メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -

3章:気まぐれな夜に、薔薇祭の調べ - 15 -

 心の内で、制御不能な嵐が吹き荒んでいる。
 深い恋情、故の嚇怒かくどに身を焦がしながら、アシュレイは強い力でオフィーリアの細い肩を掴んだ。そのまま揺さぶってやりたい衝動をどうにか堪えて、アシュレイは慄く娘を視線で射抜く。

「今はっきりと、判りました。私をこれほど燃え上がらせる炎が、魔法と共に潰えるはずがない。その程度の想いなら、こうまで苦しむわけがないッ」

「んぅっ」

 唐突に唇を奪われた。想いの丈をぶつけるように、執拗に貪られる。

「も、はな……ッ……あっ」

 胸を叩く手を、いともあっさり掴まれた。拒絶は許さないとばかりに、舌を甘噛みされる。息苦しさに喘いでも、何度も唇を吸われた。

「あ、はぁ、はぁ……ッ」

 ようやく許された時、オフィーリアは肩で息をしていた。アシュレイの呼吸も荒く乱れている。
 彼は、腫れぼったく熱を持ち、淫靡に濡れた唇を、形の良い指でなぞり上げた。震えるオフィーリアを、情欲のたぎった瞳で射抜く。

「私を、遠ざけようとするな」

 応えられずにオフィーリアが視線を逸らすと、垂れた掌を掬い取り、アシュレイは懇願するように頬に押し当てた。

「お願いしているのですッ」

 尊い精霊王が、オフィーリアの振る舞いに傷つき、苦しんでいる。
 宝石のような青い双眸から、雫が零れ落ち、頬を伝い、オフィーリアの指先を濡らした。
 水晶のような滴を見て、オフィーリアの胸で想いがぜた。胸を引き絞られながら、唇を戦慄わななかせる。

「我が君……」

「そのように畏まらず、私の名を呼んでくださいませんか……」

 滴の行方を視線で追い駆けながら、オフィーリアは限界を悟った。胸が張り裂けてしまいそうだ。それでも、いわなければ。

「アシュ、レイ」

 万死の覚悟で、唇を動かした。初めて呼んだ、彼の名前……その後に続けるはずの解呪は、青い瞳の輝きを見て、途切れた。

「名前を……」

「あ……」

「ようやく、呼んでくれましたね……オフィーリア」

 力なく垂れたオフィーリアの手を取り、幸せそうに自分の頬に押し当てる姿を見せられ、続ける言葉を見失った。

「恋とは、こうも愚かにさせるものなのか……見苦しいほど取り乱し、揚句、名前を呼ばれただけで、震えるほど嬉しいなど」

「ち、ちが……」

 戦慄く唇に、人差し指が押し当てられた。

「今は、拒絶は欲しくありません。もう一度、呼んでくださいませんか?」

 甘く請う。煌めく青い瞳にオフィーリアだけを映して……
 青斑の散った醜い姿を、瑠璃色の中に見て、オフィーリアはいよいよ絶句した。

(きっと、嫌われる)

 こんなにも醜いのだ。
 魔法が解けると共に、泡沫の夢は消える。
 言葉の刃が降り注ぎ、オフィーリアの心はずたずたに引き裂かれるだろう。
 魔法を解くということは、そういうことだ。
 死ぬよりも辛い、絶望が待っている。覚悟しなければならない。決して、無事では済まされまい。
 沈黙が長引き、焦れたようにアシュレイは口を開いた。

「オフィーリア?」

「……アシュレイ」

 強張った声で告げたが、それでもアシュレイは嬉しそうに微笑んだ。抉られるような痛みが、胸に走る。
 フェリクスのいう通りではないか。
 解呪を知りながら、使うことを躊躇ったのは、惜しいと思ってしまったから。
 まやかしでも、分不相応でも、精霊王の一途な愛は嬉しかった。優しい微笑み、眼差し、声……
 結局、虚しい独り芝居を打っていたようなものだ。
 冷静な自分がそう囁くが、もう一人、偽りの愛にしがみつく惨めな自分が、このままでいいではないか、と冷静な自分に縋りつく。
 葛藤に揺れるオフィーリアを、アシュレイは腕の中に囲い込んだ。

 一秒、二秒、三秒……

 逞しい胸に頬を当てたまま、オフィーリアはそっと瞼を閉じた。きつく唇を噛んで――解呪を喉奥に封じ込める。

(あぁ……)

 浅ましき保身は、オフィーリアの心を奈落の底に突き落とした。