メル・アン・エディール - まほろばの精霊 -

2章:まほろばの楽園と、泡沫の寵愛 - 6 -

 日は流れ――
 悠久の世界樹宮で、変化の兆しもないまま、本ばかりが積み重なっていく。
 ここへきた当初は、精霊界を統べる天下始祖精霊マナ・マク・リールが、本気でオフィーリアに惹かれるはずがない。悠久のそのといえども、いずれ魔法は消える――そう思い込んでいた。
 突然に訪れる態度の落差、叱責の飛来を、今日こそはと覚悟していた。
 けれど、その気配は一向に訪れない。
 偉大な精霊王は、相変わらずオフィーリアに夢中で、事情を知らぬ精霊達の間でも、彼は恋をしているのだと噂になっている。視線が怖くて部屋に引きこもっていても、アシュレイはやってくる。
 ある時には、溢れるほどの青薔薇を抱えて現れた。

「気に入ってくださいましたか? オフィーリアの美しい髪と瞳に似た色を探したのです」

 頬を染める彼こそが、美しい。
 この上なく甘い視線で囁れて、オフィーリアは倒れる寸前であった。
 別の時には、繊細華美な銀細工を手に現れ、オフィーリアの腕に飾って瞳を細めた。

「思った通り。よくお似合いですよ」

 頬を上気させて、彼は満足そうに頷いた。恋をする者の眼差しに、オフィーリアの胃は重くなるばかりだ。
 一途にオフィーリアを気遣い、もの珍しい果物や花茶で気を引こうとする。
 どれだけ線を引いても、アシュレイは構わずに飛び越えてくる。
 惜しみなく注がれる愛情が、苦しい……
 解呪の欠片も思いつかぬまま、寄せられる想いだけが募っていく。
 魔法が切れた時、果たしてこの美しい精霊王は、どのように振る舞うのだろう?
 想われるほどに、不安になる。罪悪感に、押し潰されてしまいそうだ。
 魔法をかけてから、もうどれだけ過ぎた? いつまで、この尊い方の心を縛り続けるのだろう?
 早く、早く、罪悪感から解放されたい。
 どのような結末が待っていようとも、魔法を解いてしまいたい。
 願わくば、魔法が解けた暁には、何もいわずに世界樹宮を追放して欲しい。ロザリアと共にあることを、許して欲しい。
 日々願っているが、その時は未だ訪れない。
 今も、オフィーリアは最上階にある硝子園に誘われ、アシュレイの隣に並んで座っていた。
 席は幾つもあるのだから、離れて座りたかったのだが、三人掛け用の、柔らかな寝椅子を勧められたのだ。
 傍にいても、心は遠い。
 天に拡がる、無窮の空。視界を遮るものは何もなく、彼方には、新緑の地平線が見える。
 ぼんやり、空をゆく飛竜を眺めていると、

「裏の薬草園で摘んだで作らせました。一口飲んでみてください」

 勧められるまま、オフィーリアは硝子の杯に口をつけた。
 薔薇と葡萄酒の芳醇な香りが漂う。すっきりとした口当たりに、知らず口元を緩めた。杯を傾けながら、思考は沈んでいく。

「どうして、魔法をかけてしまったのかしら……」

 何遍口ずさんだことか。口の中だけでひっそりと呟いたつもりが、耳に拾ったらしいアシュレイは、ふと寂しげな表情を浮かべた。

「貴方は、笑ってくださかったと思えば、そうして憂えた表情をする」

「……ご好意が心苦しくて」

 苦しげに呟くオフィーリアを見て、アシュレイの表情も翳った。

「何度も申し上げましたが、私は魔法にかけてくださったことを、感謝しています」

「……」

「冷めた私の心を、照らしてくださった。貴方は、星と同じくらいに煌めいている。眼に映る景色を鮮やかに見せてくれる。今まで、これほど高揚し、満ち足りて、幸せだと感じたことはありません」

 静かになるオフィーリアを見て、アシュレイは苦笑を零した。己の情熱を知ってもらうには、まだ言葉が足りぬが、魔法に引け目を感じるオフィーリアにとって、それは逆効果であると判っていた。

「……硝子園にお誘いしたのは、空がよく見えるからです。今から、精霊界ハーレイスフィアの夜空を見せてさしあげます」

 空気を変えるように提案すると、興味を引かれたオフィーリアは顔を上向けた。

「夜空?」

 陽の沈まぬ、悠久の精霊界で?
 不思議そうにしているオフィーリアを見て、アシュレイは嬉しそうに微笑んだ。

「では、ご覧に入れましょう」

 アシュレイは座ったまま空に向かって手をかざすと、掌を上向け、ぴたりと宙で止めた。すぅと下に降ろすと、空はたちまち闇に包まれた。

「わ……」

 真っ暗な室内に、金色の明かりがあちらこちらに灯った。仄かな蜜蝋の香りが漂う。

「灯火を絶やさない精霊界ではありますが、こうして夜を楽しむこともできます」

「星が見える……」

「貴方は、明るい日射しの下では、素顔を見せようとしてくれないけれど……」

 外套のフードに手をかけられ、オフィーリアは慌てた。押えようと布を握りしめると、宥めるようにアシュレイは優しくほほえんだ。

「夜なら、構わないでしょう」

「わ、我が君」

「俯いていては、素晴らしい光景を見れませんよ」

 フードが脱げた途端に、視界はぐんと広がった。被り直そうとするオフィーリアの頬を、アシュレイは両手で挟んで上向かせる。
 視界に飛び込んでくる、夜空を彩る光の衣。幻想的な色彩に眼を奪われた。

「わ……」

「美しいでしょう?」

 夜空に心を奪われていると、頬に視線を感じた。

「ようやく、顔を見れた」

 慌ててフードを探るオフィーリアの手を、アシュレイは掴んだ。

「隠そうとしないで」

「お、お許しください」

「恐がらないで。誰も見ていませんよ。私と貴方しかいないでしょう?」

「でも……」

「貴方はいつも震えている」

 鱗の散った目じりに、優しいキスが落ちる。震えるオフィーリアの身体を、アシュレイはそっと抱き寄せた。

 この日を境に――
 悠久の精霊界に、昼と夜が交互に訪れるようになった。
 地上のように陽が暮れると、空は茜射す黄昏に染まり、天鵞絨びろうどのような夜の帳が下ろされる。
 夜の静寂しじまと、東の空が白み始め、真紅の一筋が空に走るまでの時間を、オフィーリアは愛するようになった。
 昼の間は姿を消し、夜に現れる精霊王の想い人は、いつしかこう呼ばれる――黄昏の君。