは首を左右に振った。
「いけません。閉じていて……」
宝石のような青い瞳は、銀色の睫毛に隠れた。神々しい美貌に瞳を注ぎ、オフィーリアは歯を食いしばった。
今になって、数多の記憶が胸を過る。
こちらを見る、甘い眼差し……
離れたところから、名を呼ぶ声。
近くで囁くように、名を呼ぶ声。
ふとした仕草。青髪をすく指。抱きしめてくれる腕。音楽に合わせて、手を取り合った夜。
光の衣が揺れる空を、並んで仰いだ夜。
悠久の精霊界を治める、尊い人。
綺羅星のように眩い、美しい人。
時には、甘えるように微笑み、ロザリアに嫉妬の視線を送る、かわいい人。
些細なことで、嬉しそうに微笑む人。
陽を避けるオフィーリアに、黄昏をくれた人。
非情な言葉で、この胸を引き裂いた人。
けれど、全てを受け入れ、愛してくれた人。
醜いこの身体に触れ、貪るように抱いた、初めての人。
遠ざけないで欲しい、と涙を流した人……
記憶の中で、何度もほほえみが再生される。
空が落ちたとしても。この身に天罰が下ったとしても。深く愛されて、幸せだった。幸せでした。
この時が。一瞬が、永遠に変わればいいのにッ!
膨れ上がる想いに蓋をして、血を流す心から眼を背け、金剛のような未練を断ち切るように、オフィーリアは覚悟の引き金をひいた。
「アシュレイ、メル・サタナ」
短くも、絶大な威力を持つ解呪が、大気に浸透する。
強力な言霊は、金色の粒子――古の霊気を呼び起こし、アシュレイの輪郭を覆った。全身を包みこみ、瞬く間に魔法の鎖を粉々に砕いた。