メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -

2章:まほろばの楽園と、泡沫の寵愛 - 7 -

 悠久の昼下がり。
 部屋に面した回廊の隅に立ち、オフィーリアは世界樹を仰いでいた。

「こんにちは、オフィーリア様」

「シェヘラザード様」

 少し離れたところから声をかけられ、フードの奥からオフィーリアはほんの少しだけほほえんだ。
 人見知りなオフィーリアだが、この穏やかで優しげな水霊ウィンディーネの長には好感を抱いていた。
 あいの子だからと蔑視せず、精霊王の寵を受けているからとおもねるでもない。
 思うところはあるだろうに、詮索もせず、時々こうして暇をしていないかと声をかけてくれる。
 誠実で親切。変わらぬ一貫した態度は、彼の気質によるものであろう。

「このような所で仰がずとも、中庭へ下りて、傍でご覧になってはみませんか?」

「いえ……」

 中庭へ下りれば、多くの精霊達の目に留まる。それは嫌だった。
 迷う心を読んだように、シェヘラザードは優しくほほえんだ。

「では、離れたところから、少しだけ覗いてみませんか?」

 丁寧に誘われて、オフィーリアも断りきれずに小さく頷いた。
 穏やかな水霊の長に手を引かれ、猜疑心の強いオフィーリアにしては、気を緩めて隣を歩いた。
 庭園は美しかった。
 弦薔薇、クレマチス、葡萄や藤が石柱に絡まり、可憐な小鳥や蝶達が羽を休めている。光の粒子のような妖精エルフが、踊るように戯れている。
 幻想的な光景を、オフィーリアは花水木の木陰から眺めた。
 魔法を手にしまったこと、好奇の視線……そういった心配事さえなければ、この満ち足りた楽園は完璧だ。清涼な空気が身体中に巡り、瑞々しく回復していく。

「ここでの暮らしに、不自由はありませんか?」

「いえ、過分な待遇を頂戴しております」

 いつでも、美しく整えられた私室。寝室には幸運の花冠が飾られ、薔薇が香っている。一度も触れたことはないが、衣装棚には、美しい衣装がずらりと並んでいる。
 寡黙ながら、控え目で気の利く古代精霊ティタニアが、召使として侍り、何かと気を配ってくれる。
 貴婦人に接するようなもてなしは、全てアシュレイの気遣いによるものだ。心苦しいばかりだけれど……
 罪悪感の浮かぶ顔をそっと盗み見て、シェヘラザードは苦笑を浮かべた。

「貴方は、本当に謙虚な方ですね。我が君から寵を頂いていても、少しも奢ったところがない」

「……」

「貴方のような方が、世界樹宮へきてくださって、嬉しく思いますよ。我が君は本当に幸せそうにしていらっしゃる」

 良心の呵責に苛まれながら、オフィーリアは曖昧に相槌を打った。
 この善良な精霊は、主君が魔法にかけられていることを知らないから、そのように思えるのだ。

「ここでの暮らしが、貴方にも優しいものであれば、良いのですけれど……」

 浮かない顔のオフィーリアを見て、シェヘラザードは思案する。
 この臆病な娘と精霊王の間には、浅からぬ秘め事があるのだろう。
 潔癖で地上を毛嫌いする主が、それも半人の娘を、世界樹宮に招き入れるのは只事ではない。娘は知らないようだが、妃の私室まで与えたのだ。
 頬を染めて、娘を一途に想う姿は、冷徹な精霊王の姿からはかけ離れている。
 穏やかな笑みを湛えつつ、彼に永く仕えるシェヘラザードは、内心では驚きを隠せなかった。
 どうして、この娘だったのだろう?
 確かに、好ましい美徳はある。
 贅沢を好まず、控えめで、熱心に書物を紐解いている。寡黙で、臆病で、注目を浴びることを厭う。鱗の散った顔を見られることを嫌い、外を歩く時は必ず外套を羽織る。頼りげない姿は、庇護欲をそそるかもしれない。
 しかし、麗しい精霊王の手を一向に取ろうとしないのは、どうしたことか。
 ただ気後れしているだけのようには見えない。彼を前に一歩引く時、娘の顔には、罪深さが浮かぶのだ。
 その秘密を暴くつもりはないが、初恋に夢中になるアシュレイを、応援してやりたいと思う。

「何か、心配事があるのですか?」

 できることなら力になってやりたいが、オフィーリアは強張った表情で、いいえ、と控えめに応えた。
 彼女の心に巣食う憂鬱は、深い。漠然とそう判るものの、明かしてはくれないようだ。
 見守るばかりも歯痒いものだ。そう思いながら視線を巡らせると、少し離れたところで、アシュレイがこちらを見ていることに気付いた。

「ふ……」

 思わず漏れた微笑に、隣でオフィーリアが不思議そうにしている。

「いえいえ、何でもありません」

 教えてしまっては、彼が不憫だろう。
 それにしても、こちらの様子が、気になって仕方ないという顔をしている。森羅万象を統べる偉大な精霊王が、随分と初々しいものだ。
 本当に、オフィーリアがきてからというもの、いろいろな顔を見せるようになった。
 彼の心には、さながら春の嵐が吹いているのだ。それは、とても素晴らしいことのようにシェヘラザードには思えた。